本消息は、 本願寺に蔵せられる宗祖の内室恵信尼公の自筆文書である。 末娘の覚信尼公宛の譲状二通 (註釈版には収録されていない) と消息八通からなっており、 「恵信尼文書」 ともいわれる。
本消息が、 覚信尼公をはじめ覚恵・覚如上人父子らによって古くから本願寺に伝持されていたことは、 書状に記された別筆の端書や註記等で知られる。 また、 覚如上人の ¬口伝鈔¼ 第十一・十二条などには、 明らかに本消息の影響が見られる。
その後、 江戸時代には、 本願寺の宝蔵の目録に 「恵信尼公之御文一通」 「恵信尼公御書七通」 等との報告はみえるものの、 広く知られるところではなかった。 そうした状況が一変したのは、 大正十二 (1923) 年に、 鷲尾教導氏が全文の写真版を添え ¬恵信尼文書の研究¼ を刊行してからである。 これに基づき各方面からの研究が行われはじめ、 宗祖の行実を含めた様々な事柄が明らかとなっていった。
内容については、 まず最初の二通が 「けさ」 などの譲状である。 第一通は、 最初に与えた譲状が消亡したというので再度送ったというものであり、 第二通は、 その第一通が確かに届いたのかどうか不明であったため、 もう一度送ったというものである。 これらは、 いわゆる証文であり、 他の八通とは性質を異にする。
後の八通は消息であり、 まず前半の四通は、 宗祖の御往生を知らせる覚信尼公の報に対する返信である。 恵信尼公が宗祖のことを懐かしく回想されたものであるが、 その中にこれまで不明であった点を明らかにする内容が多く含まれており、 宗祖の生涯を知る上で第一級の資料と位置づけられる。 なかでも注目すべきは、 宗祖が比叡山で堂僧をつとめられていたことや、 源空 (法然) 聖人との出会いに至るまでのことを示した記述であろう。 また宗祖がかつて三部経千回読誦を中止したことを回顧されたことや、 源空聖人が勢至菩薩の化身、 宗祖が観音菩薩の化身であるという恵信尼公の夢に関する記述などにも注目される。
後半の四通は、 恵信尼公が身辺の近況を綴ったものである。 当時、 北越という地で、 一人の女性が念仏の中に晩年を過ごした、 いわば生活記録といえる部分であり、 飢饉によって身の回りの者が逃散したことや、 側近の子女や孫達を養育しながら、 自らの命終が近いことを察して五重の卒塔婆を所望されたこと等が知られる。 また遥か遠くの地にいる覚信尼公の近況、 とりわけ孫のことを詳しく知らせるように述べられ、 今生での再会は最早かなわないので共に念仏を申して極楽での再会を期するように述べられるなど、 母親としての様々な顔も窺える内容となっている。