法然上人伝法絵 解説
本書は、 源空 (法然) 聖人の生涯を記したものである。 題号に 「伝法絵」 とあることから、 本来は絵と詞書によって構成されていたと考えられるが、 伝存するのは下巻の詞書のみである。 その点から、 本書は流布していたもののうち、 詞書のみを書写したのではないかとも推測されている。
本書には、 源空聖人の後半生に関する事績が記されている。 内容は、 「七箇条起請文」、 「九条殿にまいりて……頭光を現じ蓮華をふみ」、 「三尊大身を現じ給ふ」、 「吉水をいでゝ小松殿におはしましける時」、 「権律師隆寛」 に 「選択集」 付属、 「上西門の女院にて上人七日説戒」、 「遠流の事」 (「住蓮安楽二人」 の 「死罪」)、 「大納言の律師公金」、 「摂津国経のしまにとまらせ給」、 「播磨のむろにつき給」、 「讃岐国しほあきの地頭駿河権守高階の時遠入道西仁がたちにつき給ふ」、 「生福寺につき給ふ」、 「善通寺」、 「さぬきの松山」、 「建暦元年八月かへりのぼり給べきよし」 (赦免、 勝尾寺に止錫)、 「老病の上に不食ことに増して」、 「この十余年念仏功つもりて」 (諸人瑞夢語)、 「廿五日の最後」 (往生)、 「御中陰御仏事の事」、 嘉禄の法難、 「入道随蓮」 の往生、 承久の乱予見などの記事を収めている。 また、 最後には、 「南无阿弥陀仏」 の名号が記される。
源空聖人の伝記絵巻は、 聖人の示寂後に数多く制作された。 広く知られているのは、 ¬法然上人行状絵図¼ (四十八巻伝) や本願寺第三代宗主覚如上人が制作した ¬拾遺古徳伝絵詞¼ であるが、 本書は、 それらの中でも最初期の成立と考えられている。 同系統のものには、 福岡県善導寺蔵 ¬本朝祖師伝記絵詞¼ (伝法絵流通) や、 昭和二十五 (1950) 年に雑誌 ¬国華¼ 第705号に紹介された ¬法然上人伝法絵¼ (国華本)、 釈弘願なる人物が所持していたとされる ¬法然聖人絵¼ (弘願本) がある。 この系統の原本は、 ¬本朝祖師伝記絵詞¼ の奥書により、 源空聖人の示寂後二十五年の嘉禎三 (1237) 年に、 詞書を耽空 (湛空) が執筆し、 絵を観空 (源光忠) が描いて成立したと考えられている。 しかし、 成立年時が伝えられるのみで現存していない。 本書は、 その嘉禎三年から約六十年後の永仁四 (1296) 年に書写されたもので、 現存する同系統の中では最古のものと考えられている。 このことから、 源空聖人の伝記絵巻の成立を考える上において、 非常に重要な位置を占めるものである。
本書は下巻のみの伝存で、 その内容は ¬本朝祖師伝記絵詞¼ の巻二終から巻四終までに相当する。 しかし、 本書の方が詞書の分量が非常に多く、 また、 その記述には伝記的なものよりも法義的なものの方が豊富である。 本書の特徴の一例として、 「七箇条起請文」 では、 二尊院本において漢文であったものを和文にしている点や、 門弟の署名順序も宗祖が第九番になっている点に加え、 署名の大部分が省略されている点が挙げられる。 また、 ¬本朝祖師伝記絵詞¼ と比較すると、 次のような相異が見られる。 たとえば 「上西門の女院にて上人七日説戒」 の記事が 「遠流の事」 の直前に置かれている点や、 その 「遠流の事」 における安楽・住蓮の記事は ¬本朝祖師伝記絵詞¼ には見られない内容が挿入されている点がある。 さらに 「高階の時遠入道西仁」 の記事では、 簡略であった内容が詳細に描かれている点や、 勝尾寺における聖覚法印の説法も非常に詳しく記されている点が見られる。 そして、 源空聖人往生後には、 「入道随蓮」 の往生や、 承久の乱を予見する記事が挿入されている。
なお、 高田派専修寺や愛知県妙源寺などに、 本書の詞書と概ね一致する絵伝が伝存している。