大蔵経について
今日、 仏教関係典籍の全集を大蔵経と称するが、 その淵源は言うまでもなく釈尊の説かれた教えである。 釈尊は、 多くの苦しみ悩む人々に対して、 平等に仏教を説いた。 一人一人の悩みに応えることにより、 また大衆に対する説法では聴衆それぞれの智慧や機根が異なることにより、 結果的に多数の教法が成立した。 そして仏弟子たちが増大するにつれて、 教団を統制するための律が制定された。 この 「法」 と 「律」 とが、 釈尊の説かれた教えの中核をなすものである。 釈尊滅後、 仏弟子たちは、 釈尊の教法に対する註釈研究を 「論」 として集成したことで、 仏教聖典は膨大なものとなり、 これらが後にまとめられて所謂大蔵経が成立するに至ったのである。
大蔵経は一切経とも呼ばれている。 両語に対応するインドの原語は不明であり、 中国で成語化されたものとも考えられている。 「一切経」 の初出は北魏の時代であり、 「大蔵経」 は唐代であるから、 歴史的には 「一切経」 の使用のほうが古いとされる。 仏教聖典の総称としてインドにおいてはトリ・ピタカという語が使用された。 トリは 「三」、 ピタカは 「篭」 の意味である。 篭とは種々のものを入れる容れ物であり、 「蔵」 の意に通ずるから三蔵と漢訳されたという。 釈尊の教え (ダルマ) の集成が経藏であり、 釈尊の制定された教団規則 (ヴィナヤ) の集成が律蔵である。 この両者を二蔵と呼ぶ。 釈尊の教法に対し後に仏弟子たちが註釈研究 (アビダルマ) を重ね、 それを集めたものが論蔵である。 この経藏・律蔵・論蔵を合わせて三蔵と呼ぶのである。
仏教は紀元前四・五世紀頃、 釈尊が説いた教えである。 釈尊は、 カピラ城の王シュッドーダナ (浄飯王) の子息として誕生し、 名をガウタマ・シッダールタと称した。 三十五歳の時、 ブッダガヤーの菩提樹の下で三昧に入り、 十二月八日の暁、 大悟し仏陀と成った。 釈迦族出身の聖者であるから釈尊 (釈迦牟尼世尊) と尊称される。 成道後、 釈尊は自らの悟りの内容を広く他の人々に伝え、 他の人々をも悟らしめんがために教化伝道を開始された。 最初に法を説いたのは、 サールナートのムリガダーヴァ (鹿野苑) において、 苦行生活を共にした五人の修行仲間に対してであった。 これが 「初転法輪」 と呼ばれているものである。 ここに仏教史上初めて、 仏陀 (仏宝) と、 その教えである教法 (法宝) と、 五比丘よりなる教団 (僧宝) の三宝が成立したのである。 その後、 釈尊の布教伝道は、 マッラ国のクシナガラにおいて八十歳で入滅するまでの四十五年間に亘り続けられたのである。
仏教興起時代の正統バラモン教では、 その聖典は文法に適ったヴェーダ語 (雅語) によるものであった。 これに対し、 釈尊が説法教化で使用した原語は、 ガンジズ河中流地域の民衆の日常語である古代マガダ語であったといわれている。 このことは、 釈尊の教化姿勢に起因する。 釈尊は教化対象者の如何を問わず、 苦悩を抱えるあらゆる人々が理解できる言葉で語り、 弟子たちにも民衆語で法を説くべきであると命じた。 故に仏滅後も、 仏教が諸地域に伝播する際には、 それぞれの地域の民衆語によって説き広められたのである。
釈尊入滅後まもなく、 教法の散逸を危惧した仏弟子たちによって、 釈尊の法と律とが結集された。 結集 (サンギーティ) とは 「合誦」 の意味で、 釈尊の教法を確認しあう仏典編集会議のことをいう。
第一結集 (五百結集) は、 釈尊入滅の年の最初の夏安居の期間に、 マガダ国ラージャグリハ (王舎城) 郊外の七葉窟において、 五百人の阿羅漢によって行われたとされる。 マハーカーシュヤパ (摩訶迦葉) が議長となり、 持律第一のウパーリ (優波離) が釈尊の定められた律を、 多聞第一のアーナンダ (阿難) が釈尊の説かれた法を誦出し、 その内容を五百人の阿羅漢全員で確認しあった。 ここに経藏と律蔵との二蔵が成立したのである。
第二結集 (七百結集) は、 仏滅後百年を経過した頃、 戒律の解釈をめぐる異論を根拠として、 ヴァイシャーリー (毘舎離城) において、 ヤシャス (耶舎) を中心として行われたとされる。 この結集の後ほどなくして、 釈尊在世時より一つであった教団は、 二つに分裂 (根本分裂) した。 以降二百年から三百年の間に、 二次的分裂 (枝末分裂) を繰り返し、 約二十の部派に分かれたとされる。 このような分裂を繰り返した原因は、 単に律の解釈の相違によるだけではなく、 各部派それぞれの立場からの経典解釈をめぐる対立もあったとされる。 その結果、 各部派によって膨大な教義綱要書である 「阿毘達磨 (アビダルマ)」 が作成された。
第三結集 (千人結集) は、 仏滅後二百年を経過した頃に、 パータリプトラ (華氏城) で行われ、 モッガリプッタ・ティッサ (目犍連子帝須) を中心として、 経藏・律蔵に加えて論蔵が集成され、 ここに三蔵が成立したのである。
釈尊の説かれた教法と律は、 数百年間は所謂口承であり、 文字には書き記されることはなかった。 聖典の口頭伝承は、 インドの伝統に基づくものであった。 文字として書写されるようになるのは、 仏滅後三百年から四百年を経過してからのことである。 南伝仏教の伝承によれば、 紀元前一世紀頃にスリランカ (正論島) を治めていたヴァッタガーマニー・アバヤ王 (紀元前89-77在位) の時代に行われた第四結集においてであったとされる。
根本分裂以降、 各部派は諸地域のプラークリット (俗語) によって仏典を伝えた。 その後、 インド以外の諸地域に伝えられるようになると、 インド語以外の言語にも翻訳された。 但し、 アショーカ王の伝道師派遣によってスリランカに伝えられた上座部仏教は、 中期インド・アーリア語のパーリ語のまま伝承され、 その後、 ミャンマー (ビルマ)、 タイ、 カンボジア、 ラオスの諸国に伝播し、 南方上座部仏教圏を形成していった。 彼らはパーリ語の三蔵をそのまま伝承し、 更には註釈書 (アッタカター) や復注 (ティーカー)、 復々注 (アヌティーカー)、 その他の史書・詩書・文法書などを作成し、 それらすべてを大蔵経として集成した。 これが所謂 「パーリ語大蔵経」 である。 その構成は、 律蔵・経藏・論蔵・蔵外の順序であり、 経藏は長部・中部・相応部・増支部・小部の五部 (ニカーヤ) に分類されている。
これに対して北伝仏教では、 インドの西北方のアフガニスタンや中央アジア諸地域に伝わり、 諸民族の言語に翻訳された。 中央アジアに伝播した仏教は、 諸地域の言語、 即ちパクトリア語、 トカラ語、 ソグド語、 コータン語、 トゥムシュク語、 ウイグル語、 チベット語等に翻訳された。
七世紀に仏教が伝来したチベットでは、 多くのインド語仏典が翻訳され、 また漢訳経典からの重訳も行われた。 写本で伝持されていた大蔵経は、 十四世紀初頭、 チベット西部のナルタン寺において、 初めて開版された。 その後も増補改訂され、 諸大蔵経中で最も多くの経典を収録する膨大な大蔵経となった。 これが所謂 「チベット語大蔵経」 である。 その構成は、 経藏・律蔵に相当するカンギュル (甘殊爾) と論蔵に相当するテンギュル (丹殊爾) との二蔵形式である。 原典の逐語訳である多数の大乗経典や密教経典を収録した貴重な大蔵経である。
そして中央アジアの言語に翻訳された仏典は、 インド語の原典と共に中国に将来され、 二世紀中頃から古典中国語 (漢文) への翻訳が開始され、 北伝仏教および大乗仏教の発展に多大な影響をもたらした所謂 「漢訳大蔵経」 を形成するに至るのである。
中国への仏教初伝は、 後漢の明帝 (57~75在位) が夢に金人 (仏像) を見て、 使いを大月氏国に遣わし、 永平十 (67) 年に迦葉摩騰と竺法護を落陽白馬寺に迎えた時と伝えられる。 そして中国に仏教経典が伝わると仏典翻訳が行われるが、 インドや西域各地からの多くの仏教僧が迎えられて訳経事業に参画した。 建和二 (148) 年、 パルティア (安息国) 出身の安世高が、 落陽に来て禅観経典などを訳出したのがその最初とされる。 その後、 月氏国出身の支婁迦讖が ¬道行般若経¼ や ¬般舟三昧経¼ 等の大乗経典を漢訳し、 泰和二 (266) 年から永嘉一 (308) 年にかけて、 敦煌出身の竺法護が ¬光讃般若経¼ ¬正法華経¼ ¬維摩詰経¼ 等、 多数の経典を訳出した。 また弘始三 (401) 年には、 東トルキスタンのクチャ (亀茲国) 出身の鳩摩羅什 (344~413頃) が長安に来て ¬妙法蓮華経¼ や ¬阿弥陀経¼ など三十五部三百余巻を訳出している。 また北インド出身の仏陀跋陀羅 (359~429)、 中インド出身の曇無讖 (385~433) らが、 そして多くの訳経僧が参画して仏典の翻訳を行ったので、 隋唐時代には中国仏教の全盛期を迎えることとなる。 多くの訳経僧の中でも特に後世の仏教に大きな影響を及ぼしたのは、 前述の鳩摩羅什と六世紀中頃の西インド出身の真諦 (499~569)、 そして七世紀中頃の唐の玄奘 (602~664) と八世紀中頃の不空金剛 (705~774) であり、 中国における四大訳経家と称されている。 また漢訳典籍を訳出年代によって分類する場合、 鳩摩羅什以前の漢訳を 「古訳」 といい、 鳩摩羅什訳から玄奘以前までの漢訳を 「旧訳」、 玄奘以降を 「新訳」 と呼ぶ。
こうした仏典翻訳の過程で、 漢訳経典を類別編集した経典目録が作成されるようになる。 その嚆矢といわれるのは、 四世紀に活躍した東晋・道安 (312~385) の ¬綜理衆経目録¼ (道安録) である。 これそのものは散逸して現存しないが、 梁の僧祐 (445~518) 撰 ¬出三蔵記集¼ (僧祐録) によりその内容が知られる。 その後、 隋の開皇十四 (594) 年に法経等の撰した ¬衆経目録¼ (法経録)、 開皇十七 (597) 年に費長房の撰した ¬歴代三宝記¼ (長房録)、 仁寿二 (602) 年に大興善寺の訳経僧彦琮 (646~700) 等が撰した ¬衆経目録¼ (仁寿録)、 また唐代の経録である ¬大唐内典録¼ ¬大唐刊定衆経目録¼ 等を経て、 開元十八 (730) 年に経録の決定版ともいうべき智昇撰 ¬開元釈教録¼ (開元録) 二十巻が登場するに至った。 この ¬開元録¼ には、 後漢から唐の開元年間までに漢訳された大小乗の経・律・論及び賢聖集伝を合わせた千七十六部五千四十八巻が収録されており、 これが中国における大蔵経編成の基礎となった。 その後、 貞元十六 (800) 年には、 唐の円照が智昇の ¬開元録¼ に若干の訂正を施し、 さらに ¬開元録¼ 以降に訳出された漢訳典籍を加え、 ¬貞元新定釈教目録¼ (貞元録) 三十巻を完成させた。
漢訳大蔵経は、 後漢から元の時代まで約千三百年間にわたり翻訳された仏典を収集編纂して成立し、 宋代以降は、 大蔵経の印刷が行われるようになった。 近年の版本学の研究成果によれば、 宋・元時代の大蔵経は大きく三系統に分類される。
第一類は開宝蔵の系統である。 中国において初めて印刷された大蔵経である開宝蔵は、 971年から977年頃に成立し、 宋の太宗の命によって成立したことから北宋勅版とも、 木版印刷が盛んであった蜀の成都で成立したことから蜀版とも呼ばれる。 開宝八 (975) 年に都の汴京に運ばれ、 朝廷に進呈されて印刷された。 現在は、 そのほとんどが散逸しているが、 開宝蔵の系統に含まれるものとして、 高麗版初雕本・高麗版再雕版・金版大蔵経が挙げられる。 いずれも、 体裁は巻子装、 一紙二十三行、 一行十四字である。
第二類は契丹蔵の系統である。 契丹蔵は、 中原仏教の流れを継ぐものとされており、 興宗の重熙年間 (1032~1054) に開雕、 校訂が行われている。 燕京の弘法寺で雕印されたが、 現存するのはわずかである。 契丹蔵系統は体裁は一紙二十七行、 一行十七字であり、 この系統に含まれるものとして、 房山石経 (遼金刻経) が挙げられる。
第三類は江南諸蔵系統である。 江南諸蔵とは、 中国の江南地方で開版された大蔵経群を指し、 東禅寺版・開元寺版・思渓版・磧砂版・普寧寺版大蔵経が挙げられる。 これらの体裁は基本的には折本装、 一紙三十行 (ただし東禅寺版は三十行~三十六行)、 一行十七字である。
その他、 明版大蔵経や、 正倉院聖語蔵なども、 大蔵経に含めることができる。