本経は二世紀後半から三世紀の訳出とされ、 現存する ª無量寿経º の中、 最古のものと位置づけられる。 また、 現存する梵本無量寿経写本よりも先に漢訳されており、 ª無量寿経º の原初形態を考究する際には、 きわめて重要視される。 本経の訳者については諸経録では支謙訳で一致しているが、 訳語などから支婁迦讖訳、 あるいは支婁迦讖原訳、 支謙改訳とする説もある。 支婁迦讖は二世紀頃に活躍した月支国出身の訳経僧で、 支讖ともいう。 後漢の桓帝 (在位146~167年) 末に洛陽へ入り、 大乗経典である ¬道行般若経¼ ¬般舟三昧経¼ ¬首楞厳経¼ など十四部二十七巻を訳出したといわれる。 支謙は大月氏国の人で、 二世紀末から三世紀頃にかけて活躍し、 三国時代の呉の孫権に信任された訳経僧である。 支婁迦讖の孫弟子とされ、 ¬維摩詰経¼ ¬瑞応本起経¼ など三十六部四十八巻を訳出したとされる。
本経の具名は 「仏説阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経」 といい、 単に 「阿弥陀経」 とも略称されるため、 鳩摩羅什訳の ¬阿弥陀経¼ との混同をさけて 「大阿弥陀経」 と呼ばれる。 上下二巻からなる。
本経の上巻では、 序分では羅閲祇耆闍崛山中に参集した比丘などの名が説かれ、 その中の阿難が釈尊に問いを発する場面より始まる。 正宗分では曇摩迦 (法蔵) 菩薩が楼夷亘羅仏 (世自在王仏) のみもとで発心し、 国土の好醜を選択したことが示され、 二十四願の建立と修行とが述べられる。 続いて、 願と行との完成が説かれ、 その果徳である阿弥陀仏の光明が無量・極善であることが示される。 次に、 阿闍世王太子への授記が示され、 阿弥陀仏は成仏して十小劫が経過していること、 宝地や講堂・宝池・眷属・宝樹・楽音などの浄土の様相が説かれる。 また、 浄土の聖衆についても、 諸仏供養が自在であること、 聖衆が無量であること、 証果を自在に得ることなどが述べられる。 そして、 阿逸 (弥勒) 菩薩との問答が置かれ、 続けて阿弥陀仏の光明と寿命とについて、 阿弥陀仏が般泥洹した後には楼亘 (観音)・摩訶那鉢 (勢至) 両菩薩が補うことが示され、 阿難との須弥山についての問答があり、 上巻が終わる。
下巻では、 阿逸菩薩に三輩の往生が説かれて阿逸菩薩の領解が述べられた後、 三毒五悪段が示される。 続けて、 阿難に称名が勧められ、 その勧めを受けた阿難の前に光明を放った阿弥陀仏が現れたことが説かれ、 阿逸菩薩に十方の仏国から菩薩が往生することが示され正宗分が終わる。 最後の流通分では、 釈尊が涅槃に入った後にも本経をとどめおくことが示され、 阿逸菩薩たちに本経が付属されて下巻が終わる。
本経のみに見られる特徴には、 偈頌がないことや音写語が多用されることなどが挙げられる。 また、 本経の成立には阿闍世王太子への授記の箇所で一旦完結しているとされることや、 対告者の違いによる断絶が見られることなどから、 順次増広されて成立したとする見解もある。 なお、 王日休が ª無量寿経º の漢訳のうち ¬如来会¼ 以外の内容をまとめた ¬仏説大阿弥陀経¼ が存在するが、 本経とは別のものである。