→浄土三部経
本経の訳者は、 諸経録では曹魏の康僧鎧とされ、 諸宗派でも伝統的に康僧鎧とされる。 近年の研究では本経の訳者について、 421年頃に東晋の仏陀跋陀羅 (覚賢) と劉宋の宝雲とによって共訳されたとする説が有力で、 また308年の訳出とされる西晋の竺法護説や宝雲の単訳説などの諸説もある。
康僧鎧は三世紀頃に活躍した訳経僧で、 インド出身と伝えられるが、 「康」 との名から康居国の人とされている。 嘉平四 (252) 年頃に洛陽に入って本経などを訳出したという。 仏陀跋陀羅は359年から429年に活躍した訳経僧で、 覚賢ともいう。 北インド出身とされ、 弘始八 (406) 年に長安で鳩摩羅什と親交し、 その後、 廬山・荊州・建業などに住して訳経に従事したという。 宝雲との共訳 ¬大般泥洹経¼ 六巻などの訳出がある。 宝雲は四世紀から五世紀に活躍した中国の訳経僧で、 インドの仏跡を巡拝した後、 長安の仏陀跋陀羅の門下となり、 ¬仏本行経¼ などを訳出したという。 竺法護は239年から316年に在世した訳経僧で、 大月氏国からの帰化人の末裔、 敦煌出身とされる。 ¬光讃般若経¼ ¬正法華経¼ ¬維摩詰経¼ などを訳出したという。
本経は、 「大無量寿経」 「大経」 とも称され、 上下二巻であることから 「双巻経」 とも呼ばれる。 内容は大きく序分、 正宗分、 流通分に分けられる。 序分には、 王舎城の耆闍崛山に参集した比丘などに、 釈尊が五徳瑞現の相を示されたことについて阿難が理由を問う場面に始まり、 如来がこの世に出興した理由は、 苦悩の群萌に真実の利益を与えて救うためと示される。 正宗分は、 弥陀願力の本成と釈尊の指勧の二つに大別される。 初めの弥陀願力の本成では、 法蔵菩薩が発願修行して阿弥陀仏となった仏願の始終が説かれる。 まず、 法蔵菩薩が世自在王仏のもとで発心した事が示され、 世自在王仏を讃えつつみずからの願いを述べる 「讃仏偈」 が置かれる。 その後、 諸仏の浄土から清浄の行を選択摂取して、 四十八願が述べられる。 この中、 すべての衆生を名号によって救うことを誓った第十八願が根本であり、 王本願とも選択本願ともいわれる。 次に、 「重誓偈」 と法蔵菩薩の兆載永劫にわたる修行が示され、 その結果として阿弥陀仏となり十劫を経ていることや、 阿弥陀仏の徳と浄土の相が示されて上巻が終わる。 下巻では、 衆生往生の因果と釈尊の指勧が説かれる。 まず、 衆生往生の因果では第十一、 十七、 十八願の成就が示され、 衆生は阿弥陀仏の名号を聞信する一念に往生が定まるとし、 「往覲偈」 では往生する衆生が讃えられ、 その後に往生した衆生の徳が讃えられる。 次の釈尊の指勧では、 対告者が阿難から弥勒菩薩になり、 三毒五悪の誡めや胎生と化生の得失が判定され、 仏智を信じるべき旨が勧められて正宗分が終る。 流通分では、 無上功徳の名号を受持せよと勧め、 すべての法が滅尽しても、 この経だけは百歳留めおいて人々を救いつづけると説いて本経は終わる。
本経は ª無量寿経º の中では後期無量寿経の最初に位置づけられ、 ¬無量寿如来会¼ と内容等が類似する。 初期無量寿経との相違として願文が四十八願であることや、 胎化段が置かれることなどがある。 また、 ¬無量寿如来会¼ には三毒五悪段がないという相違も見られる。
なお、 本経は朝鮮半島で成立した高麗版 ¬大蔵経¼ 所収本系統および中国で成立した宋版・元版・明版などの ¬大蔵経¼ 所収本系列と、 日本で流布した流伝本系統との二つに大きく分類される。 その相違は、 例えば 「讃仏偈」 の 「我当哀愍」 の部分が、 高麗版・中国版系統では共に 「我当愍哀」 となることなどに見られる。 また、 更に分けると、 高麗版系統と中国版系統とにも相違が見られ、 高麗版系統のみ 「和顔愛語」 が 「和顔輭語」 となることや、 中国版系統のみ四十八願の 「国中人天」 が 「国中天人」 となることなど、 高麗版系統と中国版系統とには、 文言の相違が多く見られる。 一方、 流伝本系統は、 清浄華院蔵本や浄土宗・真宗大谷派などの蔵版と比較しても大きな文言の相違は見られない。 よって、 本聖典では拝読の便を鑑みて、 流伝本系統の中の本派本願寺蔵版本を底本として用いた。
→異訳大経