11 菩ぼ薩さつ 菩薩とは、 梵語ボーディサットヴァ (bodhisattva) を音写した語で、 菩ぼ提だい薩さっ埵たともいい、 菩ぼ薩さつ摩訶まか薩さつ (摩訶薩は梵語マハーサットヴァ ªmahāsattvaº の音写、 大士と漢訳)、 あるいは覚かく有う情じょう・道どう衆生しゅじょう・道心どうしん衆しゅ生じょうなどともいう。 さとりを求めて修行するもの、 すなわち求道者の意である。 最初期は成じょう仏ぶつする以前の修行時代の釈尊を指す言葉 (釈迦菩薩)で、 「さとりに定まった有情」 を意味するものであった。 それが大乗仏教になると、 意味が拡大されて、 出家・在家、 男女を問わず、 仏陀のさとりを求めて修行するものをすべて菩薩と呼ぶようになったのである (凡ぼん夫ぶの菩薩)。 また大乗仏教では、 普ふ賢げん・観音かんのん・文殊もんじゅなどの大菩薩の存在も説かれるようになった。 これらは生きとし生けるものを教化してやむことのない利他の精神に根ざした菩薩であり、 普賢の行、 観音の慈悲、 文殊の智慧ちえなどがそれぞれ高唱されて、 人々の信仰を集めるようになった。
 大乗仏教の菩薩はすべて菩薩としての共通の願 (総願。 一般に四し弘ぐ誓ぜい願がんとして示される) をもつといわれるが、 特別に独自の願 (別願) をたてるものもある。 その典型的な例が ¬大だい教きょう¼ に説かれる法蔵ほうぞう菩薩の願である。 ¬大教¼ によると、 久く遠おんの昔、 世せ自じ在ざい王仏おうぶつのもとで一人の国王が出家して法蔵と名のり、 一切衆生を平等に救おうとして四十八の大願をおこし、 兆載ちょうさい永劫ようごう (はかりしれない長い時間) の修行を経て、 今から十劫の昔に正しょう覚がくをひらき阿弥陀仏になったと説かれている。 阿弥陀仏はこの因いん位にの法蔵菩薩の願行に酬報 (むくいあらわれる) したものであるため、 報身ほうじん仏ぶつとされるのである。
 また大乗仏教の菩薩は仏に随伴するものとして仏事 (衆生救済のはたらき) をいよいよ荘厳しょうごんしていく存在でもある。 ¬大教¼ は阿弥陀仏の浄土に数かぎりない菩薩がいると説くが、 それらはまさしくこの仏事を荘厳し成就していく菩薩である。 天親てんじん菩薩の ¬浄じょう土ど論ろん¼ および曇鸞どんらん大師の ¬論ろん註ちゅう¼ では、 この浄土の菩薩に論及し、 次のような四種の正しょう修行しゅぎょう功く徳どく (真如しんにょにかなった修行の徳) があることを指摘している。
 ①不ふ動どう而至にしの徳。 三昧さんまい力りきによって、 身を浄土に置いたままで、 十方世界に至り諸仏を供く養ようし衆生を教化する。
 ②一念いちねん遍へん至しの徳。 一念同時に十方世界に至り化け益やくをほどこす。
 ③無む相そう供く養ようの徳。 一切世界の諸仏の会座にあますところなくあらわれて、 すべての諸仏を供養し讃嘆さんだんする。
 ④示じ法ほう如仏にょぶつの徳。 無仏の世界に出現して仏法僧の三宝さんぽうを称讃し住持する。
 阿弥陀仏の浄土はこうした功徳を具える無数の菩薩によって主 (仏) 伴 (眷属けんぞく) 具ぐ足そくし、 法ほっ性しょうの世界としての徳をかぎりなくあらわしだすことになるのである。
 なお、 親鸞しんらん聖しょう人にんはこの菩薩の四種正修行功徳について述べる ¬論註¼ (下) の文を、 「証文類」 の還相げんそう回え向こう釈下に引用されている。 その引用は四種の功徳をすべて仏果を証した還相の菩薩の大悲のはたらきとするものであり、 ¬論註¼ の原意趣を如来回向の義からさらに一層深めていかれたものと窺うことができる。