7 信しんの一念いちねん・聞もん 親鸞しんらん聖しょう人にんは ¬大だい経きょう¼ (下) の第十八願成じょう就じゅ文もんに、 「あらゆる衆しゅ生じょう、 その名みょう号ごうを聞きて信心歓喜せんこと、 乃ない至し一念せん。 (中略) すなはち往生を得、 不退転に住せん」 と説かれた 「乃至一念」 を信の一念とみなし、 「信巻しんかん」 (末) には、 「それ真実の信しん楽ぎょうを案ずるに、 信楽に一念あり。 一念とはこれ信楽開発かいほつの時じ剋こくの極促ごくそくを顕し、 広大こうだい難なん思じの慶きょう心しんを彰すなり」 と釈し、 また ¬一いっ多た証しょう文もん¼ には、 「一念といふは信心をうるときのきはまりをあらはすことばなり」 と釈されている。 つまり、 阿弥陀仏の本願を聞いて疑いなく信受する信心が開け発おこった最初の時を信の一念 (時剋の一念) というのである。 そのとき同時に衆生は、 かならず往生することのできる身に定まるという利り益やくを与えられる。 そのことを、 「すなはち往生することを得て、 不退転に住せん」 といわれたのであって、 このことを信益しんやく同時という。 このように、 信の一念に衆生は必ず往生することができる身に定まるということによって、 信心一つで往生が定まるという唯信正しょう因いんの法義が確立する。 そしてまた、 救いはまったく如来の御はからいによって成就するのであって、 衆生のはからいはまったくかかわらないという絶対他力のいわれがあきらかになる。
 信の一念について、 また 「信巻」 (末) には、 「一念といふは、 信心二心なきがゆゑに一念といふ」 とある。 これを前の時剋の一念に対して信相の一念という。 信相とは、 信心のすがたという意味であり、 阿弥陀仏の救済をふたごころなく疑いなく信ずることをまた一念というのである。
 なお 「信巻」 (末) には、 ¬大経¼ (下) の 「聞其名号 (その名号を聞きて)」 の 「聞」 を釈して、 「聞もんといふは、 衆生、 仏願の生しょう起き本末ほんまつを聞きて疑心あることなし、 これを聞といふなり」 といい、 名号のいわれを正まさしく聞き開いたことが信心であるといわれている。 これを 「聞即信もんそくしん」 といい、 これによって他力回え向こうの信心は名号すなわち如来の招しょう喚かんの勅ちょく命めいを聞いて成就するものであることがあきらかになる。