◗654:10 東大寺十問答 第二 俊乗房問
◗654:11 一 問。釈迦一代の聖教を、みな浄土宗におさめ候か、又三部経にかぎり候か。
◗654:12 答。八宗・九宗、みないづれをもわが宗の中に一代をおさめて、聖道・浄土の二門とはわかつ也。
◗654:13 聖道門に大小あり権実あり、浄土門に十方あり西方あり、西方門に難行あり正行あり、正行に助行あり正定業あり。かくして聖道はかたし、浄土はやすしと釈しいるゝ也。宗をたつるおもむきもしらぬものゝ、三部経にかぎるとはいふなり。
◗655: 2 二 問。正雑二行ともに本願にて候か。
◗655: 2 答。念仏は本願也。十方三世の仏・菩薩にすてられたるゑせ物をたすけんとて、五劫まで思惟し、六道の苦にゆづり、これをたよりにてすくはんと支度し給へる本願の名号也。
◗655: 4 ゆめゆめ雑行本願といふ物は、仏の五智をうたがひて辺地にとゞまる也。見仏聞法の利益にしばしばもるゝ也。これは誑惑のものの道心もなきが、山寺法師なんどにほめられんとて、仏意をばかへりみ〔ず〕いひだせる事なり。
◗655: 8 三 問。三心具足の念仏者は、決定往生歟。
◗655: 8 答。決定往生する也。三心に智具の三心あり、行具の三心あり。
◗655: 9 智具の三心といふは、諸宗修学の人、本宗の智をもて信をとりがたきを、経論の明文を出し、解釈のおもむきを談じて、念仏の信をとらしめんとてとき給へる也。
◗655:11 行具の三心といふは、一向に帰すれば至誠心也、疑心なきは深心也、往生せんとおもふは回向心也。かるがゆへに一向念仏して、うたがふおもひなく往生せんとおもふは行具の三心也。五念・四修も一向に信ずる物には自然に具する也。
◗655:15 四 念仏は、かならず念珠をもたずとも、くるしかるまじく候か。
◗655:15 答。かならず念珠をもつべき也。世間のうたをうたひ舞をまふそら、その拍子にしたがふ也。念珠をはかせにて、舌と手をうごかす也。
◗656: 2 たゞし无明を断ぜざらんものは妄念おこるべし。世間の客と主とのごとし。念珠を手にとる時は、妄念のかずをとらんとは約束せず、念仏のかずとらんとて、念仏のあるじをすゑつるうゑは、念仏は主、妄念は客人也。
◗656: 5 さればとて心の妄念をゆるされたるは、過分の恩也。それにあまさへ、口に様々の雑言をして、念珠をくりこしなんどする事、ゆゝしきひが事なり。
◗656: 8 五 問。この大仏かくあふぎまいらせて候は、この大仏の御はからひにて、浄土にもおくりつけさせ給ふべく候か。
◗656: 9 答。この事沙汰のほかの事也。
◗656: 9 三宝をたつるに三あり。一に一体三宝といふは、法身の理のうゑに三宝の名をたつる也。万法みな法身より出生するがゆへ也。二に別相三宝といふは、十方の諸仏は仏宝也、その智慧および所説の経教は法宝也、三乗の弟子は僧宝也。
◗656:12 もし大仏むかへ給はゞ、三宝の次第もみだるべし。そのゆへは、画像・木像は住持の仏宝也、かきつけたる経巻は法宝也、画像・木像の三乗は僧宝也。住持と別相と、もとも分別せらるべし。
◗656:15 なかんづくに、本尊は娑婆にとゞまりて、行者は西方にさらん事、存のほかの事也。たゞし浄土の仏のゆかしさに、そのかたちをつくりて真仏の恩をなすは、功徳をうる事也。
◗657: 3 六 問。有智の人のよのつねならんと、无智の人のほかに道心ありとみへ候はんと、いづれにてか候べき。
◗657: 4 答。小智のものゝ道心なからんは、无智の人の道心あらんには、千重・万重のおとり也。
◗657: 5 かるがゆへに、无智の人の念仏は、本願なれば往生すべし。小智のものゝ道心なからんは、あるいは不浄説法、あるいは虚説人師にあり、決定地獄におつべし。
◗657: 7 たゞし无智の人の道心は、ひが事をま事とおもひて、おそるまじき事を〔ば〕おそれ、おそるべき事をばおそれぬ也。
◗657: 8 大智の人の道心なからんは、道をしりてやすくゆく人也。盲目の人を明眼の人にたとへん事、あさましき事也。
◗657:10 道心おなじ事ならば、小智のものはなを无智の人に万億倍すぐべき也。无智の人の道心は、わびてがらの事也。
◗657:12 七 問。念仏申人は、かならず摂取の益にあづかり候か。
◗657:12 答。しかなり。
◗657:13 八 問。摂取の光明は、一度てらしては、いつも不退なると申人の候は、一定にて候か。
◗657:14 答。この事おほきなるひが事也。念仏のゆへにこそてらすひかりの、念仏退転してのちは、なにものをたよりにてゝらすべきぞ。さやうにあるならば、念仏一遍申さぬものやはある。されども往生するものはすくなく、せざるものはおほき事、現証たれかうたがはん。
◗658: 3 九 問。本願には十念、成就には一念と候は、平生にて候か、臨終にて候か。
◗658: 4 答。去年申候き。聖道にはさやうに一行を平生にしつれば、罪即時に滅して、のちに又相続せざれども成仏すといふ事あり。それはなを縁をむすばしめんとて、仏の方便としてとき給へる事也、順次の義にはあらず。華厳・禅門・真言・止観なんどの至極甚深の法門こそ、さる事はあれ。
◗658: 7 これは衆生もとより懈怠のものなれば、疑惑のもの一度申をきてのち申さずとも、往生するおもひに住して、数遍を退転せん事は、くちおしかるべし。十念は上尽一形に対する時の事也。おそく念仏にあひたらん人はいのちづゞまりて、百念にもおよばぬ十念、十念にもおよばぬ一念也。
◗658:11 この源空がころもをやきすてゝこそ、麻のゆかりを滅したるにてはあらめ。これがあらんかぎりは、麻の滅したるにてはなき事也。過去无始よりこのかた、罪業をもて成ぜず身ももとのごとし、心ももとの心ならば、なにをか業成し、罪滅するしるしとすべき。
◗658:14 罪滅する物は无生をう、无生をうる物は金色のはだへとなる。弥陀の願に金色となさんとちかはせ給へども、念仏申人、たれか臨終以前に金色となる。たゞものさかしからで、一発心已後无有退転の釈をあふひで、臨終をまつべき也。
◗659: 3 十 問。臨終来迎は、報仏にておはしまし候か。
◗659: 3 答。念仏往生の人は、報仏の迎にあづかる。雑行の人々の往生するは、かならず化仏の来迎にて候也。念仏もあるいは余行をまじへ、あるいは疑心をいさゝかじふる物は、化仏の来迎を見て、仏をかくしたてまつるもの也。
◗659: 7 建久二年三月十三日東大寺聖人奉問空上人御答也