◗900: 2 選択註解鈔第二
◗900: 4 第三 本願章
◗900: 5 一 上の章に正雑二行を分別して、而も雑行を選捨てゝ正行を選取が故に、今の章には其の正行の中に、正業の念仏を以て弥陀の本願とし、往生の正業とする義を顕すなり。凡此書に三経の要文を挙て一宗の義趣を明せり、其中に当章以下の四段は、大経の文を引けり。
◗900: 9 一 弥陀如来不以余行為往生本願、唯以念仏為往生本願之文と云は、大経の十八の願を指也。
◗900:10 是に依て、彼願文を引也。観念法門の摂生増上縁の文、并に礼讃の後序の文、同彼願文を引き釈する文なるが故に、是を加へらる。
◗900:12 十六の章段の中には、この章正宗なり。選択本願念仏集と云へる題目、此章の意を顕はすが故なり。余の所談は皆此章を助成するなり。
◗900:14 一 大経の文に十方衆生と云は、善人悪人・有智無智・有罪無罪・男女老少、一切有情を摂する言也。
◗900:15 至心信楽欲生と云は三信なり。観経に説ところの三心則是也。所謂至心は是至誠心、是真実心なり。信楽は深心、これ深信の心也。欲生は廻向発願心、これ願往生の心なり。
◗901: 2 乃至十念と云は行体を顕はす。名号を称する事、上一形を尽し下十念にいたるまで、みな往生の因なり。
◗901: 4 因願にはかくのごとく十念と説たるを、願成就の文には乃至一念と説り。是易行の中の易行を顕はすことば也。故に和尚此意を得て下至十声一声等と釈し、聖人又当章の私釈に乃至の言を料簡するに、上尽一形下至十声一声等の義也と釈せり。
◗901: 7 されば往生の為には又別の因なし、至心・信楽・欲生の心を以て乃至一念せん者、皆悉往生すべし。
◗901: 9 一 観念法門の文の中に、称我名号の句と乗我願力の句とは本経に見えざる言也。而に是を加へらるゝ事は、経に乃至一念と云へるは隠顕の義あれども、顕には称名の念数也。則次上の十七の願に不悉咨嗟称我名者と云へるは名号なるが故に、今乃至十念と云へるは名号の法体なる事を顕はして、称我名号と引るゝ也。
◗901:13 乗我願力と云は、至心・信楽・欲生と云へるは自力の信に非ず、他力真実の信心なる事を顕す言也。罪悪生死の凡夫、一称一念に報土の往生を遂る事は、仏願の強縁に託するが故なりと知べし。
◗902: 1 一 往生礼讃の文にも称我名号の句あり、是も其の義観念法門の釈に同じ。
◗902: 2 彼仏今現在成仏と云へる以下は、願成就の義を引釈せらるゝ也。乃至十念の行者、往生せずは正覚を取じと誓給しに、既に正覚を成じ給ぬるは、衆生の往生決定するが故なりと顕すなり。
◗902: 5 一 総者四弘誓願是也と云は、一切の諸仏皆通じて此四の願を発すが故に総と云也。一には衆生無辺誓願度、二には煩悩无辺誓願断、三には法門无尽誓願知、四には无上菩提誓願証也。此四の中に、初の一は利他の願、後の三は自利の願也。此四弘願成就すれば、自利々他円満して无上菩提を得也。
◗902: 8 是総願の上に因位の願楽に依て、仏々各々に発しまします所の願を別願と云也。
◗902:10 一 五十三仏と云は、一々の名大経の上に説が如し。
◗902:11 一 棄国捐王、行作沙門。号曰法蔵と云は、弥陀如来の因位は法蔵比丘、法蔵比丘の前は国王也。故に国をすて王をすて沙門と成となり。
◗902:12 沙門と云は梵語也、此には勤息と云。勤善息悪の義なり。
◗902:14 一 大阿弥陀経は大経の同本異訳の経なり。選択と云言彼経より出たり、是を取て今の書の題目とせらるゝ也。
◗902:15 二十四願経と云は、彼の大阿弥陀経を指也。四十八願の内二願を一段に説て、二十四願と説たる也。
◗903: 2 一 或有以布施為往生行之土。或有以持戒為往生行之土。或有以忍辱為往生行之土。或有以精進為往生行之土。或有以禅定為往生行之土。或有以般若 信第一義等是也 為往生行之土と云は、如次六度の行なり。
◗903: 5 所謂布施と云は無貪を性とす。物を以て人に与る也。
◗903: 5 持戒と云は不放逸を性とす。身口意を守て悪を制する也。
◗903: 6 忍辱と云は無瞋を性とす。違背の境に於て安忍する也。
◗903: 7 精進と云は、善法を行じて懈怠なきを性とす。余の五波羅蜜を行ずる事勇猛にして間断なき、則是也。
◗903: 8 禅定と云は静慮なり。心の散乱なきを性とす。
◗903: 9 般若と云は智恵也。無痴を以て性とす。智に多種あり、註に信第一義と云は、其一を挙也。第一義は空なり。されば畢竟空寂の理を達する空智を指也。
◗903:12 一 或有以菩提心為往生行之土と云は、菩提心に於て諸宗の所談各別なるが故に、種々の不同あり。然ども大意は度衆生・願作仏の心なり。則前に云所の四弘誓願なり。
◗903:14 菩提心の相は下の念仏付属の章に是を明せり。
◗903:15 一 或有以六念為往生行之土と云は、六念と云は、一には念仏、二には念法、三には念僧、四には念戒、五には念捨、六には念天也。
◗904: 1 此中に、初の三は常の如く是念三宝也。念戒と云は、諸仏の戒を念ずるなり。念捨と云は、諸仏・菩薩の作難きを善作し、捨し難を善捨し給へる意を念ずる也。念天と云は、最後身の菩薩を念ずる也。最後身の菩薩と云は、補処の菩薩也。補処の菩薩は都率天に住するが故に念天と云也。
◗904: 6 一 如是往生行種々不同して、不可具述。即今は選捨前布施・持戒、乃至孝養父母等諸行、選取専称仏号。故云撰択也と云は、正く選択本願の義を顕也。
◗904: 8 されば弥陀の本願は専称仏号也。専称仏号の外は往生の正因に非ず。此義を成ずるを、此宗の所詮とする也。
◗904:10 一 弥陀一仏所有四智・三身・十力・四无所畏等一切内証功徳、相好・光明・説法・利生等一切外用功徳、皆悉摂在阿弥陀仏名号之中と云は、四智と云は、一には大円鏡智、大悲に依ては常に衆生を縁じ、大智に依ては恒に法性に順ずる智也。二には平等性智、一切の法の自他平等なるを観ずる智也。三には妙観察智、諸法の自相・共相を観ずる智也。四には成所作智、有情を利して種々に三業を変化する智なり。
◗904:15 三身と云は、一には法身、真如法界の妙理、凝然不変の功徳也。二には報身、修因感果の妙智、境智冥合の真身也。此に又二種あり。自受用身・他受用身なり。自受法楽の故に自証の極れるを自受用身と云、化他の為に対機説法するを他受用身と号するなり。三には応身、随縁感見の身、凡夫示同の体なり。此に又二種あり。八相成道するを応身と云、無而忽有なるを化身と云なり。
◗905: 4 十力と云は、一には処非処智力、二には業異熟智力、三には静慮解脱智力、四には根上下智力、五には種種勝解智力、六には種々界智力、七には遍趣行智力、八には宿住随念智力、九には死生智力、十には漏尽智力也。
◗905: 7 四無畏と云は、一には等正覚無畏、二には漏永尽無畏、三には説障法無畏、四には説出苦道無畏也。
◗905: 9 等と云は、大悲・三念住を等取する也。大悲と云は大慈悲也。三念住と云は、一には縁順境不生歓喜念住、二には縁違境不生憂戚念住、三には双縁順違境不生歓戚念住。
◗905:11 已上十力・四无畏・大悲・三念住を合て仏の十八不共法と云。此十八の法は、二乗・三乗は不具之、只仏のみ是を具し給が故に不共法と云也。諸仏皆此功徳を具せり。而に阿弥陀如来の具し給処是等の功徳、悉名号の中に摂在すと云也。
◗905:15 一 極楽界中既無三悪趣。当知、是則成就無三悪趣之願也と云は、三悪趣と云は、地獄・餓鬼・畜生也。
◗906: 1 此三悪の果報は、十悪の因に依て是を感ず。而に極楽には十悪の悪因、其の業無が故に、三悪の苦果をば名をだにも聞ざるなり。されば三悪道無らんと誓給し願成就して、今は地獄・餓鬼・畜生の諸難無也。
◗906: 4 一 三十二相と云は仏の相也。往生要集に明すが如し。
◗906: 5 一 念仏之人皆以往生。以何得知。即念仏往生願成就文、云諸有衆生、聞其名号信心歓喜、乃至一念至心廻向。願生彼国、則得往生住不退転是也と云は、十八の願の成就せる相なり。念仏往生の益、此文至極せり。
◗906: 7 諸有衆生と云は、十方衆生なり。聞其名号と云は、南无阿弥陀仏を聞也。信心と云は至心也。歓喜と云は信楽也。
◗906: 9 乃至一念と云は、乃至十念の願なほ一念に至極する事を顕はす也。至心廻向と云、如来他力の廻向なり。
◗906:10 願生彼国と云は、欲生の心なり。此三信を発すれば、如来利他の廻向に依て即往生を得と云也。
◗906:12 一 凡四十八願荘厳浄土。花池・宝閣無非願力。何於其中独可疑惑念仏往生願乎と云は、四十八願皆徒発給はず。一々の願悉成就すれば、第十八の願孤成就せざるべきに非ず。随て阿弥陀仏成仏已来既に十劫なれば、如来の願既に成ぜり。衆生の往生疑べからずと也。
◗906:15 四十八願荘厳浄土と云は、金縄界道非工匠なるが故に巧匠の所作に非ず。四十八願荘厳より起なるが故に願力を以て建立せる也。故に七宝蓮花の池の有様、百宝荘厳の楼閣の拵、併ら願に答て成就せる也。
◗907: 4 一 如是五神通及以光明・寿命等願中、一々置下至之言。是則従多至少、以下対上之義也。例上八種之願、今此願乃至者即是下至なりと云は、五神通の願は、第五の宿命通の願、第六の天眼通の願、第七の天耳通の願、第八の他心通の願、第九の神足通の願也。
◗907: 7 光明寿命の願と云は、第十二の光明无量の願、第十三の寿命无量の願也。等と云は、第十四の声聞无量の願を等取する也。
◗907: 9 是を総じて八種の願と云也。此八種の願に皆下至の言あり、此下至の言は、十八の願の乃至の言と其の義同と云なり。
◗907:11 第四 三輩章
◗907:12 一 上の章には、念仏の一行、往生の正業なる義を成じおはりぬ。いまの章には、三輩の機根、ともにかの念仏を一向専念して往生することをあかすなり。
◗907:14 一 上輩の文に捨家棄欲と云は、捨家は出家遁世するなり、棄欲と云は、五欲を離るゝ也。五欲と云は、色・声・香・味・触に著する心なり。
◗907:15 中輩の文に奉事斎戒と云は、斎と戒とを持つなり、斎と云は不過中食なり、戒と云は八戒なり。八戒と云は、一には不殺生、二には不偸盗、三には不邪婬、四には不妄語、五には不飲酒、六には不得脂粉塗身、七には不得歌舞唱伎及往観聴、八には不得上高広大牀也。
◗908: 4 起立塔像と云は、塔婆を起立し仏像を造立するなり。起塔の言の中には造寺も有べし。造像の言の中には画像も有べし。
◗908: 6 飯食沙門と云は、飯食を以て僧に供養するなり。
◗908: 6 懸繒燃灯と云は、堂塔に幡蓋を懸、仏前に灯明を備ふる也。
◗908: 7 散花焼香と云は、一枝の花を仏壇に供し、一捻の香を道場に献ずる也。
◗908: 8 下輩の文に仮使不能作諸功徳と云は、上の上中二輩に云所の諸善を作ること能はずと云也。
◗908: 9 若聞深法と云は、名号の功徳を指なり。
◗908:10 歓喜信楽不生疑惑と云は、三信具足、明信仏智の心なり。詮る所、様々の行体は皆諸機の不同なり。往生の行は三輩共に念仏也。
◗908:12 一 観念法門の文は上の三輩の文を引也。意は、三輩と分つことは根性の不同にして、上・中・下の差別あることを示すなり。仏の勧め給ことは専修一行にありと云事を顕すなり。
◗908:15 一 此等三義殿最難知と云は、殿最と云は勝劣の義也。
◗909: 1 一 依若今善導以初為正と云は、廃立・助正・傍正の三義の中に、廃立の義を以て正義とすとなり。是則、諸行を廃して念仏を立する一向専修の義なり。
◗909: 3 一 往生要集の文に若如説行、当理上々と云は、観念の念仏を本として、深を上として次第に浅を中下とする意なり。
◗909: 5 第五 利益章
◗909: 6 一 上の章には、三輩共に念仏を以往生する事を明す。今の章には、其念仏の利益の无上殊勝なる事顕也。
◗909: 8 一 所引の今の文は流通の文なり。
◗909: 8 彼仏名号と云は、南無あみだ仏なり。歓喜踊躍と云は、至心信楽の意也。
◗909: 9 乃至一念と云は、十念の利生のなほ易行に至極する所を顕すなり。是十八の願成就の文に云所の一念なり。則下の私の釈に、是指上念仏願成就之中所云一念与下輩之中所明一念也と云へる、其意なり。
◗909:12 而彼の文共に功徳の相をとかざるを、今流通の文に大利と嘆じ無上の功徳と讃ずる也。則同じき願成就の文には即得往生と云へるを、今は大利无上の功徳と説り。
◗909:14 されば往生を大利と云と見たり。往生と云へる其詞狭し、只得生の一益を顕すが故なり。大利と云へるは其詞広し、往生も成仏も此詞にこもるべきなり、乃至現世の利益までも此中に摂在すべきなり。
◗910: 1 此経の上巻に釈尊出世の元意を説に、恵以真実之利と説は念仏の事なり。則今の大利と其義同かるべし。真実の利なるがゆへに大利なり、大利なるが故に無上の功徳なり、無上の功徳なるがゆへに超絶法と云也。
◗910: 5 一 所引の礼讃の釈は初夜の文なり。文言今の経文に同じ。但し皆当得生彼の文は経文に無し。為得大利則是具足無上功徳の文に当れり。
◗910: 6 されば往生は則大利也と意得べき也。随前に云が如く、今の一念と云は願成就の一念を指すがゆへに、彼願文に即得往生と説たれば、其願の意なる事を顕さんが為に皆当得生彼と釈する也。
◗910:10 一 若約念仏分別三輩、此有二意。一随観念浅深、而分別之、二以念仏多少而分別之と云は、同く念仏を行ずれども、観念の深をば上輩とし、次第に浅をば中輩・下輩とする義なり。二には同く念仏を称すれども、多く唱るをば上品の業とし、次第に少きをば中品・下品の業とする義なり。
◗910:13 此両義は一往観念の浅深に依、行業の多少に付て三輩九品を立なり。
◗910:14 然れども若不生者、不取正覚と云へる願文には、九品の差別もなし。善悪凡夫得生者と云へる釈の如きは、善人も悪人も共に得生の益を得る事は同かるべし。
◗911: 1 然れば、上に引ところの観念法門の釈にも根性不同有上・中・下と云て、三輩はたゞ機の差別なり。浄土には三輩あるべからずと見たり。三輩と九品とは開合の異なれば、三輩なくは九品も有べからざる也。
◗911: 4 註論にも本則三々之品、今無一二之殊と云へる、此意なり。
◗911: 5 娑婆にしては、機に善悪あり行に強弱あるが故に差別を立たれども、往生の後は、純一の報土にして無生の証悟を得るときは、其の殊異有べからずと意得べきなり。
◗911: 8 一 浅深者如上所引。若如説行、理当上々是也と云は、上の三輩往生の章に引ところの往生要集の文を指也。
◗911:10 一 次多少者、下輩文中既有十念乃至一念数。上中両輩准此随増と云は、乃至と説が故に、一念を下品として次第に辺数の増するを以て中品、上品とも立る意なり。
◗911:13 一 観念法門の文は、日別念仏一万遍と云より皆是上品上生人と云までなり。当知、三万已上是上品上生業と云已下は、私の釈なり。
◗911:14 如此観念の浅深、念数の多少に付て品位の高下を立る事は、上根の往生に於て、志深くは同く念仏すとも、弥陀の依正二報の荘厳をも意に懸て常に欣求の心を発し、又行住坐臥に称名を心に入て懈怠無らんは、仏法を行ずる本意なるべきに依て如是釈せらるゝ也。
◗912: 3 雖然、根性劣機にして観念も心に懸けられず、称名も懈怠の心有ども、念々相続し信心絶えずして一心帰命の志実有らば、往生の益は彼上根の人にも差別有べからざるなり。
◗912: 6 第六 特留念仏章
◗912: 7 一 上の章には、一念を以無上大利の功徳とする事を明しつ。今は一念の利益、法滅百歳の時まで及ぶ事を明して、況や法滅以前、末法最初の衆生、必ず此法に依て往生の益を得べきことを明す也。
◗912:10 一 末法万年後余行悉滅、特留念仏之文と云は、正像二千年の後は末法なり。其の万年の後は諸経皆滅して、戒定慧の三学名をだにも聞べからず。
◗912:11 而万年の後百歳の間、尚念仏は留て衆生を利益すべき也。
◗912:13 一 当来之世と云は、末法万年の後なり。
◗912:13 経道滅尽と云は、諸教修行の道悉滅尽すと云也。
◗912:14 我以慈悲哀愍と云は、釈尊慈悲を垂給となり。
◗912:14 特留此経と云は、唯此の大経ばかりを留るとなり。大経を留るとなり。大経を留むと云は、念仏を留る也。下の釈に此経止住と云は、念仏止住なりと云へる、其意也。
◗913: 1 止住百歳と云は、万年の後百歳留べしと云也。
◗913: 2 其有衆生と云は、法滅百歳の時の機を指すなり。
◗913: 3 値此経者と云は、此大経に値者はと云也。是も念仏を聞かん者と云意也。礼讃に爾時聞一念と云へる、其の意也。
◗913: 4 随意所願皆可得度と云は、往生を得べしと也。礼讃の文に皆当得生彼と云へる、その義顕也。
◗913: 6 一 此経所詮全有念仏。其旨見前と云は、此経の所説、文言多と云へども念仏を以経の宗致とすと也。
◗913: 7 其旨見前と云は、上の本願の章・三輩章・利益の章等を指也。本願の章には念仏を本願とすと云ひ、三輩の章には三輩共に念仏を以て往生すと云、利益の章には一念を无上大利の功徳と云へる、皆是此経の所詮全念仏に有義也。
◗913:11 一 而説菩提心行相者広在菩提心経等と云は、荘厳菩提心経并に心地観経・思益経等の菩提心を説ける経を指なり。
◗913:13 一 又説持戒行相者広在大小戒律と云は、大乗戒を説るは梵網経なり。小乗戒を明せるは十誦律・四分律等也。
◗913:15 一 四重の相対の釈は、一々に総別を対判して、諸経滅尽の後、特留念仏の益有べき事を成也。
◗914: 1 所謂聖道・浄土対比すれば、聖道成仏の教は先滅して、浄土往生の教は特に留る。
◗914: 2 往生におひて十方浄土の往生あり、西方浄土の往生あり。其中に十方浄土往生の教は先滅して、西方往生の教は特に留る。
◗914: 3 十方往生の教の内に都率の往生もこもりたれども、古今の行者、都率・西方をば一双として共に欣求するが故、別して西方に対比論する也。所謂都率の教は先滅して、西方の教は特に留る。
◗914: 6 往生の行に於て、又諸行往生、念仏往生の二義あり。其中に諸行は先滅して、念仏は特に留る。
◗914: 7 されば此経の止住と云は只念仏の止住なりと云也。
◗914: 8 一 例如彼観無量寿経中、不付属定散之行、唯孤付属念仏之行と云は、観経の流通の文に仏告阿難、汝好持是語。持是語者、即是持无量寿仏名と云文を指也。此文の意は、念仏付属の章に見えたり。
◗914:11 一 広可通於正像末法。挙後勧今と云は、後とは百歳の時也。今と云は正末法を指て、其中に正像の二時を摂する也。
◗914:13 一 善導の釈に云、弘誓多門四十八、偏標念仏最為親。人能念仏仏還念。専心想仏仏知人と云へるは、法事讃の上巻の釈なり。
◗914:14 弘誓多門四十八と云は、弥陀の本願を指也。
◗914:15 偏標念仏最為親と云は、四十八願の中に第十八の念仏往生の願、これ本願なれば尤も親と云也。
◗915: 1 人能念仏々還念専心想仏々知人と云は、行者仏を念ずれば仏又行者を念じ給ふ。是則、彼此三業不相捨離の義なり。
◗915: 4 第七 摂取章
◗915: 5 一 当章より始て下の念仏付属の章に至までの五段は、観経の意なり。但中間の四修の章は観経の文に非ず。然れども三心・四修は安心・起行なるが故に、一双の法門なるに依て三心の次に置るゝ也。
◗915: 8 一 所引の観経の文は真身観の文なり。疏の釈も是同当所の釈也。経と釈とを引合て意得べし。
◗915: 9 疏の文に今の経文を釈するに、従無量寿仏下至摂取不捨已来、正明観身別相光益有縁と云は、弥陀の光明、念仏の衆生を摂取し給事を明す。有縁と云は、弥陀有縁の衆生なり。是則念仏の行者也。
◗915:11 日想・水想より始て宝地・宝樹・宝池・宝楼等の依報を観じ、其後正報を観ずるに取て形像を観ずるを像観といひ、次に浄土の真実の仏相を観ずるを真身観と名。是を観仏三昧と云。されば定善の中には此観正宗なり。
◗915:14 而如此観じ入て弥陀の相好・光明を観ずれば、其光明の徳は念仏の衆生を摂取して捨給はざる利益を知也。是観仏の所詮なり。
◗916: 1 一に明相多少と云は、无量寿仏有八万四千相と云文を指也。
◗916: 2 二好多少明と云は、一々好復有八万四千随形好と云文を指也。
◗916: 2 三に明光多少と云は、一々好復有八万四千光明と云文の意なり。
◗916: 3 四に明光照遠近と云は、一々光明遍照十方世界の文を牒するなり。
◗916: 4 五に明光所及処、偏蒙摂益と云は、念仏衆生、摂取不捨の文に当り。
◗916: 5 問云、弥陀の相好・光明、皆八万四千を以て数とする事、其故有りや。
◗916: 6 答云、故へ有。凡そ仏の相好・光明に限らず、依報の荘厳までも皆八万四千也。謂弥陀如来は相も八万四千也、好も八万四千也、光明も八万四千也。
◗916: 8 地下の七宝の金幢は百宝の所成なり。一々の宝珠に千の光明有、其の一々の光は八万四千色なり。
◗916: 9 願力所成の華座には八万四千の葉あり。一々の葉に八万四千の脈あり、一々の脈より放つところの光明も八万四千なり。
◗916:11 其の華座の上へに四柱の法幢あり、其幢の上に宝幔あり、又五百億の宝珠あり。其宝珠に八万四千の光あり、其光又八万四千の異種の金色を成せり。
◗916:13 観音の相を説に、眉間の光明も八万四千なり。十指の端にも八万四千の画あり、其の画に又八万四千の色あり、其色に又八万四千の光あり。
◗916:14 如此皆八万四千なる事は、衆生の煩悩八万四千なるに依て、所治の煩悩に対せんが為に、能治の教門も八万四千なり。
◗917: 1 今弥陀の相好・光明八万四千なる事は、彼八万四千の教門の利益を弥陀一仏の功徳に備へて、八万四千の塵労門を対治することを表するなり。
◗917: 4 一 三縁の釈は共に念仏の徳を挙る也。
◗917: 4 親縁と云は親近の義也。されば近縁も同事なれども、三業に仏を念じて、仏の三業を行者の三業と相離せざるを親縁とし、此念に依て見仏の益を得を近縁と云也。
◗917: 6 所云の見仏は、三昧発得せば此益有べし、三昧発得せずは見仏の益を得がたし。但し肉眼を以て見ずと云へども、願楽の心、実あらば仏の方よりは念に応じて来現し給ふべし。経には常来至此行人之所と説、釈には篭々常在行人前とも云が如し。
◗917: 9 増上縁と云は増勝の義也。是れ正き往生の益なり。
◗917:11 一 是故諸経中処々広讃念仏功徳と云は、総じて云はゞ諸教所讃多在弥陀なるが故に、広く一代の諸経に亘るべし。別して云はゞ浄土所依の経を指なり。今正く三経を引は此義なり。
◗917:13 此例非一也と云は、諸経にも通ずる義也。
◗917:14 一 三経を引に於て、無量寿経の文に唯明専念名号得生と云は、十八の願の意なり。
◗917:15 弥陀経の文に二重あり。初に一日七日専念弥陀名号得生と云は、釈尊弥陀の名号を讃歎し給へるを指なり。我見是利故説此言と云へる、是なり。
◗918: 2 次に又十方恒沙諸仏証誠不虚也と云は、諸仏同心に釈迦の所説を証し給へるを指也。彼諸仏等亦称讃我不可思議の功徳と云へる、是也。
◗918: 4 観経の文に定散文中と云へるは、定善の文には真身観の所説の今の摂取不捨の説、専是唯標専念の説也。散善の文には下三品の念仏并に又流通の文、是なり。是等の文を指て唯標専念名号得生と云り。
◗918: 7 一 観念法門の文は、是も上の経文の意なり。
◗918: 7 前の如く身相等光といふは、さきの真身観に説くところの相好・光明を指也。
◗918: 8 彼仏心光常照是人と云は、弥陀の大慈を以て衆生を摂取し給ふなり。仏心者大慈悲是なりと云が故に、仏心の体は慈悲なり。其慈悲に依て衆生を摂せんが為に放つ所の光明なれば、心光と云也。此心光を以て常に行者を照し給を常照是人と云也。
◗918:11 総不論照摂余雑業行者と云へる言は、経に其の文隠たりと云へども、念仏の衆生を摂取すと云へば、其の余は摂取に預からざる事、其義顕然なるが故に、分明に釈し顕して光照の益、念仏に限る事を釈成するなり。
◗918:15 一 礼讃の釈は日中の文なり。唯有念仏蒙光摂と云は、唯の言は余を遮するが故に、光摂の益、雑行に蒙しめざる事を顕なり。当知、本願最為強と云は、念仏の行者、本願の強縁を以て摂益に預る事を顕なり。
◗919: 2 又般舟讃に相好弥多八万四、一々光明照十方、不為余縁光普照、唯覓念仏往生人と云も、其意相同じ。雑業と云へると、余善と云へると、詞異にして意同じ。是念仏の外の諸行を指也。
◗919: 5 又礼讃に彼仏光明無量照十方国無所障。唯観念仏衆生、摂取不捨と云も同事也。其の故へ観経には摂取不捨の利益を説き、阿弥陀経には阿弥陀の名義を説けり。
◗919: 7 而に摂取の益を説は、観経にも間の名義を顕す意あり。念仏の衆生を摂取すと説たる光明は、十方国を照て障する所なければ、無光仏の義に叶へる故なり。阿弥陀経に照十方国無所障と説たる光明は、念仏の衆生を照すは摂取の義を含めり。影略互顕の義なり。故に弥陀経及観経云と云て今の釈を設たり。
◗919:12 されば阿弥陀と云仏号は、念仏の衆生を摂取して捨たまはざる利益を顕す言なり。余行の行者をば摂取せず。摂取せざれば其時は阿弥陀の義も成ずべからずと見えたり。
◗919:14 問云、今の二文をば何ぞ此書に是を引ざるや。
◗919:14 答云、先礼讃の文は両経の意を引故に、其の観経の意と云は今の真身観の文なれば、別に引に及ばず。弥陀経の意を引も、今の観経の摂取不捨の利益に付て弥陀経の文を意得合る文なれば、二経を離れて別に是を引ざるなり。
◗920: 2 次に般舟讃の釈を引れざる事は、彼書、聖人在生の時未流布せざりしに依て、高覧なかりけるゆへなり。
◗920: 4 一 所引の文の中に、言自余衆善雖名是善、若比念仏者全非比挍也者、意云、是約浄土門の諸行而所比論也と云は、念仏の行を真言・止観等の事理の諸善に対比して勝劣を論ずるに非ず。
◗920: 6 只往生浄土の門に於て其修行を云に、諸行と念仏とを相対する時、念仏は超絶せりと云意なりと示すなり。是則、彼は難行なり、此は易行なり。彼は本願に非ず、此は本願なるが故也。
◗920: 9 本云
康暦元年 己巳 七月十一日書写之了
◗920:12 此本以賢意本写之。故存覚聖人御草にて仍悦尋出感得、此本間加書写了。
応永廿二年六月七日写功了。
松下隠士 光覚(花押)
◗920:14 一交了 初条写置本以外文言点等無元条間、以或本重而来合候処、則其謬多之悉改写了。