◗949: 1 教行信証大意
◗949: 5 【1】そもそも、高祖聖人の真実相承の勧化をきき、その流をくまんとおもはんともがらは、あひかまへてこの一流の正義を心肝にいれて、これをうかがふべし。しかるに近代はもつてのほか、法義にも沙汰せざるところのをかしき名言をつかひ、あまつさへ法流の実語と号して一流をけがすあひだ、言語道断の次第にあらずや。よくよくこれをつつしむべし。
◗949: 9 しかれば、当流聖人の一義には、教・行・信・証といへる一段の名目をたてて一宗の規模として、この宗をば開かれたるところなり。このゆゑに親鸞聖人、一部六巻の書をつくりて教行信証文類と号して、くはしくこの一流の教相をあらはしたまへり。
◗949:13 しかれども、この書あまりに広博なるあひだ、末代愚鈍の下機においてその義趣をわきまへがたきによりて、一部六巻の書をつづめ肝要をぬきいでて一巻にこれをつくりて、すなはち浄土文類聚鈔となづけられたり。この書をつねにまなこにさへて、一流の大綱を分別せしむべきものなり。
◗950: 2 その教・行・信・証・真仏土・化身土といふは、
第一巻には真実の教をあらはし、
第二巻には真実の行をあらはし、
第三巻には真実の信をあらはし、
第四巻には真実の証をあかし、
第五巻には真仏土をあかし、
第六巻には化身土をあかされたり。
◗950: 9 【2】第一に真実の教といふは、弥陀如来の因位・果位の功徳を説き、安養浄土依報・正報の荘厳ををしへたる教なり。すなはち大無量寿経これなり。総じては三経にわたるべしといへども、別しては大経をもつて本とす。これすなはち弥陀の四十八願を説きて、そのなかに第十八の願をもつて衆生生因の願とし、如来甚深の智慧海をあかして、唯仏独明了の仏智を説きのべたまへるがゆゑなり。
◗950:15 【3】第二に真実の行といふは、さきの教にあかすところの浄土の行なり。これすなはち南無阿弥陀仏なり。第十七の諸仏咨嗟の願にあらはれたり。名号はもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。衆行の根本、万善の総体なり。これを行ずれば西方の往生を得、これを信ずれば無上の極証をうるものなり。
◗951: 5 【4】第三に真実の信といふは、上にあぐるところの南無阿弥陀仏の妙行を真実報土の真因なりと信ずる真実の心なり。第十八の至心信楽の願のこころなり。これを選択回向の直心ともいひ、利他深広の信楽ともなづけ、光明摂護の一心とも釈し、証大涅槃の真因とも判ぜられたり。これすなはちまめやかに真実の報土にいたることは、この一心によるとしるべし。
◗951:10 【5】第四に真実の証といふは、さきの行信によりてうるところの果、ひらくところのさとりなり。これすなはち第十一の必至滅度の願にこたへてうるところの妙悟なり。これを常楽ともいひ、寂滅ともいひ、涅槃ともいひ、法身ともいひ、実相ともいひ、法性ともいひ、真如ともいひ、一如ともいへる、みなこのさとりをうる名なり。
◗951:14 もろもろの聖道門の諸教のこころは、この父母所生の身をもつて、かのふかきさとりをここにてひらかんとねがふなり。いま浄土門のこころは、弥陀の仏智に乗じて法性の土にいたりぬれば、自然にこのさとりにかなふといふなり。此土の得道と他土の得生と異なりといへども、うるところのさとりはただひとつなりとしるべし。されば往生といへるも、実には無生なり。この無生のことわりをば、安養にいたりてさとるべし。その位をさして真実の証といふなり。
◗952: 6 【6】第五に真仏土といふは、まことの身土なり。すなはち報仏・報土なり。仏といふは不可思議光如来、土といふは無量光明土なりといへり。これすなはち第十二・第十三の光明・寿命の願にこたへてうるところの身土なり。諸仏の本師はこれこの仏なり。真実の報身はすなはちこの体なり。
◗952:10 【7】第六に化身土といふは、化身・化土なり。仏といふは、観経の真身観に説くところの身なり。土といふは、菩薩処胎経に説くところの懈慢界、また大経に説ける疑城胎宮なりとみえたり。これすなはち第十九の修諸功徳の願より出でたり。
◗952:13 ただしうちまかせたる教義には、観経の真身観の仏をもつて真実の報身とす。和尚の釈、すなはちこのこころをあかせり。真身観といへる名あきらかなり。しかるにこれをもつて化身と判ぜられたる、常途の教相にあらず。
◗953: 1 これをこころうるに、観経の十三観は定散二善のなかの定善なり。かの定善のなかに説くところの真身観なるがゆゑに、かれは観門の所見につきてあかすところの身なるがゆゑに、弘願に乗じ、仏智を信ずる機の感見すべき身に対するとき、かの身はなほ方便の身なるべし。すなはち六十万億の身量をさして分限をあかせる真実の身にあらざる義をあらはせり。
◗953: 6 これによりて聖人、この身をもつて化身と判じたまへるなり。土は懈慢界といひ、また疑城胎宮といへる、そのこころを得やすし。ふかく罪福を信じ、善本を修習して、不思議の仏智を決了せず、疑をいだける行者の生るるところなるがゆゑに、真実の報土にはあらず。これをもつて化土となづけたるなり。これわが聖人のひとりあかしたまへる教相なり。たやすく口外に出すべからず。くはしくかの一部の文相にむかひて、一流の深義をうべきなり。
◗953:13 【8】さればこの教・行・信・証・真仏土・化身土の教相は、聖人の己証、当流の肝要なり。他人に対してたやすくこれを談ずべからざるものなり。
◗953:14 あなかしこ、あなかしこ。
◗954: 1 文明九年丁酉十月二十七日巳剋に至りてこれを清書せしめをはりぬ。 六十三歳 在御判
◗954: 4 みなひとのまことののりをしらぬゆゑ ふでとこころをつくしこそすれ
◗954: 6 本にいはく
つつしんで教行証文類の意によりてこれを記す。けだし願主の所望によるなり。時に嘉暦三歳戊辰十一月二十八日、今日は高祖聖人の御遷化の忌辰なり。短慮するに、これをもつて報恩の勤めに擬せしむ。賢才、これを披きて誹謗の詞を加ふることなかれ。あなかしこ、あなかしこ。
◗954:11 外見におよぶべからざるものなり。かつ稟教の趣、わが流において秘せんがため、かつは破法の罪、他人において恐れんがためなり。 釈 蓮如