◗549:11 越中国光明房へつかはす御返事 第十七
◗549:12 一念往生の義は、京中にもほゞ流布するよしうけ給はるところ也。およそ言語道断の事也、ま事にほとほと御問にもおよぶべからざる事歟。
◗549:13 双巻経の中には乃至一念信心歓喜といひ、又善導和尚の疏には上一形を尽し下十声・一声にいたるまでも、さだめて往生する事をうと信じて、乃至一念もうたがふ心なかれといへる。これらの文をあしく料簡するともがらの、かゝる大邪見に住して申候ところ也。
◗550: 2 乃至といひ下至といへるは、上み一形をつくすをかねたる詞也。しかるをこのごろの愚痴・无智のともがらのおほく、ひとえに十念・一念なりと執して上尽一形をすつる条、无慚・无愧の事也。ま事に十念・一念までもほとけの大悲本願、なをかならず引摂し給ふ无上の功徳なりと信じて、一期不退に行ずべき也。文証おほしといへども、これを出すにおよばず、不足言の事也。
◗550: 7 こゝにかの邪見の人、この難をうけて、答へていはく、わがいふところも、信を一念にとりて念ずべき也。しかりといひて、又念仏すべからずとはいはずと 云云。ことばは尋常なるににたれども、心は邪見をはなれず。しかるゆへは、決定の信心をもて一念してのちは、又念ずといふとも、十悪・五逆なをさわりをなさず、いはんや、余の小罪をやと信ずべき也といふ。
◗550:11 このおもひに住せん物は、たとひ多念すといふとも、あにほとけの御心にかなはんや、いづれの経論のいかなる説ぞや。これひとへに懈怠・无道心のいたり、不当・不善のたぐひの、ほしいまゝに悪をつくらんとおもひていふ事なり。又念ぜずは、その悪かの勝因をさへて、むしろ三塗におちざらんや。
◗550:15 かの一生造悪のものゝ臨終に十念して往生するは、これ懺悔念仏のちから也。この悪義には混乱すべからず。かれは懺悔の人也、これは邪見の人也。なをなを不可説の事也。
◗551: 2 たとひ精進のものなりといふとも、この義をきかばかならず懈怠になりなん。まれに持戒の人ありといふとも、この説を信ぜばすなはち无慚になりぬべし。およそかくのごときの人は、附仏法の外道也、師子の中のむし也。
◗551: 5 又うたがふらくは、天魔波旬のために、その正解をうばゝれたるともがらの、もろもろの往生の人をさまたげんとするか。もともあやしむべし、ふかくおそるべし。ことごと筆端につくしがたし。あなかしこ、あなかしこ。