じょうにょ 浄如 (1885-1961) 本願寺21代明如の三男、 22代鏡如の弟。 法諱は尊重、 のちに光明と改めた。 院号は淳浄院。 明治36年 (1903) に外遊中の兄鏡如の代理として、 父明如の葬儀を執行、 明治37年 (1904) には日露戦争の従軍布教使総監督として清に渡り、 翌年には本願寺派の執行長となった。 明治43年 (1910) に嗣法となったが、 大正3年 (1914) に大谷探検隊等により生じた経済問題により鏡如が宗主を引退すると、 自らも嗣法の地位を辞退した。 昭和2年 (1927) に長男勝如が15歳で宗主を継職すると、 成人するまでの補佐機関として保摂会が置かれ、 その会長に就いた。 その後も勝如を支え、 勝如の入営や海外巡教の際には宗主の代務を勤めるなどした。