◎観経玄義分 巻第一
【1】 ^まず*
^僧俗すべての人々よ おのおの無上の信心をおこせ
^
^それゆえともどもに*
^弥陀の浄土に往生を願って 如来を信じ合掌・礼拝せよ
^修行の時劫の満ちたものと満たないもの 智行の
^*
^
^真如をさとる最後の一念を経て *
^すなわち仏になる慈悲を修めて とこしえに退転しない方に帰依したてまつる
^請い願わくは遥かに加護して 念々に諸仏を見せしめたまえ
^わたしたち愚かな*
^*
^*
^十方の数かぎりない仏たち *
^いま釈迦・弥陀二尊の教えによって 広く浄土の法門を明らかにする
^願わくは この尊い功徳をもって すべての人々に与え
【2】 ^この ¬*
【3】 ^第一にまず一経の大意をかかげるとは、
^ひそかに考えてみると、 真如は広大であって、 *
^ただ煩悩のさわりに覆われることが深いから、 清浄な真如の
【4】 ^迷いの衆生の根性の隔たり、 その望みの不同をいわず、 すべて純一の機ではないけれども、 五乗それぞれに被らせるはたらきがあるから、 慈愛の雲を*
^自分の心を本としていろいろの行を起こす法門は、 八万四千に余っている。 *
【5】 ^しかしながら、 衆生は障りが重くて悟りを求めても得がたく、 法門はたくさんあっても、 凡夫はいずれも行ずることができない。 ^たまたま韋提希が釈迦仏に願って 「わたしは今、 安楽浄土に往生したいと望みます。 ただ願わくは如来、 わたしに定善の観法を教えてください」 といったことにより、 ^そこで、 娑婆の教化の主である釈迦仏は、 その韋提希の請いをもととして広く浄土の*
^弘願というのは ¬大経¼ に説かれてあるとおりである。 すべて善悪の凡夫が往生できるのは、 みな阿弥陀仏の*
^また、 仏の
【6】 ^第二に、 次に経の名を釈するとは、
^経に ¬仏説無量寿観経 一巻¼ と仰せられてある。
^¬仏¼ というのは、 これは印度のもとのことばであって、 この国では覚という。 自覚覚他して覚行の満ち窮まるのを名づけて仏とする。 ^「自覚」 というのは凡夫に区別する。 これは、 *
^¬説¼ というのは口で陳べるから説という。 また如来は、 機類に対して法を説かれるのにいろいろ不同である。 漸教・頓教と機類のよろしきに随い、 隠すと彰わすとの別がある。 あるいは*
【7】 ^¬無量寿¼ というのは、 これはこの国の漢語であって、 *
【8】 ^また、 この人法すなわち阿弥陀仏というのは所観の境であって、 その中に二つある。 一つには*
^また依報というのは、 日想観から華座観までは、 すべて依報の荘厳を明かす。 この依報の中に
^またこの六観の中に
^二つに正報の中がまた二つになる。 ^一つには主荘厳であって、 阿弥陀仏がこれである。 ^二つには聖衆荘厳であって、 現に浄土に在る者、 および十方の法界から同じように生まれる者がこれである。
^また、 この正報の中にも通と別とがある。 ^別というのは阿弥陀仏であって、 この別の中にもまた真と仮とがある。 ^仮の正報というのは第八の像観がこれであり、 *
【9】 ^¬観¼ というのは照らすの意味である。 いつも浄らかな信心を手として、 それによって智慧の輝きを
^¬経¼ というのは
^¬一巻¼ というのは、 この ¬観経¼ 一部は*
【10】^第三に、 諸経に明かす
^¬*
【11】^教の大乗・小乗をいうならば、
^問うていう。 この経は*
^答えていう。 いまこの ¬観経¼ は、 二蔵の中では菩薩蔵すなわち大乗に収める。 また二教の中では頓教の中に摂めるのである。
【12】^第四に、 経を説いた
^すべて諸経の説法は五種のほかはない。 一つには仏の説法であり、 二つには仏弟子の説法であり、 三つには諸天や仙人の説法であり、 四つには鬼神の説法であり、 五つには仏・菩薩の変化身の説法である。 ^いまこの ¬観経¼ は、 仏が自ら説かれたものである。
^問うていう。 仏は
^答えていう。 仏は王の宮殿におられて、 韋提希などのために説かれたのである。
【13】^第五に、 定善・散善の両門について解釈するならば、 六つの義がある。
^一つには、 請うた者は韋提希であり、 二つにその請いを受けられた方は世尊である。 三つには、 お説きになった方は如来であり、 四つにその説かれた法は定・散の二善すなわち十六観の法である。 五つには、 化導をなさった方は如来であり、 六つにその化導を受けた者は韋提希などがこれである。
【14】^問うていう。 定・散の二善は誰の請いに
^答えていう。 定善の一門は韋提希が請うたのであり、 散善の一門は仏がみずからの思召しで説かれたのである。
^問うていう。 定・散の二善はいずれの文に出ているのか。 今すでに教えが備わってその利益は虚しくないとするならば、 どういう*
^答えていう。 これを解釈するのに二義がある。 ^一つには、 *
^二つには、 いずれの文に出ているのかといえば、 これに通 (諸仏に通ずる) と別 (弥陀に限る) とがあって、 ^「通」 というのは三文の不同がある。 ^何かといえば、 一つに 「韋提希が仏に申しあげる。 ¬わたしのために広く憂悩のないところを説いてください¼」 というところからは、 これは韋提希が自分の心を述べて、 みずから通じて浄土を請うたのである。 ^二つに 「ただ願わくは如来、 わたしに清浄業の処を観ずる行を教えてください」 というところからは、 韋提希がみずから通じて往生の行を請うたのである。 ^三つに 「世尊が光台に国を現わされる」 というところからは、 前の通じて請うた 「わたしのために広く (憂悩のないところを) 説いてください」 のことばに答えたもうたのである。 ^三文の不同があるけれども、 これは前の 「通」 を答えおわった。 ^「別」 の中に二つの文がある。 ^一つには 「韋提希が仏に申しあげる。 ¬わたしは極楽世界の阿弥陀仏の
^これから以下は、 次に定善・散善の二門の義を答える。
^問うていう。 何を定善と名づけ、 何を散善と名づけるのか。
^答えていう。 日想観より
^問うていう。 定善の中にどういう区別があるのか、 それがいずれの文に出ているのか。
^答えていう。 いずれの文に出ているのかといえば、 経に 「わたしに思惟を教えてください、 わたしに正受を教えてください」 と説かれてある。 この思惟・正受の文がそれである。 区別というのは二つの義がある。 一つには思惟であり、 二つには正受である。 ^「思惟」 というのは、 正観のあらわれる前の方便の位であって、 かの浄土の依報・正報の総相や別相を想うのである。 すなわち地想観の文の中に説かれて 「このように観想するのを、 ほぼ極楽浄土の地面を見たという」 と仰せられるのは、 上の 「わたしに思惟を教えてください」 という一句に応ずる。 ^「正受」 というのは、 観想の心の動きがすべてやんで、 能観の心と、 所観の境が相応するのを名づけて正受とする。 すなわち地想観の文の中に説かれて 「もし*
【15】^また、 さきより述べたような解釈は他師らと同じではない。 ^他師らは思惟の一句をもって、 三福九品に合わせて散善とし、 正受の一句を通じて十六観全体に合わせて定善とする。 ^このように解釈することは正しくないであろう。 ^なぜかというと ¬*
^また、 今まで述べたように、 韋提希は、 はじめには、 ただ 「わたしに清浄業の処を観ずる行を教えてください」 といい、 次には 「わたしに思惟を教えてください、 わたしに正受を教えてください」 といって、 通 (諸仏浄土に通ずる) と別 (弥陀浄土につく) との二つの請いがあるけれども、 これはただ定善であって、 ^散善を請うところの文は全くない。 散善はすべて仏がみずから開示されたものである。 下の
【16】^第六に経論の相違するに似たところを会通し、 広く問答を設けて疑問を解くとは、
^この門の中に六つある。 第一にはまず他師らの九品の解釈を示す。 第二には道理をもってこれを破る。 第三には重ねて九品の経文をあげて対破する。 第四には経文を挙げて、 ¬観経¼ の説は全く凡夫のためであって聖者のためでないということを証明する。 第五には*
【17】^初めに他師らの解釈をいうならば、
^まず上輩の三種の人を挙げると、 *
^次に、 中輩の三種の人を挙げると、 他師らがいうには、 *
^下輩の三種の人は、 大乗を始めて学ぶ凡夫であって、 罪の軽重によって三種に分けるけれども、 共に同じく*
こういう他師らの説は、 いまだ必ずしもそうではない。 よく知るべきである。
【18】^第二に道理をもってこれを破るとは、
^さきに他師らが初地より七地に至るまでの菩薩であるといっているのは、 ¬華厳経¼ に説かれているとおりである。
^初地以上七地までの菩薩は、 すなわち*
^このような菩薩が、 さらに何を憂えて、 韋提希がそういう菩薩のために仏に請うことによって安楽国に往生することを求めるはずがあろうか。 この文をもって証明すると、 他師らのいうところは、 どうしてあやまりでないといえようか。 上品上生と上品中生との二つについて答えおわった。
^上品下生とは、 上に種性住から初地に至るまで (十住・十行・十回向) というているが、 必ずしもそうではあるまい。 ^経 (大品般若経など) に説かれているとおりである。
これらの菩薩を名づけて不退とする。 身は
^また、 ¬大品般若経¼ に説かれているとおりである。
この位の中の菩薩は二種の真の善知識の守護を得るから不退である。 それは何かというと、 一つには十方の諸仏であり、 二つには十方の諸大菩薩であって、 いつも
^これらの菩薩もまたよく迷いの世界に出て*
^すでに、 こういうすぐれた徳がある。 さらに何を憂えて、 韋提希の請いによって往生を求めようか。 この文をもって証明とする。 ゆえに他師らの判定したことは、 またあやまりとなることが知られる。 これは上輩について責めおわった。
^次に、 中輩の三種の人について責めるならば、 他師らは、 中品上生は小乗の前三果の人であるといっている。 しかしながら、 これらの人は*
【19】^第三に、 重ねて九品の経文を挙げて他師らの説を対破するとは、
^他師らは 「上品上生の人はこれは四地より七地に至るまでの菩薩である」 というが、 それならば、 ^なぜ ¬観経¼ に、
三種の衆生がみな往生を得るであろう。 その三種とは何であるかというと、 一つには、 ただよく*
と説かれてあるのか。 ^この文をもって証明すると、 まさしくこれは仏が世を去られた後の、 大乗の行を修める極めて善い上品の凡夫であって、 日数は少ないけれども行業を修める時は非常に
^次に上品中生について対破するならば、 他師らはこれを初地より四地までの菩薩であるというが、 そうならば、 ^なぜ ¬観経¼ に 「
^次に上品下生について対破するならば、 他師らは、 これは種性住以上初地に至るまでの菩薩であるというが、 そうならば、 ^なぜ ¬観経¼ に 「
^そこで、 上輩の三種の人は往生の時のありさまがちがう。 どうちがうかというと、 上品上生の者が往生する時には仏が無数の化仏と共に一時にみ手を授け、 上品中生の者が往生するときには仏が千の化仏と共に一時にみ手を授け、 上品下生の者が往生する時には仏が五百の化仏と共に一時にみ手を授けてくださるのである。 これはただ修めた行業に強弱があるから、 このちがいができるのにすぎない。
^次に、 中輩の三種の人について対破するならば、 他師らが、 中品上生はこれは小乗の前三果の人であるというが、 そうならば、 ^なぜ ¬観経¼ に 「もし衆生あって、 *
^中品中生については、 他師らは 「*
^中品下生については、 他師らは、 小乗の内凡より前の世俗の凡夫で、 ただ世間の善根を修めて出離を求める者であるというが、 そうならば、 ^なぜ ¬観経¼ に 「もし衆生あって、 父母に孝養をつくし、 世間の慈しみを行う者が、 命終わろうとする時、 善知識がその人のためにかの浄土の楽しいありさまや四十八願などを説かれるのに遇い、 この人はそれを聞きおわって、 そこで浄土に往生する」 と説かれてあるのか。 ^この文をもって証明すると、 これはまだ仏法に遇わない人であって、 父母に孝養をつくすといっても、 心に出離をねがい求めたことはない。 ただこれは臨終に、 はじめて善知識が往生を勧めてくださるのに遇い、 この人はその勧めによって浄土に心を向けて、 そこで往生を得るのである。 ^またこの人は平生のとき自然に孝養を行ったのであって、 出離のために孝養をつくしたのではない。
^次に下輩の三種の人を対破するならば、 他師らは、 これらの人は大乗を始めて学ぶ十信位の凡夫であって、 罪の軽重にしたがって三品に分けるが、 まだ修行をしていないから、 その上下を区別しがたいといっているが、 ^そうではなかろうと思う。 何となれば、 この三種の人は、 仏法につけ、 世間につけ、 いずれの善根もなく、 ただ悪を作ることだけを知っている。 ^どうしてそれが知られるかというと、 *
ただ五逆と謗法を作らないだけで、 そのほかの悪はみなことごとく造り、 わずか一念も*
^このような悪人は、 すべて人の常に見るところである。 もし善知識の縁に遇えば往生を得るが、 善知識の縁に遇わなければ必ず三途に沈んで出ることができない。
この人は、 さきに*
とある。 ^初めには善知識に遇わないで地獄の火が迎え、 後には善知識に遇ったから化仏の来迎にあずかる。 これはすなわち弥陀の願力によるのである。
これらの衆生は、 善くない
とある。 ^この人がもし善知識に遇わなければ必ず地獄に堕ちるところであったが、 臨終に善知識に遇うたことによって、 七宝の蓮台に迎えられたのである。
^また、 この ¬観経¼ の定善および三輩上下の文の意味をうかがうに、 すべてこれは釈迦仏が世を去られてから後の*
^いま、 一々経文を出して証拠を明らかにし、 今の時の善悪すべての凡夫をして九品の利益にうるおわせたいと思う。 信じて疑いなければ、 仏願力によってことごとく往生を得るのである。
【20】^第四に、 経文をあげて証拠を明らかにするとは、
^問うていう。 これまで対破したいわれはどうして知ることができるのか。 世尊は定んで凡夫のために説かれたのであって聖者のためでないということは、 ただ自分の考えをもって義にあてがっていうのか。 それともまた、 仏の教説にあって、 それをもって来て証拠とするのか。
^答えていう。 衆生は煩悩が重くて智慧が浅く、 仏の思召しは弘くて深いから、 どうしてたやすく自分でおしはかろうか。 今は一つ一つことごとく仏説をもって来て明らかな証拠としよう。 この証拠について十文がある。
^それは何かといえば、
第一に、 ¬観経¼ に説かれているとおりである。 「仏が韋提希に告げられる。 ¬わたしはいまそなたのために、 広く浄土を観ずるいろいろの方法を説き、 また未来世のすべての凡夫で、 浄らかな行業を修めて往生したいと願う者を、 西方極楽世界に生まれさせよう¼」 というのが、 その一の証拠である。
^第二に、 「如来はいま、 未来世のすべての衆生の、 煩悩になやまされる者のために、 浄らかな行業を説く」 と仰せられてあるのが、 その二の証拠である。
^第三に、 「如来はいま、 韋提希および未来世のすべての衆生に、 西方の極楽世界を観ずる方法を教えよう」 と説かれてあるのが、 その三の証拠である。
^第四に、 「韋提希が仏に申しあげる。 ¬わたしはいま仏力によるから、 かの浄土を見ることができました。 もし仏が入滅せられた後の多くの衆生の、 濁悪不善で五苦に
^第五に、 日想観の初めに説かれているように、 「仏が韋提希に告げられる。 ¬そなたや衆生は、
^第六に、 地想観の中に説かれているように、 「仏が阿難に告げられる。 ¬そなたは、 仏のことばをうけて、 未来世のすべての衆生の、 迷いの苦しみを逃れたいと思う者のために、 この浄土の地を観ずる法を説けよ¼」 とあるのが、 その六の証拠である。
^第七に、 華座観の中に説かれているように、 「韋提希が仏に申しあげる。 ¬わたしは仏力によるから、 阿弥陀仏および観音・勢至の二菩薩を見たてまつることができました。 未来の衆生はどうして見たてまつることができましょうか¼」 とあるのが、 その七の証拠である。
^第八に、 その次の文の請いに答えられる中に説かれているように、 「仏が韋提希に告げられる。 ¬そなたや衆生が、 かの仏を観察しようと思うものはよく想念を起せ¼」 とあるのが、 その八の証拠である。
^第九に、 像観の中に説かれてあるように、 「仏が韋提希に告げられる。 ¬諸仏如来はすべての衆生の心想の中にあらわれたもう。 それゆえそなたたちが心に仏を観察する時¼」 とあるのが、 その九の証拠である。
^第十に、 九品の中に一々 「すべての衆生のために」 と説かれてあるのが、 その十の証拠である。
^これまで述べたように十文の別はあるけれども、 如来がこの十六観法を説かれたのは、 ただいつも迷いに沈む衆生のためであって、 大乗・小乗の聖者のためでないことが証明できる。 これらの文によって証明するのに、 どうしてこれが誤りであろうか。
【21】^第五に、 別時意というについて解釈するとは、 すなわちこれに二つある。
もし人が、
というてあるが、 ^およそ菩提というのは仏果の名であって、 またこれは正報である。 道理として成仏の法は、 必ず万行がまどかに備わって、 そこではじめて仏果を成ずる。 念仏の一行をもってただちに成仏を望むならば、 そういう道理があろうはずはない。 しかしながら、 すぐさとりは開かぬとはいうけれども、 これは万行の中の一つの行である。 ^どうして知ることができるのか。 ¬華厳経¼ に説かれてあるとおりである。
^この文をもって証拠とするのに、 どうして一行ではないといわれようか。 ^これは一つの行ではあるけれども、
一たび南無仏と称える者は、 みなすでに仏道を成ずる。
と説かれてある。 これはまた成仏しおわることであろう。 この二つの文には何の区別があるのか。
^答えていう。 論 (摂大乗論) の中に多宝仏のみ名を称えるということは、 ただ自分が仏果を成就しようとする意味であって、 経 (法華経) の中に仏名を称えるということは、 *
【22】^二つに、 論 (摂大乗論) の中に説いて 「人がただ願を
仏が*
と説かれ、 ^その次に、
十方の世界に、 それぞれ恒河の沙の数ほど多くの仏たちが、 あまねく三千大千世界を覆う広長の舌相を示して、 誠のことばを説いて ªそなたたち衆生はみな、 このすべての諸仏が護念される経を信ぜよ。º
と説かれるのか。 ^「護念」 というのは、 さきの文の一日あるいは七日のあいだ仏のみ名を称えることについていうのである。 ^いますでにこの経文がある。 これをもって明らかな証拠とする。 いま
^問うていう。 どうして行を修めているのに往生を得ないというのか。
^答えていう。 もし往生しようと思うならば、 必ず行と願とが具足して往生を得られるのに、 いまこの論 (摂大乗論) の中には、 ただ 「願を
^問うていう。 なぜ行のあることをいわないのか。
^答えていう。 わずか一念も、 かつて行に心をかけない。 それゆえいわないのである。
^問うていう。 願と行の義は、 どういう区別があるのか。
^答えていう。 経 (*
^問うていう。 どういう願では往生できないというのか。
^答えていう。 他のものが説いて 「西方浄土は思いはかることのできない
【23】^また、 論 (摂大乗論) の中に 「多宝仏のみ名を称えて仏果を求める」 とあるのは、 正報すなわち成仏を求めることである。 下の文に 「ただ願をおこして浄土の往生を求める」 とあるのは、 依報すなわち浄土に入ろうとするのである。 一つは正報を求めることであり、 一つは依報に入ろうとするのである。 どうして似ているといえようか。 ^ところで正報を求めることは容易でなく、 一行だけどのように立派であってもまだ仏果は成就しない。 依報の浄土は求め易いけれども、 願だけでは浄土に入ることができないのである。 ^しかしながら、 たとえば僻地の者が帰順して王の民となることは易いが、 王となるのは難しいようである。 いまの時の往生を願う者は、 すべて浄土の民となるのである。 どうして容易でないということができようか。 ^ただよく上は一生涯から下は十念の念仏に至るまで、 如来の願力によってみな往生しないものはない。 ゆえに易いというのである。
^こういうわけであるから、 人の言葉によって義を定めてはならない。 信じようとする者が疑いを懐くから、 かならず経文を引いて来て明らかにし、 これを聞く者に、 よく惑いを無くさせたいと思うのである。
【24】^第六に、 二乗種不生という意味を解釈するならば、
^問うていう。 阿弥陀仏の浄土は、 これは*
^答えていう。 これは報土であって化土ではない。 ^どうして知ることができるかというと、 ¬*
西方の安楽世界および阿弥陀如来は報仏報土である。
と説かれているとおりである。 ^また ¬*
*
と説かれてある。 ^今すでに成仏しておられるのである。 すなわちこれは、 因位の願に報うてできた御身である。 ^また ¬観経¼ の中に、 上輩の三種の人は、 その臨終の時においてみな 「阿弥陀仏が化仏と
^ところで報身・応身ということは、 眼と目というほどの違いである。 前の翻訳 (梁の
^問うていう。 すでに報というならば、 仏の報身というものは常住であって、 とこしえに消滅の相がないのである。 それではなぜ ¬*
^答えていう。 この入滅・不入滅といういわれは、 これはただ仏の境界でいわれることであって、 なお、 声聞・縁覚・菩薩などの浅い智慧ではうかがい知るところではない。 まして愚かな凡夫が、 たやすく知ることができようか。 ^しかしながら、 是非とも知りたいと思うならば、 敢えて仏経の御文を引いてそれを明らかな証拠とするであろう。 ^それは何かというと、 ¬大品般若経¼ の涅槃非化品 (如化品) の中に説かれているとおりである。
^釈迦如来が弟子の*
^須菩提が申しあげる。 「世尊、 実のものではありません。」
^仏が須菩提に告げられる。 「色はすなわち化のものである。 受・想・行・識は化のものである。 そのほか仏の*
^須菩提が仏に申しあげる。 「世尊、 世間の法が化のものであるように、 出世間の法もまた化のものでありましょうか。 いわゆる*
^仏が須菩提に告げられる。 「すべての法はみな化のものである。 この法の中には、 声聞の法とあらわれてあるもの、 辟支仏の法とあらわれてあるもの、 菩薩の法とあらわれてあるもの、 諸仏の法とあらわれてあるもの、 煩悩の法とあらわれてあるもの、 業因縁の法とあらわれてあるものがある。 こういう理由があるから、 須菩提よ、 すべての法はみな化のものである。」
^須菩提が仏に申しあげる。 「世尊、 このいろいろの煩悩を断じたもの、 いわゆる須陀洹果・斯陀含果・阿那含果・阿羅漢果・辟支仏果は、 いろいろの煩悩の余残の気をも断ちきっています。 これらもみな化にあらわれたものでありましょうか、 どうでしょうか。」
^仏が須菩提に告げられる。 「消滅の相のあるものは、 みな化のものである。」
^須菩提が申しあげる。 「世尊、 どのような法が化にあらわれたものでないのでしょうか。」
^仏が仰せられる。 「もし消滅のないものならば、 これは化にあらわれたものではない。」
^須菩提が申し挙げる。 「何が不生不滅であって、 化にあらわれたものではないのでしょうか。」
^仏が仰せられる。 「いつわりの相のない*
^「世尊、 如来がみずからお説きになったように、 諸法は平等であって声聞が作ったものでもなく、 縁覚が作ったものでもなく、 多くの菩薩大士が作ったものでもなく、 諸仏が作ったものでもない。 仏がましましてもましまさなくても、 諸法の本性は常に空である。 その性の空であるのが涅槃であるといわれましたが、 どうして涅槃だけが化のようではないのですか。」
^仏が須菩提に告げられる。 「そのとおりである。 諸法は平等であって声聞の作ったものではなく、 そのほか、 何者によって作られたものでもない。 本性が空であるのがすなわち涅槃である。 もし、 初発心の菩薩が、 このすべての法はみな畢竟じてその体が空であるばかりでなく、 涅槃までもまたみな化のようであると聞いたならば驚くであろう。 こういう初発心の菩薩のために、 ことさらに、 消滅するものは化のようであり、 不生不滅のものは化のようでない、 と分けたのである。」
^今、 すでにこの聖教によって、 たしかに弥陀はこれ報身であるということが知られる。 たとい後に入滅せられるとしても、 報の義を妨げない。 智慧ある人は、 これを知るべきである。
【25】^問うていう。 阿弥陀仏やその浄土はすでに報というのならば、 その報身・報土のものがらは、 非常に高く妙なるもので、 初地の位に至らない菩薩や二乗のようなものは入ることができぬのに、 障りの重い凡夫がどうして入ることができようか。
^答えていう。 もし衆生の障りをいうならば、 到底そこへ入ることはできぬが、 まさしく阿弥陀仏の願力に乗託することによって、 それが強い力となって、 五乗 (人・天・声聞・縁覚・菩薩) の者が同じく往生することができるのである。
^問うていう。 もし凡夫や声聞・縁覚のようなものが往生することができるというならば、 なぜ*
^答えていう。 おんみはただその文だけを読んでその道理をうかがわない。 ましてその上に拙い考えにこだわって迷いをいだき、 了解することができない。 ^いま仏の説かれた教えを引いて明らかな証拠として、 そなたの疑問をしりぞけよう。 それは何かというと、 ¬観経¼ の下輩の三種の人がこれである。 ^どうして知ることができるのか。 下品上生に説かれてあるとおりである。
あるいは衆生があって、 多く悪を造って慚愧の心がない。 このような愚かな者は、 この世の命が終わろうとするときに、 善知識がその人のために大乗を説き、 教えて念仏を称えさせるに遇う。 ^仏名を称える時に当って化仏・菩薩がその人の前にあらわれ、 金色の光明と華蓋をもって迎えてかの浄土へ往生する。 華が開いてから後に観音菩薩が大乗の法を説かれると、 この人はそれを聞きおわって大乗のさとりを求める心をおこす。
^問うていう。 「種」 というのと 「心」 というのとは、 どういう区別があるのか。
^答えていう。 ただ便宜によっていうので、 その意味には区別がないのである。 ^蓮華が開けるときにおいて、 この人の
^この三種の人はいずれも浄土において発心する。 まさしく大乗の法を聞くから、 「大乗の種が生ずる」 というのであり、 小乗の法を聞かないから、 そういうわけで 「二乗の種が生じない」 というのである。 ^すべて 「種」 というのは、 それは 「心」 のことである。 ^これで二乗の種が生じないという意義を解釈しおわった。 ^女人および不具者は浄土にはおらないから知るべきである。
^また、 十方の衆生で、 小乗の戒行をつとめて往生を願う者は、 少しも妨げなくみな往生できる。 ただ、 浄土に生まれてからまず小乗の果をさとり、 さとってから大乗に転向する。 一たび大乗に転向してからは、 ふたたび退いて二乗の心をおこさないから 「二乗の種は生じない」 という。 ^前の下三品の解釈は、 根機がいずれとも定まっていない初めについていうのであり、 後の中三品の解釈は、 小乗のさとりを開いた後についていうのである。 よく知るべきである。
【26】^第七に、 韋提希が仏の説法を聞いて利益を得た
^問うていう。 韋提希はすでに無生法忍の益を得たというが、 いつの時に無生法忍を得たのか。 それはどの文に出ているのか。
^答えていう。 韋提希が無生法忍を得たのは、 第七観 (華座観) の初めに出ている。 ^経文に、
仏が韋提希に告げられる。 「仏はそなたのために苦悩を除く法を説き明かすであろう」 と。 このことばを説かれたときに、 無量寿仏が空中に立たれ、 観音菩薩・勢至菩薩が左右につきしたがっていた。 そのとき韋提希は、 仏のあらわれたもう時に応じて見たてまつることができ、 み足に
と説かれてあるのは、 喜びほめたたえて無生法忍を得たことである。 ^どうして知ることができるかというと、 経の終りの利益分の中に説いて、
仏身と観音・勢至の二菩薩を見ることができて、 心に喜びを生じ、 いまだかつてないことをほめたたえ、 あきらかに悟って無生法忍の益を得た。
といわれるとおりである。 ^これはさきの序文の中 (欣浄縁) の光台で浄土を見たときに得たのではない。
^問うていう。 さきの文 (定善示観縁) の中に説いて、
かの浄土のすぐれた荘厳を見て心に喜びを生ずるから、 時に応じて無生法忍を得る。
といわれてある。 この一義をどう解釈するのか。
^答えていう。 このような義は、 ただこれは世尊が、 前の韋提希が別して弥陀の浄土に往生する行を請うたのにこたえて、 あらかじめその利益を上げて行ずることを勧められる序である。 ^どうして知ることができるかというと、 その次の経文の中に説いて、
諸仏如来にはすぐれた方法があって、 そなたに見ることを得させよう。
と仰せられてある。 ^後に示される日想・水想・氷想などから第十三観に至るまでの観法を、 すべてすぐれた方法というのである。 衆生をしてこの観法において一々成就させ、 かの浄土のすぐれたことを見て心に喜びを生ずることによって、 無生法忍を得させようと思われるのである。 ^これはただ如来が末代の衆生を慈しみ、 観の利益をあげて修めることを勧め、 行を積む者に、 一人のこらず仏力を加えて現在に無生法忍の益を得させようと思召されるからである。
【27】^霊証をあげていう。
^いままで七門の別があるけれども、 すべてこれは経文を解釈する前の要義を述べたもので、 経と論とが相違するという妨難を解くのに、 一々仏の教えを引いて証明した。 信を得ようとする者をして疑いをなくし、 往生を求める者に滞ることがないようにしたいと思うからであるからである。 よく知るべきである。
観経玄義分 巻第一