観経玄義分 巻第一

沙門善導集め記す

 

【1】 ^まず*大衆だいしゅ*発願ほつがんを勧めるために、 *三宝さんぼうに帰依したてまつる。

^僧俗すべての人々よ おのおの無上の信心をおこせ

^生死まよいは はなはだ厭いがたく 仏法はまたねがいがたい

^それゆえともどもに*りき金剛の信心をおこして ただちに生死の流れを断ちきり

^弥陀の浄土に往生を願って 如来を信じ合掌・礼拝せよ

^*そんよ 私は一心に ªあらゆる十方の

^*ほっしょう真如しんにょかい *報身ほうじん*しんなどの諸仏がた

^一々の菩薩身 および無数の*眷属けんぞく

^荘厳身および変化身 *じゅうならびに*三賢さんげん位の菩薩

^修行の時劫の満ちたものと満たないもの 智行のまどかなものと円かでないもの

^*煩悩ぼんのうの尽きたものと尽きないもの 余残の気の亡くなったものと亡くならないもの

^有功うくゆうのものと*無功むくゆうのもの *真如しんにょの理をさとったものとさとらないもの

^*みょうがくおよび*等覚とうがくのかた すなわちまさしく*金剛こんごうしんを得て

^真如をさとる最後の一念を経て *とくはんをきわめる方º などに帰依したてまつる

^わたしたちはことごとく *三仏さんぶつだいそんに帰依したてまつる

^自在の*神通じんずうりきをもって 願わくはひそかに加護して摂めたまえ

^わたしたちはことごとく *さんじょうなどの*げんじょうのかたがた

^すなわち仏になる慈悲を修めて とこしえに退転しない方に帰依したてまつる

^請い願わくは遥かに加護して 念々に諸仏を見せしめたまえ

^わたしたち愚かな*ぼんは おんの昔より迷いをつづけてきたが

^いまや*しゃぶつの *末法まっぽうの世に遺された

^弥陀の*ほん誓願ぜいがん *極楽ごくらくに入るかなめな門にうた

^*じょうぜん*散善さんぜんをひとしく回向して すみやかに*しょうしんをさとろう

^わたしは*さつぞうであり *とんぎょうである*いちじょうの教法に依って

^*をつくって三宝に帰依したてまつり 仏のみ心と相応したい

^十方の数かぎりない仏たち *ろく神通じんずうをもってわたしを照覧したまえ

^いま釈迦・弥陀二尊の教えによって 広く浄土の法門を明らかにする

^願わくは この尊い功徳をもって すべての人々に与え

^もろともに信心をおこして *安楽あんらくこく*おうじょうしよう

【2】 ^この ¬*かんぎょう¼ 一部の中について、 まず七門を作って分別し、 その後、 経文に依ってそのいわれを解釈する。 ^第一にまず一経の大意をかかげ、 第二に次に、 その経の名を解釈し、 第三に経文に依っていわれを解釈し、 諸経に明かす宗旨かなめの不同と、 いまの ¬観経¼ の*だいじょう*小乗しょうじょうの所属を述べ、 第四にまさしく経文を説くにんの区別を顕わし、 第五に定散二善について通と別とのちがいのあることを解釈し、 第六に経論の文の相違するに似たところを*つうして、 広く問答を設けて疑問を解き、 第七に*だいが仏の説法を聞いて利益を得た分斉ところを解釈する。

【3】 ^第一にまず一経の大意をかかげるとは、

 ^ひそかに考えてみると、 真如は広大であって、 *じょうはそのほとりをはかることができず、 *ほっしょうは深高であって、 *じっしょうの菩薩もそのきわを知ることができない。 真如の体は無量であって、 その性はうごめく小さな虫の心にもゆきわたり、 法性は無辺であってそのものがらはもとより不動である。 けがれのない真如は、 凡夫にも*しょうじゃにも同じように円かにそなわっており、 煩悩のあるものも煩悩のないものも、 *一如いちにょはすべての*じょうにゆきわたり、 *ごうしゃの功徳をそなえて、 そのはたらきは湛然たんねんとしている。

 ^ただ煩悩のさわりに覆われることが深いから、 清浄な真如のものがらを顕わす術がない。 ^そこで釈迦仏は大悲の心から西方 (無勝世界)*やくをさしおいて、 驚いて*しゃ*たくの門に入られ、 *かんのみのりを注いであらゆる*ぐんじょうをうるおし、 智慧の光を輝かして永い迷いの闇を明るくせられ、 三檀さんだん (財施・法施・無畏施) をひとしくこうむらせ、 しょう (布施・愛語・利行・同事) をもってすべての者をおさめ、 長い間の苦しみの因を明らかにして、 とこしえの楽果に悟り入らせたもうのである。

【4】 ^迷いの衆生の根性の隔たり、 その望みの不同をいわず、 すべて純一の機ではないけれども、 五乗それぞれに被らせるはたらきがあるから、 慈愛の雲を*三界さんがいに布き、 大悲の法雨を注いで、 ひとしく迷いの者をうるおし、 すべての者にこれまで聞いたことのない尊い利益を与えてくださる。 これによって、 *だいの種子が芽を出し、 その*しょうがくの芽は次第に成長するのである。

 ^自分の心を本としていろいろの行を起こす法門は、 八万四千に余っている。 *ぜんぎょう・頓教おのおのそのよろしきにかなって、 自分に因縁のある法にしたがう者はみな*だつを被る。

【5】 ^しかしながら、 衆生は障りが重くて悟りを求めても得がたく、 法門はたくさんあっても、 凡夫はいずれも行ずることができない。 ^たまたま韋提希が釈迦仏に願って 「わたしは今、 安楽浄土に往生したいと望みます。 ただ願わくは如来、 わたしに定善の観法を教えてください」 といったことにより、 ^そこで、 娑婆の教化の主である釈迦仏は、 その韋提希の請いをもととして広く浄土の*要門ようもんを開かれ、 安楽の能化の人である*阿弥陀あみだぶつは、 ならびのない*がんを顕された。 ^その要門というのは、 この ¬観経¼ の定善・散善で往生する法門がこれである。 定善というのは、 散乱の思いをとどめて心を一つのところに凝らすのであり、 散善というのは、 散心のままで悪をめて善根を修めるのである。

 ^弘願というのは ¬大経¼ に説かれてあるとおりである。 すべて善悪の凡夫が往生できるのは、 みな阿弥陀仏の*大願だいがん業力ごうりきによってこれを最上の力としないものはない。

 ^また、 仏の思召おぼしめしはひろく奥深くして、 その教えの意味は知りがたい。 三賢・十聖の菩薩でさえはかりうかがうところではない。 まして、 わたしは愚かな凡夫である。 どうしてその思召しをはかり知ることができようか。 ^うやうやしく思うに、 釈迦如来は娑婆においてお勧めくだされ、 阿弥陀仏は浄土からお迎えくださる。 かしこからは来たれと喚び、 こちらからは往けよと勧められる。 どうして往かずにおられようか。 ^ただ心からみのりにつかえ、 一生相続して、 この迷いのけがれたからだを捨てて、 かの法性のさとりを開くべきである。 ^ここに略して ¬観経¼ 一部の大意をかかげ終わった。

【6】 ^第二に、 次に経の名を釈するとは、

 ^経に ¬仏説無量寿観経 一巻¼ と仰せられてある。

 ^¬仏¼ というのは、 これは印度のもとのことばであって、 この国では覚という。 自覚覚他して覚行の満ち窮まるのを名づけて仏とする。 ^「自覚」 というのは凡夫に区別する。 これは、 *しょうもんのさとりは狭く劣っていて、 ただよく*自利じりすなわち自らは覚っているが、 人を救う利他の大悲が欠けているからである。 ^「覚他」 というのは声聞・*縁覚えんがくの二乗に区別する。 これは、 菩薩は智慧があるからよく自ら覚り、 また慈悲があるからよく他を利益するのであって、 つねによく慈悲と智慧とをならべ行って、 生死まよい涅槃さとりとにとどまらないからである。 ^「覚行の満ち窮まる」 というのは菩薩に区別する。 これは、 如来は智行がすでに窮まって修行の時劫もすでに満ち、 凡夫・二乗・菩薩の三つの位を超えているから仏と名づけるのである。

 ^¬説¼ というのは口で陳べるから説という。 また如来は、 機類に対して法を説かれるのにいろいろ不同である。 漸教・頓教と機類のよろしきに随い、 隠すと彰わすとの別がある。 あるいは*六根ろっこんで通じて説かれる。 *相好そうごうもまた同様である。 おもいに応じ、 機に応じてみなさとりの利益を蒙るのである。

【7】 ^¬無量寿¼ というのは、 これはこの国の漢語であって、 *南無なも弥陀みだぶつというのは、 またこれは印度のもとのことばである。 また 「南」 は 「帰」 であり、 「無」 は 「命」 であり、 「阿」 は 「無」 であり、 「弥」 は 「量」 であり、 「陀」 は 「寿」 であり、 「仏」 は 「覚」 であるから、 「帰命無量寿覚」 という。 ここに梵語と漢語とを相対すれば、 そのいわれはこのとおりである。 ^いま 「無量寿」 というのは弥陀のさとられた法であり、 「覚」 とはさとった人であって、 人と法とをならべあらわすから阿弥陀仏と名づけるのである。

【8】 ^また、 この人法すなわち阿弥陀仏というのは所観の境であって、 その中に二つある。 一つには*ほうであり、 二つには*しょうぼうである。 ^依報の中がまた三つになる。 ^一つには地下じげの荘厳であって、 すなわちすべての宝幢の光明が互いに映りあうなどがこれである。 ^二つには地上の荘厳であって、 すなわちすべての宝の地面・池・林・たかどの・宮殿などがこれである。 ^三つには虚空の荘厳であって、 すべての空中にあらわされたもの、 すなわち宝の宮殿・華網・宝雲・化鳥・風光が動いて声や音楽を出すなどがこれである。 ^いま述べたように三種の差別があるといっても、 これはみな弥陀の浄土の*無漏むろ真実の勝れたすがたである。 これは総じて依報の荘厳を結ぶ。

 ^また依報というのは、 日想観から華座観までは、 すべて依報の荘厳を明かす。 この依報の中につうべつとがある。 ^別というのは、 華座観の一つはこれがその別の依報であって、 ただ阿弥陀仏だけに属する。 ^その他の上の六観は通の依報であって、 *法界ほうかいの凡夫や聖者に属し、 ただ浄土に往生したものが、 ともどもに用いるから通という。

 ^またこの六観の中にしんとがある。 ^仮というのは、 すなわち日想・水想・氷想などがその仮の依報である。 これは、 この娑婆世界の中の類似して見られる境界だからである。 ^真の依報というのは、 瑠璃地から宝楼観までがその真の依報である。 これはかの浄土の真実無漏の見られる境界だからである。

 ^二つに正報の中がまた二つになる。 ^一つには主荘厳であって、 阿弥陀仏がこれである。 ^二つには聖衆荘厳であって、 現に浄土に在る者、 および十方の法界から同じように生まれる者がこれである。

 ^また、 この正報の中にも通と別とがある。 ^別というのは阿弥陀仏であって、 この別の中にもまた真と仮とがある。 ^仮の正報というのは第八の像観がこれであり、 *観音かんのんさつ*せいさつなどについてもまたこのとおりである。 これは、 衆生は障りが重く煩悩が深いことによって、 釈迦仏は、 ただちに如来の真実のおすがたを観じても、 その仏身の現われるわけがないことを恐れられるから、 ぎょうぞうを仮りに立ててそこに心想をとどめさせ、 真仏と同じようにして境をあらわさしめてくださるのである。 それゆえ仮の正報という。 ^真の正報というのは第九の真身観がこれである。 これは前の仮の正報を観ずることによって、 ようやく乱想がやみ、 心眼が開け、 ほぼ、 かの浄土の浄らかな依報・正報のいろいろな荘厳を見たてまつり、 それによって昏惑を除き、 障りを除くから、 かの真実の境を見ることができるのである。 ^通の正報というのは、 観音・勢至などがこれである。 ^さきから述べてきた通・別、 真・仮はまさしく依報・正報の二つを明かすのである。

【9】 ^¬観¼ というのは照らすの意味である。 いつも浄らかな信心を手として、 それによって智慧の輝きをたもち、 かの弥陀の浄土の正報・依報などの荘厳の事相ありさまを照らし見るのである。

 ^¬経¼ というのは経糸たていとの意味である。 経糸はよく緯糸よこいとたもって一匹一丈の織物となり、 その織物のはたらきがある。 ^経はよくそのあらわすところの法をたもって、 法と言葉がたがわず、 定散の機類に応ずるところの法義をすべてもらさない。 よくこれを修める者をして、 かならず教行の縁因により、 如来の*願力がんりきに乗じて往生させ、 かの無為の法楽をさとらせる。 すでに浄土に往生すれば、 さらに畏れることなく長く行業を修めてついに仏果を極め、 法身の常住なることは虚空のようである。 よくこういう利益を招くから経というのである。

 ^¬一巻¼ というのは、 この ¬観経¼ 一部は*王舎おうしゃじょう*しゃ崛山くっせんとの二つの*会座えざの正説であるといっても、 それをこの一つにまとめてあるから一巻と名づける。 ^こういうわけで ¬仏説無量寿観経 一巻¼ というのである。 ^ここに ¬観経¼ の名義を解釈しおわった。

【10】^第三に、 諸経に明かす宗旨かなめの不同と、 いまの ¬観経¼ の大乗・小乗の所属を述べるとは、

 ^¬*ゆいぎょう¼ のごときは 「*思議しぎだつ」 を説くのをかなめとし、 ¬*大品だいぼん般若はんにゃきょう¼ のごときは 「*くう」 を説くのをかなめとする。 こういうようなことは、 諸経みなそうである。 ^いまこの ¬観経¼ は、 *観仏かんぶつ三昧ざんまいをもってかなめとし、 また*念仏ねんぶつ三昧ざんまいを説くのをもってかなめとする。 そうして、 一心に弥陀の浄土に心を向けて往生を願うのを、 そのすわりとするのである。

【11】^教の大乗・小乗をいうならば、

 ^問うていう。 この経は*しょうもんぞう*さつぞうの中ではどちらの方に入るのか。 また頓教・漸教の中ではいずれの教に入るのか。

 ^答えていう。 いまこの ¬観経¼ は、 二蔵の中では菩薩蔵すなわち大乗に収める。 また二教の中では頓教の中に摂めるのである。

【12】^第四に、 経を説いたにんの区別をいうとは、

 ^すべて諸経の説法は五種のほかはない。 一つには仏の説法であり、 二つには仏弟子の説法であり、 三つには諸天や仙人の説法であり、 四つには鬼神の説法であり、 五つには仏・菩薩の変化身の説法である。 ^いまこの ¬観経¼ は、 仏が自ら説かれたものである。

 ^問うていう。 仏は何処いずこにおられて説かれ、 誰のために説かれたのか。

 ^答えていう。 仏は王の宮殿におられて、 韋提希などのために説かれたのである。

【13】^第五に、 定善・散善の両門について解釈するならば、 六つの義がある。

 ^一つには、 請うた者は韋提希であり、 二つにその請いを受けられた方は世尊である。 三つには、 お説きになった方は如来であり、 四つにその説かれた法は定・散の二善すなわち十六観の法である。 五つには、 化導をなさった方は如来であり、 六つにその化導を受けた者は韋提希などがこれである。

【14】^問うていう。 定・散の二善は誰の請いにるのか。

 ^答えていう。 定善の一門は韋提希が請うたのであり、 散善の一門は仏がみずからの思召しで説かれたのである。

^問うていう。 定・散の二善はいずれの文に出ているのか。 今すでに教えが備わってその利益は虚しくないとするならば、 どういう*こんが受けるのか。

^答えていう。 これを解釈するのに二義がある。 ^一つには、 *謗法ほうぼうと無信と*八難はちなんしょおよび*にんなど、 これらは教化を受けない。 これは、 朽ちた林は芽を出すことがなく、 堅い石は潤わされるときがない。 これらの衆生は必ず化益を受けるいわれがない。 こういう機類を除いたほかは、 二心なく信じて往生を願えば、 上は一生涯、 下は十念念仏に至るまで、 如来の願力によってみな往生しないものはない。 これで上のどういう根機が受けるかということを答えおわった。

 ^二つには、 いずれの文に出ているのかといえば、 これに通 (諸仏に通ずる) と別 (弥陀に限る) とがあって、 ^「通」 というのは三文の不同がある。 ^何かといえば、 一つに 「韋提希が仏に申しあげる。 ¬わたしのために広く憂悩のないところを説いてください¼」 というところからは、 これは韋提希が自分の心を述べて、 みずから通じて浄土を請うたのである。 ^二つに 「ただ願わくは如来、 わたしに清浄業の処を観ずる行を教えてください」 というところからは、 韋提希がみずから通じて往生の行を請うたのである。 ^三つに 「世尊が光台に国を現わされる」 というところからは、 前の通じて請うた 「わたしのために広く (憂悩のないところを) 説いてください」 のことばに答えたもうたのである。 ^三文の不同があるけれども、 これは前の 「通」 を答えおわった。 ^「別」 の中に二つの文がある。 ^一つには 「韋提希が仏に申しあげる。 ¬わたしは極楽世界の阿弥陀仏のみもとに往生することを願います¼」 というところからは、 韋提希がみずから別して弥陀の浄土を選んだのである。 ^二つには 「ただ願わくは世尊、 わたしに思惟を教えてください。 わたしに正受を教えてください」 というところからは、 韋提希がみずから別して弥陀浄土の往生の行を修めることを請うたのである。 ^二文の不同があるけれども、 上の 「別」 を答えおわった。

 ^これから以下は、 次に定善・散善の二門の義を答える。

 ^問うていう。 何を定善と名づけ、 何を散善と名づけるのか。

 ^答えていう。 日想観よりしも、 第十三観に至るまでを名づけて定善とし、 *三福さんぷく*ぼんを名づけて散善とする。

 ^問うていう。 定善の中にどういう区別があるのか、 それがいずれの文に出ているのか。

 ^答えていう。 いずれの文に出ているのかといえば、 経に 「わたしに思惟を教えてください、 わたしに正受を教えてください」 と説かれてある。 この思惟・正受の文がそれである。 区別というのは二つの義がある。 一つには思惟であり、 二つには正受である。 ^「思惟」 というのは、 正観のあらわれる前の方便の位であって、 かの浄土の依報・正報の総相や別相を想うのである。 すなわち地想観の文の中に説かれて 「このように観想するのを、 ほぼ極楽浄土の地面を見たという」 と仰せられるのは、 上の 「わたしに思惟を教えてください」 という一句に応ずる。 ^「正受」 というのは、 観想の心の動きがすべてやんで、 能観の心と、 所観の境が相応するのを名づけて正受とする。 すなわち地想観の文の中に説かれて 「もし*三昧さんまいを得るならば、 かの浄土の地面を明了に見る」 と仰せられるのは、 上の 「わたしに正受を教えてください」 という一句に応ずる。 ^定善・散善二義の不同があるけれども、 すべて上の問いに答えおわった。

【15】^また、 さきより述べたような解釈は他師らと同じではない。 ^他師らは思惟の一句をもって、 三福九品に合わせて散善とし、 正受の一句を通じて十六観全体に合わせて定善とする。 ^このように解釈することは正しくないであろう。 ^なぜかというと ¬*ごんぎょう¼ に説かれてあるのによれば、 「思惟・正受」 はただ定善観の異名であって、 この地想観の文と同じである。 この文をもって証明するのに、 どうして思惟・正受の文を散善にまで通じさせることができようか。

 ^また、 今まで述べたように、 韋提希は、 はじめには、 ただ 「わたしに清浄業の処を観ずる行を教えてください」 といい、 次には 「わたしに思惟を教えてください、 わたしに正受を教えてください」 といって、 通 (諸仏浄土に通ずる) と別 (弥陀浄土につく) との二つの請いがあるけれども、 これはただ定善であって、 ^散善を請うところの文は全くない。 散善はすべて仏がみずから開示されたものである。 下の散善さんぜんけんぎょうえんの中に説いて 「また未来世の一切凡夫のために」 というより以下が、 すなわちその文である。

【16】^第六に経論の相違するに似たところを会通し、 広く問答を設けて疑問を解くとは、

 ^この門の中に六つある。 第一にはまず他師らの九品の解釈を示す。 第二には道理をもってこれを破る。 第三には重ねて九品の経文をあげて対破する。 第四には経文を挙げて、 ¬観経¼ の説は全く凡夫のためであって聖者のためでないということを証明する。 第五には*べつ時意じいというについて解釈する。 第六には二乗種不生という意味を解釈する。

【17】^初めに他師らの解釈をいうならば、

 ^まず上輩の三種の人を挙げると、 *じょうぼん上生じょうしょうというのは、 四地より七地に至るまで (四・五・六地) の菩薩である。 なぜそう知ることができるかというと、 浄土に往生してただちに*しょう法忍ぼうにん (七地以上) を得るからである。 ^*じょうぼん中生ちゅうしょうとは、 初地より四地に至るまで (初・二・三地) の菩薩である。 なぜそう知ることができるかというと、 浄土に往生して一小劫を経て無生法忍を得るからである。 ^*じょうぼんしょうとは、 *しゅ性住しょうじゅう以上初地に至るまで (十住・十行・十回向) の菩薩である。 なぜそう知ることができるかというと、 浄土に往生して三小劫を経てはじめて初地に入るからである。 ^この上輩の三種の人は、 みなこれ大乗の聖者の往生する位である。

 ^次に、 中輩の三種の人を挙げると、 他師らがいうには、 *ちゅうぼん上生じょうしょうは、 小乗の*四果しかの中の前三果 (須陀・斯陀含・阿那含) の人である。 どうして知ることができるかというと、 浄土に往生してただちに*阿羅あらかんを得るからである。 ^*ちゅうぼん中生ちゅうしょうとは、 *内凡ないぼんの位である。 どうして知ることができるかというと、 浄土に往生してから*しゅおんをさとるからである。 ^*ちゅうぼんしょうとは、 世間の善根を修める凡夫で、 迷いの苦を厭い往生を求める者である。 どうして知ることができるかというと、 浄土に往生して一小劫を経て阿羅漢果を得るからである。 ^これら中輩の三種の人は、 ただこれ小乗の聖者たちである。

 ^下輩の三種の人は、 大乗を始めて学ぶ凡夫であって、 罪の軽重によって三種に分けるけれども、 共に同じく*十信じっしん位で、 往生を願う者であるといっている。

 こういう他師らの説は、 いまだ必ずしもそうではない。 よく知るべきである。

【18】^第二に道理をもってこれを破るとは、

 ^さきに他師らが初地より七地に至るまでの菩薩であるといっているのは、 ¬華厳経¼ に説かれているとおりである。

^初地以上七地までの菩薩は、 すなわち*ほっしょうしょうじんであり*変易へんやくしょうじんの菩薩であって、 このような方は三界の*分段ぶんだんしょうの苦しみがない。 そのはたらきをいえば、 すでに二大*そう*こうを経て、 福徳・智慧をならべ修め、 *人空にんくう*法空ほうくうを共にさとっていることは、 いずれも思いはかることができぬ。 神通は自在で、 いろいろ形を変えて現われることができる。 その身は報土にって常に報身仏の説法を聞き、 十方世界を教化して、 しばらくの間にあらゆる所へ行きわたる。

 ^このような菩薩が、 さらに何を憂えて、 韋提希がそういう菩薩のために仏に請うことによって安楽国に往生することを求めるはずがあろうか。 この文をもって証明すると、 他師らのいうところは、 どうしてあやまりでないといえようか。 上品上生と上品中生との二つについて答えおわった。

 ^上品下生とは、 上に種性住から初地に至るまで (十住・十行・十回向) というているが、 必ずしもそうではあるまい。 ^(大品般若経など) に説かれているとおりである。

これらの菩薩を名づけて不退とする。 身は生死まよいりながら生死のために汚されないことは、 鵞鴨あひるが水の中にありながら水はぬらすことができないようなものである。

 ^また、 ¬大品般若経¼ に説かれているとおりである。

この位の中の菩薩は二種の真の善知識の守護を得るから不退である。 それは何かというと、 一つには十方の諸仏であり、 二つには十方の諸大菩薩であって、 いつもしん口意くい*三業さんごうをもって外から加護せられるから、 いろいろの善法を退失することがない。 ゆえに不退の位と名づけるのである。

^これらの菩薩もまたよく迷いの世界に出て*八相はっそうじょうどうして衆生を教化する。 その修行の功を論ずるならば、 すでに一大阿僧祇劫を経て福徳・智慧などをならべ修めている。

 ^すでに、 こういうすぐれた徳がある。 さらに何を憂えて、 韋提希の請いによって往生を求めようか。 この文をもって証明とする。 ゆえに他師らの判定したことは、 またあやまりとなることが知られる。 これは上輩について責めおわった。

 ^次に、 中輩の三種の人について責めるならば、 他師らは、 中品上生は小乗の前三果の人であるといっている。 しかしながら、 これらの人は*さんを永く絶っており、 *悪趣あくしゅには生まれない。 現在に罪業を造っても、 きまって未来の報いを受けない。 仏が 「この四果の人は、 われと同じく解脱さとりの座にすわる」 と仰せられるとおりである。 ^すでにこのような修行のはたらきを持った人である。 そういう者がさらにまた何を憂えて、 韋提希の請いによって往生の路を求めようか。 ^ところで、 仏の大悲は苦しむ者に対するのであって、 そのお心はひとえにいつも迷いに沈んでいる衆生をあわれみたもうのである。 そこで浄土に帰するよう勧められる。 また水に溺れているような人は、 いそいで特に救わねばならないが、 岸の上にいる者はどうして救う必要があろうか。 この文をもって証明とする。 ゆえに他師らの判定した義は、 前のあやまりと同じであることが知られる。 ^中品中生以下はこれに例して知るべきである。

【19】^第三に、 重ねて九品の経文を挙げて他師らの説を対破するとは、

 ^他師らは 「上品上生の人はこれは四地より七地に至るまでの菩薩である」 というが、 それならば、 ^なぜ ¬観経¼ に、

三種の衆生がみな往生を得るであろう。 その三種とは何であるかというと、 一つには、 ただよく*かいをたもち慈悲を修める。 二つには、 戒をたもち慈悲を修めることはできないけれども、 ただよく大乗の経典を読む。 三つには、 戒をたもち経を読むことはできないけれども、 ただよく仏法僧の三宝などを念ずる。 ^これらの三種の人がおのおの自分の行業を専心に励んで、 一日一夜から七日七夜に至るまで断えず相続し、 それぞれ自分の修めた行業を因として往生を願うと、 命の終わろうとするときに阿弥陀仏が化仏・菩薩・大衆と共に光明を放ち、 み手を授けて、 指を弾くほどのわずかのあいだに、 かの浄土に生まれる。

と説かれてあるのか。 ^この文をもって証明すると、 まさしくこれは仏が世を去られた後の、 大乗の行を修める極めて善い上品の凡夫であって、 日数は少ないけれども行業を修める時は非常にゆうみょうである。 それをどうして大乗の上位の聖者と同じであるとすることができようか。 ^ところで、 四地より七地までの菩薩は、 その修行したはたらきをいえば思いはかることができぬ。 どうして一日から七日までのわずかな善根によって、 華台や仏・菩薩が手を授けたもう*来迎らいこうを受けて往生することがあろうか。 ^これは上品上生について対破しおわった。

 ^次に上品中生について対破するならば、 他師らはこれを初地より四地までの菩薩であるというが、 そうならば、 ^なぜ ¬観経¼ に 「ひつじゅだいじょう(必ずしも大乗を受持しない) と説かれてあるのか。 「不必」 とはどういうことかというと、 あるいは読む者もあり読まない者もあるから 「不必」 というのである。 また、 ただ 「ぜん(大乗の義を解する) というだけで、 その行のことは論じてない。 ^また 「深く因果を信じて大乗の法を謗らず、 これらの善根を因として往生を願えば、 命の終わろうとするとき阿弥陀仏が化仏・菩薩の大衆と共に一時にみ手を授け、 そこで浄土に往生する」 と説かれている。 ^この文をもって証明すると、 またこれは釈迦仏が世を去られて後の、 大乗の行を修める凡夫で、 その修める行業が上品上生よりやや弱くて、 臨終の時の来迎の相がちがうのである。 ^ところで初地より四地までの菩薩は、 その修行したはたらきをいえば、 ¬華厳経¼ に説かれてあるとおりで、 思いはかることができぬ。 どうして韋提希が請うたことによって、 そこで往生を得るということがあろうか。 ^上品中生について対破しおわった。

 ^次に上品下生について対破するならば、 他師らは、 これは種性住以上初地に至るまでの菩薩であるというが、 そうならば、 ^なぜ ¬観経¼ に 「亦信やくしんいん」 というのか、 「亦信」 とはどういうことかというと、 あるいは信じ、 あるいは信じないから 「亦」 というのである。 ^また 「大乗を謗らず、 ただ*じょうだいしんをおこす」 と説かれてある。 ただこれのみをまさしい行業として、 そのほかの善はない。 「この一行を因として往生を願えば、 命の終わろうとするとき阿弥陀仏が化仏・菩薩の大衆と共に一時にみ手を授けたもうて、 そこで往生を得る」 といわれてある。 ^この文をもって証明すると、 ただこれは釈迦仏が世を去られて後の、 大乗心をおこすすべての人々であって、 その行業が強くないから往生する時の来迎の相がちがうのである。 ^もしこの位 (十住・十行・十回向) の中の菩薩のはたらきをいうならば、 十方の浄土へ思いのままに往生できるのである。 どうして、 韋提希がそういう人のために仏に請うて西方極楽国土に往生することを勧めるのによろうか。 ^上品下生について対破しおわった。

 ^そこで、 上輩の三種の人は往生の時のありさまがちがう。 どうちがうかというと、 上品上生の者が往生する時には仏が無数の化仏と共に一時にみ手を授け、 上品中生の者が往生するときには仏が千の化仏と共に一時にみ手を授け、 上品下生の者が往生する時には仏が五百の化仏と共に一時にみ手を授けてくださるのである。 これはただ修めた行業に強弱があるから、 このちがいができるのにすぎない。

 ^次に、 中輩の三種の人について対破するならば、 他師らが、 中品上生はこれは小乗の前三果の人であるというが、 そうならば、 ^なぜ ¬観経¼ に 「もし衆生あって、 *かい*八戒はっかいをたもち、 またいろいろの戒を修行して、 五逆を造らずいろいろの過ちがないであろう。 そういう者が命終わろうとする時、 阿弥陀仏が比丘の衆生と共に光明を放ち法を説いてその人の前に現われる。 この人はそれを見おわって、 そこで往生を得る」 と説かれてあるのか。 ^この文をもって証明すると、 またこれは釈迦仏が世を去られて後の、 小乗の戒をたもつ凡夫である。 どうして小乗の聖者ということができようか。

 ^中品中生については、 他師らは 「*見道けんどう以前の内凡である」 というが、 そうならば、 ^なぜ ¬観経¼ に 「一日一夜の戒をたもって往生を願い、 命終わろうとするとき仏を見たてまつって往生を得る」 と説かれてあるのか。 ^この文をもって証明すると、 どうして内凡の人ということができようか。 ただこれは釈迦仏が世を去られて後の、 善根のない凡夫で、 寿命があって一日一夜小乗の縁に遇うてその小乗の戒を授かり、 それを因として往生を願い、 弥陀の願力によって往生を得るのである。 ^もし小乗の聖者についていうならば、 その往生も妨げはない。 ただこの ¬観経¼ は、 仏が凡夫のために説きたもうたのであって、 聖者のためではない。

 ^中品下生については、 他師らは、 小乗の内凡より前の世俗の凡夫で、 ただ世間の善根を修めて出離を求める者であるというが、 そうならば、 ^なぜ ¬観経¼ に 「もし衆生あって、 父母に孝養をつくし、 世間の慈しみを行う者が、 命終わろうとする時、 善知識がその人のためにかの浄土の楽しいありさまや四十八願などを説かれるのに遇い、 この人はそれを聞きおわって、 そこで浄土に往生する」 と説かれてあるのか。 ^この文をもって証明すると、 これはまだ仏法に遇わない人であって、 父母に孝養をつくすといっても、 心に出離をねがい求めたことはない。 ただこれは臨終に、 はじめて善知識が往生を勧めてくださるのに遇い、 この人はその勧めによって浄土に心を向けて、 そこで往生を得るのである。 ^またこの人は平生のとき自然に孝養を行ったのであって、 出離のために孝養をつくしたのではない。

 ^次に下輩の三種の人を対破するならば、 他師らは、 これらの人は大乗を始めて学ぶ十信位の凡夫であって、 罪の軽重にしたがって三品に分けるが、 まだ修行をしていないから、 その上下を区別しがたいといっているが、 ^そうではなかろうと思う。 何となれば、 この三種の人は、 仏法につけ、 世間につけ、 いずれの善根もなく、 ただ悪を作ることだけを知っている。 ^どうしてそれが知られるかというと、 *ぼん上生じょうしょうの文に説かれているとおりである。

ただ五逆と謗法を作らないだけで、 そのほかの悪はみなことごとく造り、 わずか一念も*ざんする心がない。 ^そういう者が命終わろうとする時、 善知識がその人のために大乗を説き、 教えて念仏させるのに遇う。 一声すると、 そのとき阿弥陀仏は化仏・菩薩をつかわして、 この人を来迎し、 そこで往生を得る。

 ^このような悪人は、 すべて人の常に見るところである。 もし善知識の縁に遇えば往生を得るが、 善知識の縁に遇わなければ必ず三途に沈んで出ることができない。

 ^*ぼん中生ちゅうしょうとは、

この人は、 さきに*戒律かいりつを受けたけれども、 受けおわってこれをたもたずにすぐ破り、 また寺にいつも備え付けてある常住僧物や、 時々に供養される現前僧物をぬすみ、 名聞利養のための不浄説法などをして、 わずか一念の慚愧心もない。 ^命が終わろうとするとき地獄の猛火が一時に共に来てその人の前に現われ、 その火を見る時にあたって、 善知識がその人のために、 かの仏国土の功徳を説いて往生を勧めてくださるのに遇う。 この人はそれを聞きおわって、 すぐに仏を見たてまつり、 その化仏にしたがって往生する。

とある。 ^初めには善知識に遇わないで地獄の火が迎え、 後には善知識に遇ったから化仏の来迎にあずかる。 これはすなわち弥陀の願力によるのである。

 ^*ぼんしょうとは、

これらの衆生は、 善くないおこないである五逆・十悪を造り、 いろいろの悪を犯している。 この人は悪業によるから必ず地獄に堕ちて多劫のあいだ窮まりない苦しみを受ける人であるが、 ^命終わろうとするとき、 善知識が南無阿弥陀仏と称えることを教え、 往生を勧めてくださるのに遇う。 この人はその教えにしたがって念仏し、 念仏によって往生する。

とある。 ^この人がもし善知識に遇わなければ必ず地獄に堕ちるところであったが、 臨終に善知識に遇うたことによって、 七宝の蓮台に迎えられたのである。

 ^また、 この ¬観経¼ の定善および三輩上下の文の意味をうかがうに、 すべてこれは釈迦仏が世を去られてから後の*じょくの凡夫である。 ただ縁に遇うことがちがうから九品の別ができるのである。 ^何となれば、 上品の三種の人は、 これは大乗の縁に遇うた凡夫であり、 中品の三種の人は小乗の縁に遇うた凡夫である。 下品の三種の人は悪縁に遇うた凡夫であって、 悪業があるから、 臨終に善知識により、 弥陀の願力に乗託してすなわち往生することができ、 かの国に至って華が開けて、 そこで始めて菩提心をおこすのである。 どうしてこれが大乗を始めて学ぶ十信位の人ということができようか。 もし他師らのような考えをするならば、 みずから利益を失い他をあやまらせて、 害をなすことがいよいよはなはだしい。

 ^いま、 一々経文を出して証拠を明らかにし、 今の時の善悪すべての凡夫をして九品の利益にうるおわせたいと思う。 信じて疑いなければ、 仏願力によってことごとく往生を得るのである。

【20】^第四に、 経文をあげて証拠を明らかにするとは、

 ^問うていう。 これまで対破したいわれはどうして知ることができるのか。 世尊は定んで凡夫のために説かれたのであって聖者のためでないということは、 ただ自分の考えをもって義にあてがっていうのか。 それともまた、 仏の教説にあって、 それをもって来て証拠とするのか。

 ^答えていう。 衆生は煩悩が重くて智慧が浅く、 仏の思召しは弘くて深いから、 どうしてたやすく自分でおしはかろうか。 今は一つ一つことごとく仏説をもって来て明らかな証拠としよう。 この証拠について十文がある。

 ^それは何かといえば、

 第一に、 ¬観経¼ に説かれているとおりである。 「仏が韋提希に告げられる。 ¬わたしはいまそなたのために、 広く浄土を観ずるいろいろの方法を説き、 また未来世のすべての凡夫で、 浄らかな行業を修めて往生したいと願う者を、 西方極楽世界に生まれさせよう¼」 というのが、 その一の証拠である。

 ^第二に、 「如来はいま、 未来世のすべての衆生の、 煩悩になやまされる者のために、 浄らかな行業を説く」 と仰せられてあるのが、 その二の証拠である。

 ^第三に、 「如来はいま、 韋提希および未来世のすべての衆生に、 西方の極楽世界を観ずる方法を教えよう」 と説かれてあるのが、 その三の証拠である。

 ^第四に、 「韋提希が仏に申しあげる。 ¬わたしはいま仏力によるから、 かの浄土を見ることができました。 もし仏が入滅せられた後の多くの衆生の、 濁悪不善で五苦にめられるものは、 どうしてかの仏の国土を見ることができましょうか¼」 と説かれてあるのが、 その四の証拠である。

 ^第五に、 日想観の初めに説かれているように、 「仏が韋提希に告げられる。 ¬そなたや衆生は、 おもいを専らにして¼」 より 「すべての衆生は、 生まれながらのめしいでない限り、 目のあるものは日を見よ」 とあるまでが、 その五の証拠である。

 ^第六に、 地想観の中に説かれているように、 「仏が阿難に告げられる。 ¬そなたは、 仏のことばをうけて、 未来世のすべての衆生の、 迷いの苦しみを逃れたいと思う者のために、 この浄土の地を観ずる法を説けよ¼」 とあるのが、 その六の証拠である。

 ^第七に、 華座観の中に説かれているように、 「韋提希が仏に申しあげる。 ¬わたしは仏力によるから、 阿弥陀仏および観音・勢至の二菩薩を見たてまつることができました。 未来の衆生はどうして見たてまつることができましょうか¼」 とあるのが、 その七の証拠である。

 ^第八に、 その次の文の請いに答えられる中に説かれているように、 「仏が韋提希に告げられる。 ¬そなたや衆生が、 かの仏を観察しようと思うものはよく想念を起せ¼」 とあるのが、 その八の証拠である。

 ^第九に、 像観の中に説かれてあるように、 「仏が韋提希に告げられる。 ¬諸仏如来はすべての衆生の心想の中にあらわれたもう。 それゆえそなたたちが心に仏を観察する時¼」 とあるのが、 その九の証拠である。

 ^第十に、 九品の中に一々 「すべての衆生のために」 と説かれてあるのが、 その十の証拠である。

 ^これまで述べたように十文の別はあるけれども、 如来がこの十六観法を説かれたのは、 ただいつも迷いに沈む衆生のためであって、 大乗・小乗の聖者のためでないことが証明できる。 これらの文によって証明するのに、 どうしてこれが誤りであろうか。

【21】^第五に、 別時意というについて解釈するとは、 すなわちこれに二つある。

 ^一つには、 論 (*しょうだいじょうろん) に、

もし人が、 ほう仏のみ名を称えるならば、 すなわち無上菩提をさとることにおいて退堕しない。

というてあるが、 ^およそ菩提というのは仏果の名であって、 またこれは正報である。 道理として成仏の法は、 必ず万行がまどかに備わって、 そこではじめて仏果を成ずる。 念仏の一行をもってただちに成仏を望むならば、 そういう道理があろうはずはない。 しかしながら、 すぐさとりは開かぬとはいうけれども、 これは万行の中の一つの行である。 ^どうして知ることができるのか。 ¬華厳経¼ に説かれてあるとおりである。

どくうん比丘びく善財ぜんざいに語っていうには、 「わたしは仏法の無量の三昧の中でただ一つの行を知っている。 それは念仏三昧である」 と。

 ^この文をもって証拠とするのに、 どうして一行ではないといわれようか。 ^これは一つの行ではあるけれども、 生死まよいの中にいて、 ついに成仏するまで、 ながくその功徳を失わないから、 「退堕しない」 というのである。

 ^問うていう。 もしそうであるならば ¬*法華ほけきょう¼ に

一たび南無仏と称える者は、 みなすでに仏道を成ずる。

と説かれてある。 これはまた成仏しおわることであろう。 この二つの文には何の区別があるのか。

 ^答えていう。 論 (摂大乗論) の中に多宝仏のみ名を称えるということは、 ただ自分が仏果を成就しようとする意味であって、 経 (法華経) の中に仏名を称えるということは、 *じゅうしゅどうと区別するためである。 ところで外道の中にはすべて南無仏と称える者はいない。 ただ一声でも仏のみ名を称える者は、 もはや仏法の中に摂められる。 ゆえに 「すでに仏道を成じおわる」 と仰せられるのである。

【22】^二つに、 論 (摂大乗論) の中に説いて 「人がただ願をおこすだけで安楽浄土に生まれる」 といってあるのを、 ^久しいあいだ*しょうろんしゅうの人たちは論の正意を理解しないで、 あやまって ¬観経¼ の下品下生の十声の称名を引いてこれと同じように見なし、 下品下生はすぐに往生するのではないとし、 ちょうど一金銭が千金銭となるのは長い月日がかかって得るので、 一日にすぐに千金銭となることができるのではないように、 ^十声の称名もまたこのとおり、 ただ遠い未来の往生のための因となるだけである。 こういうわけで、 すぐには往生することができない。 仏はただ未来の凡夫のために悪を棄てて仏名を称えさせようと思って、 かりに往生を得るといわれるので、 実際には往生を得るのではない。 これを別時意とするという。 もしそうならば、 ^どうして ¬阿弥陀経¼ に、

仏が*しゃほつに告げられる。 「もし善男・善女があって、 阿弥陀仏のいわれを説くのを聞くならば、 すなわち名号を称えよ。 一日あるいは七日のあいだ一心に往生を願うならば、 命が終わろうとするときに阿弥陀仏は多くの聖衆とともに迎えられ、 そこで往生する。」

と説かれ、 ^その次に、

十方の世界に、 それぞれ恒河の沙の数ほど多くの仏たちが、 あまねく三千大千世界を覆う広長の舌相を示して、 誠のことばを説いて ªそなたたち衆生はみな、 このすべての諸仏が護念される経を信ぜよ。º

と説かれるのか。 ^「護念」 というのは、 さきの文の一日あるいは七日のあいだ仏のみ名を称えることについていうのである。 ^いますでにこの経文がある。 これをもって明らかな証拠とする。 いまどきのすべての行者は、 なぜつまらぬ者のいうことを信用して、 仏の誠のおことばをかえって妄語いつわりのことばとしようとするのであろうか。 苦々しいことである。 どうして、 はげしくもよくこのような聞くに忍びないことばを出すのか。 ^しかしながら、 どうかすべての往生を願う友らは、 よくみずから考えて、 むしろいま時のあやまりを悲しんで仏のおことばを信ぜよ。 菩薩の論をって指南としてはならない。 もしこの執着によるならば、 これはみずから往生の益を失い、 人をあやまらせるものである。

 ^問うていう。 どうして行を修めているのに往生を得ないというのか。

 ^答えていう。 もし往生しようと思うならば、 必ず行と願とが具足して往生を得られるのに、 いまこの論 (摂大乗論) の中には、 ただ 「願をおこす」 といって、 行のあることはいわれておらない。

 ^問うていう。 なぜ行のあることをいわないのか。

 ^答えていう。 わずか一念も、 かつて行に心をかけない。 それゆえいわないのである。

 ^問うていう。 願と行の義は、 どういう区別があるのか。

 ^答えていう。 経 (*はんぎょうなど) の中に説かれるように、 ただ行だけがあるならば、 その行はみちびくものがないから至るべき所がなく、 ただ願だけがあるならば、 その願はむなしいからこれも至るべき所がない。 かならず願と行とがたすけあって、 そのなすところがみなよく成就するのである。 こういうわけであるから、 いまこの論 (摂大乗論) の中には、 ただ発願だけをいって行のあることはいってない。 それゆえ、 まだすぐには往生はできないで、 ただ遠い未来の往生のための因となるというのは、 その義は真実である。

 ^問うていう。 どういう願では往生できないというのか。

 ^答えていう。 他のものが説いて 「西方浄土は思いはかることのできないらくの世界である」 というのを聞いて、 願をおこして 「自分もまた往生を願う」 といい、 このことばをいいおわってさらに行がつづかないから、 願だけと名づける。 ^いまこの ¬観経¼ の中の十声の称名には、 十願十行があって具足する。 どのように具足するのかというと、 「南無」 というのは、 すなわち帰命であり、 またこれは発願回向のいわれとなる。 「阿弥陀仏」 というのは、 すなわちその行である。 こういうわけがあるから、 かならず往生することができる。

【23】^また、 論 (摂大乗論) の中に 「多宝仏のみ名を称えて仏果を求める」 とあるのは、 正報すなわち成仏を求めることである。 下の文に 「ただ願をおこして浄土の往生を求める」 とあるのは、 依報すなわち浄土に入ろうとするのである。 一つは正報を求めることであり、 一つは依報に入ろうとするのである。 どうして似ているといえようか。 ^ところで正報を求めることは容易でなく、 一行だけどのように立派であってもまだ仏果は成就しない。 依報の浄土は求め易いけれども、 願だけでは浄土に入ることができないのである。 ^しかしながら、 たとえば僻地の者が帰順して王の民となることは易いが、 王となるのは難しいようである。 いまの時の往生を願う者は、 すべて浄土の民となるのである。 どうして容易でないということができようか。 ^ただよく上は一生涯から下は十念の念仏に至るまで、 如来の願力によってみな往生しないものはない。 ゆえに易いというのである。

 ^こういうわけであるから、 人の言葉によって義を定めてはならない。 信じようとする者が疑いを懐くから、 かならず経文を引いて来て明らかにし、 これを聞く者に、 よく惑いを無くさせたいと思うのである。

【24】^第六に、 二乗種不生という意味を解釈するならば、

 ^問うていう。 阿弥陀仏の浄土は、 これは*ほうであろうか、 *化土けどであろうか。

 ^答えていう。 これは報土であって化土ではない。 ^どうして知ることができるかというと、 ¬*だいじょうどうしょうきょう¼ の中に、

西方の安楽世界および阿弥陀如来は報仏報土である。

と説かれているとおりである。 ^また ¬*りょう寿じゅきょう¼ の中に、

*法蔵ほうぞうあつ*ざいおうぶつのみもとで菩薩の行を行じられたときに四十八願をおこされた。 その願に、 「もしわたしが仏となったときに、 十方の衆生が、 わが名号を称えてわが国に生まれようと願い、 わずか十念する者でも、 もし生まれなかったならば正覚をひらくまい」 と誓われた。

と説かれてある。 ^今すでに成仏しておられるのである。 すなわちこれは、 因位の願に報うてできた御身である。 ^また ¬観経¼ の中に、 上輩の三種の人は、 その臨終の時においてみな 「阿弥陀仏が化仏とともに、 この人を迎えたもう」 と説かれている。 ^これは、 報身仏がその化身を兼ねて、 ともに来てみ手を授けてくださるから 「ともに」 といわれたのである。 これらの文証によれば、 阿弥陀仏は報身であることが知られる。

 ^ところで報身・応身ということは、 眼と目というほどの違いである。 前の翻訳 (梁の真諦しんだい訳摂大乗論) には 「報」 のことを 「応」 とし、 後の翻訳 (随のだつぎゅう訳摂大乗論) には 「応」 のことを 「報」 としてある。 ^すべて報というのは、 因位の行がむなしからず、 きまって未来の果を引き、 果が因にこたえたものであるから報といったのである。 また三大阿僧祇のながいあいだ修めた万行は、 まちがいなくさとりの果を得べきである。 弥陀は今すでにさとりを成就されている。 すなわちこれは因に報うた応身である。 ^すなわち、 過去・現在のすべての仏たちは法・報・化の三身を立てる。 この三身を除いて外に別の体はましまさぬのである。 たとい、 はかることのできないいろいろの*八相はっそうを現わし、 数知れぬ名号を示されても、 そのものがらについていえば、 すべて化身の中に摂まる。 ^今、 かの浄土の阿弥陀仏は現にこれ報身である。

 ^問うていう。 すでに報というならば、 仏の報身というものは常住であって、 とこしえに消滅の相がないのである。 それではなぜ ¬*観音かんのんじゅきょう¼ に、 「阿弥陀仏にもまた入滅なさる時がある」 と説かれているのか。 この一義をどのように通釈すればよかろうか。

 ^答えていう。 この入滅・不入滅といういわれは、 これはただ仏の境界でいわれることであって、 なお、 声聞・縁覚・菩薩などの浅い智慧ではうかがい知るところではない。 まして愚かな凡夫が、 たやすく知ることができようか。 ^しかしながら、 是非とも知りたいと思うならば、 敢えて仏経の御文を引いてそれを明らかな証拠とするであろう。 ^それは何かというと、 ¬大品般若経¼ の涅槃非化品 (如化品) の中に説かれているとおりである。

^釈迦如来が弟子の*しゅだいに告げられる。 「そなたの心にはどう思うか。 もしかりの人が化の人を作り出したとすると、 この化の人は、 実のものであるのかどうか、 虚しいものであるのかどうか。」

^須菩提が申しあげる。 「世尊、 実のものではありません。」

^仏が須菩提に告げられる。 「色はすなわち化のものである。 受・想・行・識は化のものである。 そのほか仏の*一切いっさいしゅにいたるまでこれ化のものである。」

^須菩提が仏に申しあげる。 「世尊、 世間の法が化のものであるように、 出世間の法もまた化のものでありましょうか。 いわゆる*念処ねんじょ*しょうごん*にょそく*こん*りき*しちだいぶん*はっしょう道分どうぶん*さんだつもん・仏の*十力・*しょ*無礙むげ*じゅうはち不共ふぐほう、 ならびにそれぞれの修行によって得る果および賢聖人、 いわゆる須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢・*びゃくぶつ・菩薩大士・諸仏世尊、 これらの法もまた化のものでありましょうか、 どうでしょうか。」

^仏が須菩提に告げられる。 「すべての法はみな化のものである。 この法の中には、 声聞の法とあらわれてあるもの、 辟支仏の法とあらわれてあるもの、 菩薩の法とあらわれてあるもの、 諸仏の法とあらわれてあるもの、 煩悩の法とあらわれてあるもの、 業因縁の法とあらわれてあるものがある。 こういう理由があるから、 須菩提よ、 すべての法はみな化のものである。」

^須菩提が仏に申しあげる。 「世尊、 このいろいろの煩悩を断じたもの、 いわゆる須陀洹果・斯陀含果・阿那含果・阿羅漢果・辟支仏果は、 いろいろの煩悩の余残の気をも断ちきっています。 これらもみな化にあらわれたものでありましょうか、 どうでしょうか。」

^仏が須菩提に告げられる。 「消滅の相のあるものは、 みな化のものである。」

^須菩提が申しあげる。 「世尊、 どのような法が化にあらわれたものでないのでしょうか。」

^仏が仰せられる。 「もし消滅のないものならば、 これは化にあらわれたものではない。」

^須菩提が申し挙げる。 「何が不生不滅であって、 化にあらわれたものではないのでしょうか。」

^仏が仰せられる。 「いつわりの相のない*はん、 これは化にあらわれたものではない。」

^「世尊、 如来がみずからお説きになったように、 諸法は平等であって声聞が作ったものでもなく、 縁覚が作ったものでもなく、 多くの菩薩大士が作ったものでもなく、 諸仏が作ったものでもない。 仏がましましてもましまさなくても、 諸法の本性は常に空である。 その性の空であるのが涅槃であるといわれましたが、 どうして涅槃だけが化のようではないのですか。」

^仏が須菩提に告げられる。 「そのとおりである。 諸法は平等であって声聞の作ったものではなく、 そのほか、 何者によって作られたものでもない。 本性が空であるのがすなわち涅槃である。 もし、 初発心の菩薩が、 このすべての法はみな畢竟じてその体が空であるばかりでなく、 涅槃までもまたみな化のようであると聞いたならば驚くであろう。 こういう初発心の菩薩のために、 ことさらに、 消滅するものは化のようであり、 不生不滅のものは化のようでない、 と分けたのである。」

 ^今、 すでにこの聖教によって、 たしかに弥陀はこれ報身であるということが知られる。 たとい後に入滅せられるとしても、 報の義を妨げない。 智慧ある人は、 これを知るべきである。

【25】^問うていう。 阿弥陀仏やその浄土はすでに報というのならば、 その報身・報土のものがらは、 非常に高く妙なるもので、 初地の位に至らない菩薩や二乗のようなものは入ることができぬのに、 障りの重い凡夫がどうして入ることができようか。

 ^答えていう。 もし衆生の障りをいうならば、 到底そこへ入ることはできぬが、 まさしく阿弥陀仏の願力に乗託することによって、 それが強い力となって、 五乗 (人・天・声聞・縁覚・菩薩) の者が同じく往生することができるのである。

 ^問うていう。 もし凡夫や声聞・縁覚のようなものが往生することができるというならば、 なぜ*天親てんじんさつの ¬*じょうろん¼ に、 「女人と根欠と二乗種とは生じない」 というのか。 今かの浄土には現に二乗がある。 こういうような論 (浄土論) と経 (観経) とを、 どのように解釈するのか。

 ^答えていう。 おんみはただその文だけを読んでその道理をうかがわない。 ましてその上に拙い考えにこだわって迷いをいだき、 了解することができない。 ^いま仏の説かれた教えを引いて明らかな証拠として、 そなたの疑問をしりぞけよう。 それは何かというと、 ¬観経¼ の下輩の三種の人がこれである。 ^どうして知ることができるのか。 下品上生に説かれてあるとおりである。

あるいは衆生があって、 多く悪を造って慚愧の心がない。 このような愚かな者は、 この世の命が終わろうとするときに、 善知識がその人のために大乗を説き、 教えて念仏を称えさせるに遇う。 ^仏名を称える時に当って化仏・菩薩がその人の前にあらわれ、 金色の光明と華蓋をもって迎えてかの浄土へ往生する。 華が開いてから後に観音菩薩が大乗の法を説かれると、 この人はそれを聞きおわって大乗のさとりを求める心をおこす。

 ^問うていう。 「種」 というのと 「心」 というのとは、 どういう区別があるのか。

 ^答えていう。 ただ便宜によっていうので、 その意味には区別がないのである。 ^蓮華が開けるときにおいて、 この人のからだは清らかでまさしく法を聞くことができる。 また、 大乗・小乗の区別をいわず、 ただ聞くことができればすなわち信を生ずる。 ^こういうわけであるから、 観音菩薩はその人のために小乗を説かずにず大乗の法を説かれる。 大乗の法を聞いて、 喜んで大乗のさとりを求める心をおこす。 これを 「大乗の種が生ずる」 ともいい、 また 「大乗の心が生ずる」 ともいう。 ^またもし蓮華が開ける時において、 観音菩薩がその人のために小乗を説くならば、 小乗の法を聞いて信を生ずるから、 「二乗の種が生ずる」 といい、 また 「二乗の心が生ずる」 ともいう。 ^この下品上生がすでにこのとおりであるから、 後の下品中生・下品下生もまたこのとおりである。

 ^この三種の人はいずれも浄土において発心する。 まさしく大乗の法を聞くから、 「大乗の種が生ずる」 というのであり、 小乗の法を聞かないから、 そういうわけで 「二乗の種が生じない」 というのである。 ^すべて 「種」 というのは、 それは 「心」 のことである。 ^これで二乗の種が生じないという意義を解釈しおわった。 ^女人および不具者は浄土にはおらないから知るべきである。

 ^また、 十方の衆生で、 小乗の戒行をつとめて往生を願う者は、 少しも妨げなくみな往生できる。 ただ、 浄土に生まれてからまず小乗の果をさとり、 さとってから大乗に転向する。 一たび大乗に転向してからは、 ふたたび退いて二乗の心をおこさないから 「二乗の種は生じない」 という。 ^前の下三品の解釈は、 根機がいずれとも定まっていない初めについていうのであり、 後の中三品の解釈は、 小乗のさとりを開いた後についていうのである。 よく知るべきである。

【26】^第七に、 韋提希が仏の説法を聞いて利益を得た分斉ところを解釈するとは、

 ^問うていう。 韋提希はすでに無生法忍の益を得たというが、 いつの時に無生法忍を得たのか。 それはどの文に出ているのか。

 ^答えていう。 韋提希が無生法忍を得たのは、 第七観 (華座観) の初めに出ている。 ^経文に、

仏が韋提希に告げられる。 「仏はそなたのために苦悩を除く法を説き明かすであろう」 と。 このことばを説かれたときに、 無量寿仏が空中に立たれ、 観音菩薩・勢至菩薩が左右につきしたがっていた。 そのとき韋提希は、 仏のあらわれたもう時に応じて見たてまつることができ、 み足にこうべをつけて礼拝した。

と説かれてあるのは、 喜びほめたたえて無生法忍を得たことである。 ^どうして知ることができるかというと、 経の終りの利益分の中に説いて、

仏身と観音・勢至の二菩薩を見ることができて、 心に喜びを生じ、 いまだかつてないことをほめたたえ、 あきらかに悟って無生法忍の益を得た。

といわれるとおりである。 ^これはさきの序文の中 (欣浄縁) の光台で浄土を見たときに得たのではない。

 ^問うていう。 さきの文 (定善示観縁) の中に説いて、

かの浄土のすぐれた荘厳を見て心に喜びを生ずるから、 時に応じて無生法忍を得る。

といわれてある。 この一義をどう解釈するのか。

 ^答えていう。 このような義は、 ただこれは世尊が、 前の韋提希が別して弥陀の浄土に往生する行を請うたのにこたえて、 あらかじめその利益を上げて行ずることを勧められる序である。 ^どうして知ることができるかというと、 その次の経文の中に説いて、

諸仏如来にはすぐれた方法があって、 そなたに見ることを得させよう。

と仰せられてある。 ^後に示される日想・水想・氷想などから第十三観に至るまでの観法を、 すべてすぐれた方法というのである。 衆生をしてこの観法において一々成就させ、 かの浄土のすぐれたことを見て心に喜びを生ずることによって、 無生法忍を得させようと思われるのである。 ^これはただ如来が末代の衆生を慈しみ、 観の利益をあげて修めることを勧め、 行を積む者に、 一人のこらず仏力を加えて現在に無生法忍の益を得させようと思召されるからである。

【27】^霊証をあげていう。 たなごころ機糸はたいとの結び十三を握り、 玄義分に書いた七門六章がよく道理にかなって仏心と相応すると。 この義 (玄義分) をおわって三度たび前の証をあらわしたのである。

 ^いままで七門の別があるけれども、 すべてこれは経文を解釈する前の要義を述べたもので、 経と論とが相違するという妨難を解くのに、 一々仏の教えを引いて証明した。 信を得ようとする者をして疑いをなくし、 往生を求める者に滞ることがないようにしたいと思うからであるからである。 よく知るべきである。

観経玄義分 巻第一

 

金剛心 等覚の菩薩の最後身。