三(639)、津戸返状 一
▲津戸三郎へつかはす御返事 第三
御文くはしくうけ給はり候ぬ。
念仏の事、 召問はれ候はんには、 なじかはくはしき事をば申させ給ふべき。 げにもいまだくはしくもならはせ給はぬ事にて候へば、 専修・雑修の間の事はくはしき沙汰候はずとも、 いかやうなる事ぞと召問はれ候は0640ゞ、 法門のくはしき事はしり候はず。
御京上の時うけ給はりわたり候て、 聖りのもとへまかり候て、 後世の事をばいかがし候べき、 在家のものなんどの後生たすかるべき事は、 なに事か候らんと問候しかば、 聖の申候し様は、 おほかた生死をはなるゝみち、 様々におほく候へども、 そのなかにこのごろの人の生死をいづる道は、 極楽に往生するよりほかには、 こと道はかなひがたき事也。
これほとけの衆生をすゝめて、 生死をいださせ給ふべき一つの道也。
しかるに極楽に往生する行、 又様々におほく候へども、 そのなかに念仏して往生するよりほかには、 こと行はかなひがたき事にてある也。
そのゆへは、 念仏はこれ弥陀の一切衆生のためにみづからちかひ給ひたりし本願の行なれば、 往生の業にとりては、 念仏にしく事はなし。 されば往生せんとおもはゞ、 念仏をこそはせめと申候き。
いかにいはんや、 又最下のものゝ、 法門をもしらず、 智慧もなからん物は、 念仏のほかには何事をしてか往生すべきといふ事なし。
われおさなくより法門をならひたるものにてあるだにも、 念仏よりほかに何事をして往生すべしともおぼへず、 たゞ念仏ばかりをして、 弥陀の本願をたのみて往生せんとはおもひてある也。
まして最下の物なんどは、 何事かあらんと申されしかば、 ふかくそのよしをたのみて、 念仏をば0641つかまつり候也と申させ給ふべし。 又この念仏を申す事は、 たゞわが心より弥陀の本願の行なりとさとりて申事にもあらず。
唐の世に善導和尚と申候し人、 往生の行業において専修・雑修と申す二つの行をわかちてすゝめ給へる事也。 専修といふは念仏也、 雑修といふは念仏のほかの行也。 専修のものは百人は百人ながら往生し、 雑修の物は千人が中にわづかに一、 二人ある也。
唐土に又信仲と申物こそ、 このむねをしるして ¬専修正業文¼ といふ文をつくりて、 唐土の諸人をすゝめたれ。 その文は、 じやうせう房なんどのもとには候らん。 それをもちてまいらせ候ふべし。
又専修につきて、 五種の専修正行といふ事あり。 この五種の正行につきて、 又正助二行をわかてり。 正業といふは、 五種のなかに第四の念仏也。 助業といふは、 そのなかの四つの行也。
いま決定して浄土に往生せんとおもはゞ、 専雑二修のなかには、 専修の教によりて一向に念仏をすべし。 正助二業のなかには、 正業のすゝめによりて、 ふた心なくたゞ第四の称名念仏をすべしと申し候しかば、 くはしきむね、 ふかき心をばしり候はず。 さては念仏はめでたき事にこそあるなれと信じ候て申候ばかりに候。
件の人の善導和尚と申人は、 うちある人にも候はず、 阿弥陀ほとけの化身にておはしまし候なれば、 おしへすゝめさせ給はん事、 よもひ0642が事にては候はじとふかく信じて、 念仏はつかまつり候也。
そのつくらせ給て候なる文ども、 おほく候なれども、 文字もしり候はぬものにて候へば、 たゞ心ばかりをきゝ候て、 後生やたすかり候、 往生やし候とて申候程に、 ちかきものども見うらやみ候て、 少々申すものども候也と、 これほどに申させ給ふべし。
中々くはしく申させ候はゞ、 あやまちもありなんどして、 あしき事もこそ候へとおぼへ候は、 いかゞ候べき。 様々に難答をしるしてと候へども、 時にのぞみては、 いかなることばどもか候はんずらん、 書てまいらせて候はんも、 あしく候ぬべく候。 たゞよくよく御はからひ候て、 早晩よきやうにこそは、 はからはせ給ひ候はめ。
又念仏申すべからずとおほせられ候とも、 往生に心ざしあらん人は、 それにより候まじ。 念仏よくよく申せとおほせられ候とも、 道心なからん物は、 それにより候まじ。 とにかくにつけても、 このたび往生しなんと、 人をばしらず御身にかぎりてはおぼしめすべし。
わざとはるばると人あげさせ給ひて候こそ、 返々下人も不便に候へ。 なをなを召し問はれ候はん時には、 これより百千申て候はん事は、 時にもかなひ候まじければ、 无益の事にて候。 はからひてよきやうに、 早晩にしたがひて申させ給はんに、 よもひが事は候はじ。
真字・仮字にひろくかきてまいら0643せ候はんは、 もてのほかにひろく文をつくり候はんずる事にて候へば、 にはかにすべき事にても候はず。 それは又中々あしき事にても候ぬべし。 たゞいと子細はしり候はず、 これほどにきゝて申候也と申させ給ひ候はんに、 心候はん人は、 さりとも心え候ひなん。 又道心なからん人は、 いかに道理百千万わかつとも、 よも心はえ候はじ。
殿は道理ふかくして、 ひが事おはしまさぬ事にて候と申しあひて候へば、 これらほどにきこしめさんに、 念仏ひが事にてありけり。 いまはな申しそとおほせらるゝ事は、 よも候はじ。 さらざらん人は、 いかに申すとも思とも、 无益の事にてこそ候はんずれ。
何事も御文にはつくしがたく候。 あなかしこ、 あなかしこ。
十月十八日
二
おぼつかなくおもひまいらせつる程に、 この御文返々よろこびうけ給はり候ひぬ。
さても専修念仏の人は、 よにありがたき事にて候に、 その一国に三十余人まで候らんこそ、 まめやかにあはれに候へ。 京辺なんどのつねにききならひ、 かたはらをも見ならひ候ひぬべきところにて候だにも、 おもひきりて専修念仏をする人は、 あ0644りがたき事にてこそ候に、 道綽禅師の、 平州と申候ところにこそ、 一向念仏の地にては候に、 専修念仏三十余人は、 よにありがたくおぼへ候。
ひとへに御ちから、 又くまがやの入道なんどのはからひにてこそ候なれ。 それも時のいたりて、 往生すべき人のおほく候べきゆへにこそ候なれ。
縁なき事は、 わざと人のすゝめ候だにも、 かなはぬ事にて候に、 子細もしらせ給はぬ人なんどの、 おほせられんによるべき事にても候はぬに、 もとより機縁純熟して、 時いたりたる事にて候へばこそ、 さ程に専修の人なんどは候らめと、 おしはかりあはれにおぼへ候。
たゞし无智の人にこそ、 機縁にしたがひて念仏をばすゝむる事にてはあれと申候なる事は、 もろもろの僻事にて候。 阿弥陀ほとけの御ちかひには、 有智・无智をもえらばず、 持戒・破戒をもきらはず、 仏前・仏後の衆生をもえらばず、 在家・出家の人をもき[ら]はず、 念仏往生の誓願は平等の慈悲に住しておこし給ひたる事にて候へば、 人をきらふ事はまたく候はぬ也。
されば ¬観无量寿経¼ には、 「仏心とは大慈悲是なり」 とときて候也。 善導和尚この文をうけては、 「この平等の慈悲をもて、 あまねく一切を摂す」 (定善義) と釈し給へる也。 一切のことばひろくして、 もるゝ人候べからず。 釈迦のすゝめ給も、 悪人・善人・愚人もひとしく念仏すれば0645往生すとすゝめ給へる也。
されば念仏往生の願は、 これ弥陀如来の本地の誓願なり。 余の種々の行は、 本地のちかひにあらず。 釈迦如来の種々の機縁にしたがひて、 様々の行をとかせ給ひたる事にて候へば、 釈迦も世にいで給ふ心は、 弥陀の本願を[と]かんとおぼしめす御心にて候へども、 衆生の機縁、 人にしたがひてとき給ふ日は、 余の種々の行をもとき給ふは、 これ随機の法なり、 仏の自らの御心のそこには候はず。
されば念仏は弥陀にも利生の本願、 釈迦にも出世の本懐也。 余の種々の行には似ず候也。 これは无智のものなればといふべからず。
又要文の事、 書てまいらせ候べし。 又くまがやの入道の文は、 これへとりよせ候てなをすべき事の候へば、 そのゝちかきてまいらせ候べし。
なに事も御文に申つくすべくも候はず、 のちの便宜に又々申候べし。
九月廿八日
三
まづきこしめすまゝに、 いそぎおほせられて候御心ざし、 申つくしがたく候。
この例ならぬ事は、 ことがらはむづかしき様に候へども、 当時大事にて、 今日あす左右すべき事にては、 さりながらも候はぬに、 としごろの風のつもり、 この正月に0646別時念仏を五十日申て候しに、 いよいよ風をひき候て、 二月の十日ごろより、 すこし口のかはく様におぼえ候しが、 二月の廿日は五十日になり候しかば、 それまでとおもひ候て、 なをしゐて候し程に、 その事がまさり候て、 水なんどのむ事になり、 又身のいたく候事なんどの候しが、 今日までやみもやり候はず、 ながびきて候へども、 又たゞいまいかなるべしともおぼへぬ程の事にて候也。
医師の大事と申候へば、 やいとうふたゝびし、 湯にてゆで候。 又様々の唐のくすりどもたべなんどして候気にや、 このほどはちりばかりよき様なる事の候也。
左右なくのぼるべきなんど仰られて候こそ、 よにあはれに候へ。 さ程とをく候程には、 たとひいかなる事にても、 のぼりなんとする御事はいかでか候べき。 いづくにても念仏して、 たがひに往生し候ひなんこそ、 めでたくながきはかり事にては候はめ。
何事も御文にはつくしがたく候。 又々申候べし。
四月廿六日
わたくしにいはく、 これは命をおしむ御療治にはあらず、 御身おだしくして、 念仏申させ給はんがためなり。 下巻の ¬用心抄¼ のおはりを見あはすべし。