一(617)、 登山状
▲登山状 第一 源空
それ流浪三界のうち、 いづれの界におもむきてか、 釈尊の出世にあはざりし。 輪廻四生のあひだ、 いづれの生をうけてか、 如来の説法をきかざりし。 花厳開講のむしろにもまじはらず、 般若演説の座にもつらならず、 鷲峯説法のにわにものぞまず、 鶴林涅槃のみぎりにもいたらず。
われ舎衛の三億の家にややどりけん、 しら0618ず地獄八熱のそこにやすみけん。 はづべしはづべし、 かなしむべしかなしむべし。
まさにいま多生曠劫をへて、 むまれがたき人界にむまれて、 無量劫をおくりて、 あひがたき仏教にあへり。 釈尊の在世にあはざる事は、 かなしみなりといへども、 教法流布の世にあふ事をえたるは、 これよろこび也。 たとへば目しゐたるかめの、 うき木のあなにあへるがごとし。
わが朝に仏法流布せし事も、 欽明天皇あめのしたをしろしめして、 十三年みづのえさるのとし、 ふゆ十月一日、 はじめて仏法わたり給ひし。 それよりさきには如来の教法も流布せざりしかば、 菩提の覚路いまだきかず。
こゝにわれら、 いかなる宿縁にこたへ、 いかなる善業によりてか、 仏法流布の時にむまれて、 生死解脱のみちをきく事をえたる。 しかるをいまあひがたくしてあふ事をえたり。 いたづらにあかしくらして、 やみなんこそかなしけれ。
あるいは金谷の花をもてあそびて、 遅々たる春をむなしくくらし、 あるいは南楼に月をあざけりて、 縵々たる秋の夜をいたづらにあかす。 あるいは千里の雲にはせて、 山のかせぎをとりてとしをおくり、 あるいは万里のなみにうかびて、 うみのいろくづをとりて日をかさね、 あるいは極寒にこほりをしのぎて、 世路をわたり、 あるいは炎天にあせをのごひて、 利養をもとめ、 あるいは妻子眷属0619に纏はれて、 恩愛のきづなきりがたし。 あるいは執敵怨類にあひて、 瞋恚のほむらやむ事なし。
総じてかくのごとくして、 昼夜朝暮・行住坐臥、 時としてやむ事なし。 たゞほしきまゝに、 あくまで三途八難の業をかさぬ。 しかれば、 ある文には 「一人一日中、 八億四千念、 念念中所作、 皆是三途業」 といへり。 かくのごとくして、 昨日もいたづらにくれぬ、 今日も又むなしくあけぬ。 いまいくたびかくらし、 いくたびかあかさんとする。
それあしたにひらくる栄花は、 ゆふべの風にちりやすく、 ゆふべにむすぶ命露は、 あしたの日にきへやすし。 これをしらずしてつねにさかへん事をおもひ、 これをさとらずしてつねにあらん事をおもふ。
しかるあひだ、 无常の風ひとたびふけば、 有為のつゆながくきへぬれば、 これを曠野にすて、 これをとをき山におくる。 かばねはつゐにこけのしたにうづもれ、 たましゐはひとりたびのそらにまよふ。 妻子眷属は家にあれどもともなはず、 七珍万宝はくらにみてれども益なし。 たゞ身にしたがふものは後悔のなみだ也。
つゐに閻魔の庁にいたりぬれば、 つみの浅深をさだめ、 業の軽重をかんがへらる。 法王罪人にとひていはく、 なんぢ仏法流布の世にむまれて、 なんぞ修行せずして、 いたづらに返りきたるや。
その時には、 われらいかゞこたへんとする。 すみやかに0620出要をもとめて、 むなしく返る事なかれ。
そもそも一代諸教のうち、 顕宗・密宗、 大乗・小乗、 権教・実教、 部八宗にわかれ、 義万差につらなりて、 あるいは万法皆空の宗をとき、 あるいは諸法実相の心をあかし、 あるいは五性各別の義をたて、 あるいは悉有仏性の理を談じ、 宗々に究竟至極の義をあらそひ、 各々に甚深正義に宗を論ず。
みなこれ経論の実語也。 そもそも又如来の金言也。 あるいは機をとゝのへてこれをとき、 あるいは時をかゞみてこれをおしへ給へり。 いづれかあさく、 いづれかふかき、 ともに是非をわきまへがたし。 かれも教これも教、 たがひに偏執をいだく事なかれ。
説のごとく修行せば、 みなことごとく生死を過度すべし。 法のごとく修行せば、 ともにおなじく菩提を証得すべし。 修せずしていたづらに是非を論ず、 たとへば目しゐたる人のいろの浅深を論じ、 みゝしゐたる人のこゑの好悪をいはんがごとし。 たゞすべからく修行すべし、 いづれも生死解脱のみち也。
しかるにいま、 かれを学する人はこれをそねみ、 これを誦する人はかれをそしる。 愚鈍のもの、 これがためにまどひやすく、 浅才の身、 これがためにわきまへがたし。 たまたま一法におもむきて功をつまんとすれば、 すなはち諸宗のあらそひたがひにきたる。 ひろく0621諸教にわたりて義を談ぜんとおもへば、 一期のいのちくれやすし。
かの蓬莱・方丈・瀛州といふなる三の山にこそ、 不死の薬はありときけ。 かれを服してまれ、 いのちをのべて漸々に習はゞやと思へども、 たづぬべきかたもおぼへず。 もろこしに、 秦皇・漢武ときこへし御門、 これをきゝてたづねにつかはしたりしかども、 童男・丱女、 ふねのうちにして、 とし月をおくりき。 彭祖が七百歳の法、 むかしがたりにて、 いまの時につたへがたし。
曇鸞法師と申せし人こそ、 仏法のそこをきわめたりし。 人のいのちはあしたを期しがたしとて、 仏法をならはんがために、 長生の仙の法をばつたへ候ひけれ。
時に菩提流支と申す三蔵ましましき。 曇鸞かの三蔵の御まへにまうでゝ申給ふやうは、 仏法のなかに長生不死の法、 この土の仙経にすぎたるありやとゝひ給ひければ、 三蔵、 地につわきをはきての給はく、 この方にはいづくんぞところに長生の法あらん。 たとひ長年をえてしばらくしなずとも、 つゐに三有に輪廻すとの給ひて、 すなはち ¬観无量寿経¼ をさづけて、 大仙の法也、 これによりて修行すれば、 さらに生死を解脱すべしとの給ひき。
曇鸞これをつたへて、 仙法をたちまちに火にやきて、 これをすつ。 ¬観无量寿経¼ によりて、 浄土の行をしるし給ひき。 そのゝち曇鸞・道綽・善導・懐感・少康等にい0622たるまで、 このながれをつたへ給へり。
そのみちをおもひて、 いのちをのべて大仙の法をとらんとおもふに、 又道綽禅師の ¬安楽集¼ にも聖道・浄土の二門をたて給ふは、 この心なり。 その聖道門といふは、 穢土にして煩悩を断じて菩提にいたる也。 浄土門といふは、 浄土にむまれて、 かしこにして煩悩を断じて菩提にいたる也。
いまこの浄土宗についてこれをいへば、 又 ¬観経¼ にあかすところの業因一つにあらず、 三福九品・十三定善、 その行しなじなにわかれて、 その業まちまちにつらなれり。
まづ定善十三観といふは、 日想・水想・地想・宝樹・宝池・宝楼・花座・仏想・真身・観音・勢至・普観・雑観、 これ也。
つぎに散善九品といふは、 一には孝養父母、 奉事師長、 慈心不殺、 修十善業、 二には受持三帰、 具足衆戒、 不犯威儀、 三には発菩提心、 深信因果、 読誦大乗、 勧進行者也。
九品は、 かの三福の業を開してその業因にあつ。 つぶさには ¬観経¼ に見えたり。
総じてこれをいへば、 定散二善のなかにもれたる往生の行はあるべからず。 これによりて、 あるいはいづれにもあれ、 たゞ有縁の行におもむきて功をかさねて、 心にひかん法によりて行をはげまば、 みなことごとく往生をとぐべし。 さらにうたばひをなす事なか0623れ。
いましばらく自法につきてこれをいはゞ、 まさにいま定善の観門は、 かすかにつらなりて十三あり。 散善の業因は、 まちまちにわかれて九品あり。 その定善の門にいらんとすれば、 すなはち意馬あれて六塵の境にはす。 かの散善の門にのぞまんとすれば、 又心猿あそんで十悪のえだにうつる。 かれをしづめんとすれどもえず、 これをとゞめんとすれどもあたはず。
いま下三品の業因を見れば、 十悪・五逆の衆生、 臨終に善知識にあひて、 一声・十声阿弥陀仏の名号をとなへて往生すとゝかれたり。 これなんぞわれらが分にあらざらんや。
かの釈の雄俊といひし人は、 七度還俗の悪人也。 いのちおはりてのち、 獄率、 閻魔の庁庭にゐてゆきて、 南閻浮提第一の悪人、 七度還俗の雄俊ゐてまいりてはんべりと申ければ、 雄俊申ていはく、 われ在生の時、 ¬観无量寿経¼ を見しかば、 五逆の罪人、 阿弥陀ほとけの名号をとなへて極楽に往生すと、 まさしくとかれたり。 われ七度還俗すといへども、 いまだ五逆をばつくらず、 善根すくなしといへども、 念仏十声にすぎたり。 雄俊もし地獄におちば、 三世諸仏、 妄語のつみにおち給ふべしと高声にさけびしかば、 法王は理におそれて、 たまのかぶりをかたぶけてこれをおがみ、 弥陀はちかひによりて金蓮にのせてむかへ給ひき。
いはんや、 七度還俗におよばざら0624んをや、 いはんや、 一形念仏せんをや。 「男女・貴賎、 行住坐臥をえらばず、 時処諸縁を論ぜず、 これを修するにかたからず、 乃至、 臨終に往生を願求するに、 そのたよりをえたり」 (要集巻下) と、 楞厳の先徳のかきおき給へる、 ま事なるかなや。
又善導和尚、 この ¬観経¼ を釈しての給はく、 「娑婆の化主、 その請によるがゆへにひろく浄土の要門をひらき、 安楽の能人、 別意の弘願をあらはす。 その要門といはすなはちこの ¬観経¼ の定散二門これ也。 定はすなはちおもひをやめてもて心をこらし、 散はすなはち悪を廃して善を修す。 この二行をめぐらして往生をもとめねがふ也。
弘願といは ¬大経¼ にとくがごとし。 一切善悪の凡夫のむまるゝ事をうるもの、 みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁とせずといふ事なし。 又ほとけの密意弘深にして、 教文さとりがたし。 三賢・十聖もはかりてうかゞふところにあらず。 いはんやわれ信外の軽毛也、 さらに旨趣をしらんや。 あふいでおもんみれば、 釈迦はこの方にして発遣し、 弥陀はかのくにより来迎し給ふ。 こゝにやりかしこによばふ。 あにさらざるべけんや」 (玄義分) といへり。 しかれば、 定善・散善・弘願の三門をたて給へり。
その弘願といは、 ¬大経¼ (巻上) に云、 「設我得仏、 十方衆生、 至心信楽、 欲生我国、 乃至十念、 若不生者、 不取正覚、 唯除五逆、 誹謗0625正法」 といへり。
善導釈していはく、 「若我成仏、 十方衆生、 称我名号下至十声、 若不生者不取正覚。 彼仏今現在世成仏。 当知、 本誓重願不虚、 衆生称念必得往生。」 (礼讃) 云云 ¬観経¼ の定散両門をときおはりて、 「仏告阿難、 汝、 好持是語。 持是語者、 即是持无量寿仏名。」云云 これすなはちさきの弘願の心也。
又おなじき ¬経¼ (礼讃) の真身観には、 「弥陀身色如金山、 相好光明照十方、 唯有念仏蒙光摂、 当知本願最為強。」云云 又これさきの弘願のゆへなり。
¬阿弥陀経¼ にいはく、 「不可以少善根福徳因縁得生彼国。 若善男子・善女人、 聞説阿弥陀仏、 執持名号、 若一日、 若二日乃至七日、 一心不乱、 其人命終時、 心不顛倒、 即得往生。」云云 つぎの文に、 「六方におのおの恒河沙の仏ましまして、 広長舌相を出して、 あまねく三千大千世界におほひて、 誠実の事也、 信ぜよ」 (意) と証誠し給へり。 これ又さきの弘願のゆへ也。
又 ¬般舟三昧経¼ (一巻本聞事品意) にいはく、 「跋陀和菩薩、 阿弥陀にとひていはく、 いかなる法を行じてか、 かのくにゝむまるべきと。 阿弥陀ほとけの給はく、 わがくにゝ来生せんとおもはんものは、 つねに御名を念じてやすむ事なかれ。 かくのごとくして、 わがくにゝ来生する事をう」 との給へり。 これ又弘願のむねを、 かのほとけみづからの給へり。
又五台山の ¬大聖竹林寺の記¼ にいはく、 「法照禅師、 清0626涼山にのぼりて大聖竹林寺にいたる。 こゝに二人の童子あり、 一人をば善財といひ、 一人をば難陀といふ。 この二人の童子、 法照禅師をみちびきて、 寺のうちにいれて、 漸々に講堂にいたりて見れば、 普賢菩薩、 无数の眷属に囲繞せられて坐し給へり。 文殊師利は、 一万の菩薩に囲繞せられて坐し給へり。
法照礼してとひたてまつりていはく、 末法の凡夫はいづれの法をか修すべき。 文殊師利こたへての給はく、 なんぢすでに念仏せよ、 いままさしくこれ時也と。
法照又とひていはく、 まさにいづれをか念ずべきと。 文殊又の給はく、 この世界をすぎて西方に阿弥陀仏まします。 かのほとけに願ふかくまします、 なんぢまさに念ずべし」 と。
大聖文殊、 法照禅師にまのあたりの給ひし事也。 すべてひろくこれをいへば、 諸教にあまねく修せしめたる法門也。 つぶさにあぐるにいとまあらず。
しかるをこのごろ、 念仏のよにひろまりたるによりて仏法うせなんとすと、 諸宗の学者難破をいたすによりて、 人おほく念仏の行を廃すときこゆ、 いまだ心えずはんべり。
仏法はこれ万年也、 うしなはんとおもふとも、 仏法擁護の諸天善神まぼり給ふゆへに、 人のちからにてはかなふべからず。 かの守谷の大臣が、 仏法を破滅せんとせしかども、 法命いまだつきずして、 いまにつたはるがごとし。 いはん0627や、 无智の道俗・在家の男女のちからにて念仏を行ずるによりて、 法相・三論も隠没し、 天臺・華厳も廃する事、 なじかはあるべき。
念仏を行ぜずしてゐたらば、 このともがらは一宗をも興隆すべきかは。 たゞいたづらに念仏の業を廃したるばかりにて、 またくそれ諸宗のおぎろをもさぐるべからず。 しかれば、 これおほきなる損にあらずや。
諸宗のふかきながれをくむ南都・北京の学者、 両部の大法をつたへたる本寺・本山の禅徒、 百千万の念仏世にひろまりたりとも、 本宗をあらたむべきにあらず、 又仏法うせなんとすとて仏法を廃せば、 念仏はこれ仏法にあらずや。
たとへば虎狼の害をにげて、 師子にむかひてはしらんがごとし。 余行を謗じ念仏を謗ぜん、 おなじくこれ逆罪也。 とら・おほかみに害せられん、 師子に害せられん、 ともにかならず死すべし。 これをも謗ずべからず、 かれをもそねむべからず。 ともにみな仏法也、 たがひに偏執する事なかれ。
¬像法決疑経¼ にいはく、 「三学の行人たがひに毀謗して地獄にいる事、 ときやのごとし」 といへり。 又 ¬大経¼ (大智度論巻一初品) にいはく、 「自法を愛染するゆへに、 他人を毀呰すれば、 持戒の行人も、 地獄の苦をまぬかれず」 といへり。
又善導和尚のの給はく、
「世尊説法時将了 | 慇懃付属弥陀名 |
0628五濁増時多疑謗 | 道俗相簡不用聞 |
見有修行起瞋毒 | 方便破壊競生怨 |
如此生盲闡提輩 | 毀滅頓教永沈淪 |
超過大地微塵劫 | 未可得離三塗身」 (法事讃巻下) |
といへり。
念仏を修せんものは、 余行をそしるべからず。 そしらばすなはち、 弥陀の悲願にそむくべきゆへなり。 余行を修せん物も、 念仏をそしるべからず。 又諸仏の本誓にたがふがゆへなり。
しかるをいま、 真言・止観の窓のまへには念仏の行をそしる、 一向専念の床のうゑには諸余の行をそしる、 ともに我々偏執の心をもて義理をたて、 たがひにおのおの是非のおもひに住して会釈をなす。 あにこれ正義にかなはんや、 みなともに仏意にそむけり。
つぎに又難者のいはく、 今来の念仏者、 わたくしの義をたてゝ悪業をおそるゝは、 弥陀の本願を信ぜざる也、 数遍をかさぬるは、 一念の往生をうたがふ也。 行業をいへば、 一念・十念にたりぬべし。 かるがゆへに数遍をつむべからず。 悪業をいへば、 四重・五逆なをむまるゝゆへに、 諸悪をはゞかるべからずといへり。
この義またくしかるべからず、 釈尊の説法にも見へず、 善導の釈にもあらず。 もしかく0629のごとく存ぜんものは、 総じては諸仏の御心にたがふべし、 別しては弥陀の本願にかなふべからず。
その五逆・十悪の衆生の、 一念・十念によりて、 かのくにに往生すといふは、 これ ¬観経¼ のあきらかなる文也。 たゞし五逆をつくりて十念をとなへよ、 十悪をおかして一念を申せとすゝむるにはあらず。 それ十重をたもちて十念をとなへよ、 四十八軽をまぼりて四十八願をたのむは、 心にふかくこひねがふところ也。
およそいづれの行をもはらにすとも、 心に戒行をたもちて浮囊をまぼるがごとくにし、 身の威儀に油鉢をかたぶけずは、 行として成就せずといふ事なし、 願として円満せずといふ事なし。 しかるをわれら、 あるいは四重をおかし、 あるいは十悪を行ず。 かれもおかしこれも行ず、 一人としてま事の戒行を具したる物はなし。
「諸悪莫作諸善奉行」 は、 三世の諸仏の通戒也。 善を修するものは善趣の報をえ、 悪を行ずる物は悪道の果を感ずといふ。 この因果の道理をきけども、 きかざるがごとし。 はじめていふにあたはず。
しかれども、 分にしたがひて悪業をとゞめよ。 縁にふれて念仏を行じ、 往生を期すべし。 悪人をすてられずは、 善人なんぞきらはん。 つみをおそるゝは本願をうたがふと、 この宗にまたく存ぜざるところ也。
つ0630ぎに一念・十念によりてかのくにゝ往生すといふは、 釈尊の金言也、 ¬観経¼ のあきらかなる文也。
善導和尚のいはく、 「下至十声等、 定得往生、 乃至一念无有疑心。 故名深心」 (礼讃) といへり。 又いはく、 「行住坐臥不問時節久近念々不捨者、 是名正定之業、 順彼仏願故」 (散善義) といへり。
しかれば、 信を一念にむまるとゝりて、 行をば一形はげむべしとすゝむる也。 弥陀の本願を信じて、 念仏の功をつもり、 運心としひさしくは、 なんぞ願力を信ぜずといふべきや。 すべて博地の凡夫、 弥陀の浄土にむまれん事、 他力にあらずはみな道たえたるべき事也。
およそ十方世界の諸仏善逝、 穢土の衆生を引導せんがために、 穢土にして正覚をとなへ、 浄土にして正覚をなりて、 しかも穢土の衆生を引導せんといふ願をたて給へり。
その穢土にして正覚をとなふれば、 随類応同の相をしめすがゆへに、 いのちながゝらずして、 とく涅槃にいりぬれば、 報仏・報土にして地上の大菩薩の所居也。 未断惑の凡夫は、 たゞちにむまるゝ事あたはず。 しかるをいま浄土を荘厳し、 仏道を修行するは、 凡位はもと造悪不善のともがら也。 輪転きはまりなからんを引導し、 破戒浅智のやからの出離の期なからんをあはれまんがため也。
もしその三賢を証し、 十地をきわめたる久行の聖人、 深位の菩薩の六度万行を具足し、 諸0631波羅蜜を修行してむまるゝといはば、 これ大悲の本意にあらず。 この修因感果のことわりを、 大慈大悲の御心のうちに思惟して、 年序をそらにつもりて、 星霜五劫におよべり。
しかるを善巧方便をめぐらして、 思惟し給へり。 しかもわれ別願をもて浄土に居して、 博地底下の衆生を引導すべし。 その衆生の業力によりて、 むまるゝといはゞかたかるべし。 我、 須は衆生のために永劫の修行をゝくり、 僧祗の苦行をめぐらして万行万善の果徳円満し、 自覚覚他の覚行窮満して、 その成就せんところの万徳无漏の一切の功徳をもてわが名号として、 衆生にとなへしめん。
衆生もしこれにおいて信をいたして称念せば、 わが願にこたへてむまるゝ事をうべし。 名号をとなへばむまるべき別願をおこして、 その願成就せば、 仏になるべきがゆへ也。 この願もし満足せずは、 永劫をふともわれ正覚をとらじ。 たゞし未来悪世の衆生、 憍慢懈怠にして、 これにおいて信をおこす事かたかるべし。 一仏二仏のとき給はんに、 おそらくはうたがふ心をなさん事を。
ねがはくは、 われ十方諸仏にことごとくこの願を称揚せられたてまつらんとちかひて、 第十七の願に、 「設我得仏、 十方无量諸仏、 不悉咨嗟、 称我名者、 不取正覚」 (大経巻上) とたて給ひて、 つぎに第十八願の 「乃至十念、 若不生者、 不取正覚」 (大経巻上) とたて給へり。
そ0632のむね、 无量の諸仏に称揚せられたてまつらんとたて給へり。 願成就するゆへに、 六方におのおの恒河沙のほとけましまして、 広長舌相を出して、 あまねく三千大千世界におほひて、 みなおなじくこの事をま事なりと証誠し給へり。
善導これを釈しての給はく、 「もしこの証によりてむまるゝ事をえずは、 六方の諸仏ののべ給へるした、 口よりいでおはりてのち、 つゐに口に返りいらずして、 自然にやぶれみだれん」 (観念法門) との給へり。
これを信ぜざらん物は、 すなはち十方恒沙の諸仏の御したをやぶる也。 よくよく信ずべし。 一仏二仏の御したをやぶらんだにもあり、 いかにいはんや、 十方恒沙の諸仏をや。
「大地微塵劫を超過すとも、 いまだ三途の身をはなるべからず」 (法事讃巻下) との給へり。
弥陀の四十八願といは、 无三悪趣、 不更悪趣、 乃至念仏往生等の願、 これ也。 すべて四十八願のなかに、 いづれの願か一つとして成就し給はぬ願あるべき、 願ごとに 「不取正覚」 とちかひて、 いますでに正覚をなり給へる故也。
然を无三悪趣の願を信ぜずして、 かの国に三悪道ありと云物はなし。 不更悪趣の願を信ぜずして、 かのくにゝ衆生いのちおはりてのち、 又悪道に返るといふ物はなし。
悉皆金色の願を信ぜずして、 かのくにの衆生は金色なるもあり、 白色なるもありといふ物はなし。 无有好醜の願を信ぜず0633して、 かのくにの衆生は、 かたちよきもあり、 わろきもありといふ物はなし。
乃至天眼・天耳、 光明・寿命および得三法忍の願にいたるまで、 これにおいてうたがひをなす物はいまだはんべらず。 たゞ第十八願において、 念仏往生の願一つを信ぜざる也。
この願をうたがはゞ、 余の願をも信ずべからず。 余の願を信ぜ[ば、] この一願をうたがふべけんや。 法蔵比丘いまだほとけになり給はずといはゞ、 これ謗法になりなんかし。 もし又なり給へりといはゞ、 いかゞこの願をうたがふべきや。
四十八願の弥陀善逝は、 正覚を十劫にとなへ給へり。 六方恒沙の諸仏如来は、 舌相を三千世界にのべ給へり。 たれかこれを信ぜざるべきや。
善導この信を釈しての給はく、 「化仏・報仏、 若一、 若多、 乃至、 十方に遍して、 ひかりをかゞやかし、 したをはきてあまねく十方におほひて、 この事虚妄なりとの給はんにも、 畢竟じて、 一念疑退の心をおこさじ」 (散善義意) との給へり。
しかるをいま行者たち、 異学・異見のために、 たやすくこれをやぶらる、 いかにいはんや、 報仏・化仏のゝ給はんをや。
そもそもこの行をすてば、 いづれのおこなひにかおもむき候べき。 智慧なければ、 聖教をひらくにまなこくらし。 財宝なければ、 布施を行ずるにちからなし。
むかし波羅奈国に太子ありき、 大施太子と申き。 貧人0634をあはれみて、 くらをひらきてもろもろのたからを出してあたへ給ふに、 たからはつくれども、 まづしき物はつくべからず。
こゝに太子、 うみのなかに如意宝珠ありときく。 海にゆきてもとめて、 まづしきたみにたからをあたへんとちかひて、 竜宮にゆき給ふに、 龍王おどろきあやしみて、 おぼろげの人にはあらずといひて、 みづからむかひて、 たからのゆかにすえたてまつり、 はるかにきたり給へる心ざし、 何事をもとめ給ふぞとゝへば、
太子の給はく、 閻浮提の人、 まづしくてくるしむ事おほし、 王のもとゞりのなかの宝珠をこはんがためにきたる也との給へば、 王のいはく、 しからば、 七日こゝにとゞまりて、 わが供養をうけ給へ、 そのゝちたからをたてまつらんといふ。
太子、 七日をへてたまをえ給ひぬ。 竜神そこよりおくりたてまつる、 すなはち本国のきしにいたりぬ。
こゝにもろもろの竜神なげきていはく、 このたまは海中のたから也、 なをとり返してぞよかるべきとさだむ。 海神、 人になりて太子の御まへにきたりていはく、 君よにまれなるたまをえ給へり。 とくわれに見せ給へといふ。 太子これを見せ給ふに、 うばひとりてうみへいりぬ。
太子なげきてちかひていはく、 なんぢもしたまを返さずんば、 うみをくみほさんといふ。 海神いでゝわらひていはく、 なんぢはもともおろかなる0635人かな。 そらの日をばおとしもしてん、 はやきせをばとゞめもしてん、 うみのみづをばつくすべからずといふ。
太子の給はく、 恩愛のたへがたきをもなをとゞめんとおもふ、 生死のつくしがたきをもなをつくさんとおもふ。 いはんや、 うみのみづおほしといふともかぎりあり。 もしこのよにくみつくさずは、 世々をへてもかならずくみつくさんとちかひて、 かいのからをとりてうみのみづをくむ。
ちかひの心まことなるがゆへに、 もろもろの天人ことごとくきたりて、 あまのはごろものそでにつゝみて、 鉄囲山のほかにくみをく。 太子、 一度二度かいのからをもてくみ給ふに、 海水十分が八分はうせぬ。
竜王、 さわぎあはてゝ、 わがすみかむなしくなりなんとすとわびて、 たまを返したてまつる。
太子、 これをとりてみやこに返りて、 もろもろのたからをふらして、 閻浮提のうちにたからをふらさゞるところなし。
くるしきをしのぎて退せざりしかば、 これを精進波羅蜜といふ。
むかしの太子は、 万里のなみをしのぎて、 竜王の如意宝珠をえ給へり。 いまのわれらは、 二河の水火をわけて、 弥陀本願の宝珠をえたり。
かれは竜神のくゐしがためにうばゝれ、 これは異学・異見のためにうばゝる。
かれはかいのからをもて大海をくみしかば、 六欲四禅の諸天きたりておなじくくみき、 これは信の手をもて0636疑謗の難をくまば、 六方恒沙の諸仏きたりてくみし給ふべし。
かれは大海のみづやうやくつきしかば、 竜宮のいらかあらはれて如意宝珠を返しとりき、 これは疑難のなみことごとくつきなば、 謗家のいらかあらはれて本願の宝珠を返しとるべし。
かれは返しとりて閻浮提にして貧窮のたみをあはれみき、 これは返しとりて極楽にむまれて博地のともがらをみちびくべし。
ねがはくは、 もろもろの行者、 弥陀本願の宝珠をいまだうばひとられざらん物は、 ふかく信心のそこにおさめよ。 もしすなはちとられたらんものは、 すみやかに深信の手をもて疑謗のなみをくめ。 たからをすてゝ手をむなしくして返る事なかれ。
いかなる弥陀か、 十念の悲願をおこして十方の衆生を摂取し給ふ。 いかなるわれらか、 六字の名号をとなへて三輩の往生をとげざらん。 永劫の修行はこれたれがためぞ、 功を未来の衆生にゆずり給ふ。 超世の悲願は又なんの料ぞ、 心ざしを末法のわれらにおくり給ふ。
われらもし往生をとぐべからずは、 ほとけあに正覚をなり給ふべしや、 われら又往生をとげましや。 われらが往生はほとけの正覚により、 ほとけの正覚はわれらが往生による。 「若不生者」 のちかひこれをもてしり、 「不取正覚」 のことばかぎりあるをや 云云。