七、 念仏大意
▲念仏大意 第七
●末代悪世の衆生、 往生の心ざしをいたさんにおきては、 又他のつとめあるべからず、 たゞ善導の釈について一向専修の念仏門にいるべき也。 しかるを一向に信をいたして、 その門にいる人はきわめてありがたし。 そのゆへは、 あるいは他の行に心をそめ、 あるいは念仏の功徳をおもくせざるなるべし。 つらつらこれをおもふに、 ま事しく往生浄土の願ふかき心をもはらにする人、 ありがたきゆへか。 まづこの道理をよくよく心べき也。
○すべて天臺・法相の経論も教も、 そのつとめをいたさんに、 一つとしてあだなるべきにはあらず。 たゞし仏道修行は、 よくよく身をはかり、 時をはかるべきなり。 仏の滅後第四の五百年にだに、 智恵をみがきて煩悩を断ずる事かたく、 心をすまして禅定をえん事かたきがゆへに、 人おほく0463念仏門にいりけり。 すなはち道綽・善導等の浄土宗の聖人、 この時の人なり。 いはんや、 このごろは第五の五百年、 闘諍堅固の時也、 他の行法さらに成就せん事かたし。 しかのみならず、 念仏におきては、 末法のゝちなを利益あるべし。
○いはんや、 いまの世は末法万年のはじめ也、 一念も弥陀を念ぜんに、 なんぞ往生をとげざらんや。 たとひわれこそ、 そのうつは物にあらずといふとも、 末法のすゑの衆生には、 さらにゝるべからず。
○かつうは又釈尊在世の時すら、 即身成仏におきては、 龍女のほかは、 いとありがたし。 たとひ又即身成仏までにあらずといふとも、 この聖道門をおこなひあひ給ひけん菩薩・声聞たち、 そのほかの権者・ひじりたち、 そのゝちの比丘・比丘尼等いまにいたるまで経論の学者、 ¬法花経¼ の持者、 いく½そばくぞや。 こゝにわれら、 なまじゐに聖道をまなぶといふとも、 かの人々にはさらにおよぶべからず。
○かくのごときの末法の衆生を、 阿弥陀ほとけかねてさとり給ひて、 五劫のあひだ思惟して四十八願をおこし給へり。 そのなかの第十八の願にいはく、 「十方の衆生、 心をいたして信楽して、 わがくにゝむまれんとねがひて、 乃至十念せんに、 もしむまれずといはば、 正覚をとらじ」 (大経巻上) とちかひ給ひて、 すでに正覚をなり給へり。
○これを又釈尊とき給へる ¬経¼、 すなは0464ち ¬観无量寿¼ 等の 「三部経」 なり。 しかれば、 たゞ念仏門也。たとひ悪業の衆生等、 弥陀のちかひばかりに、 なを信をいたさずといふとも、 釈迦のこれを一々にとき給へる 「三部経」、 あにひとことばもむなしからんや。 そのうゑ又、 六方・十方の諸仏の証誠、 この ¬経¼ に見えたり。 他の行におきては、 かく½のごときの証誠見えず。
○しかれば、 時もすぎ、 身もこたふまじからん禅定・智恵を修せんよりは、 利益現在して、 しかもそこばくのほとけたち証誠し給へる弥陀の名号を称念すべき也。
○そもそも後世者のなかに、 極楽はあさく弥陀はくだれり、 期するところ密厳・花蔵の世界なりと心をかくる人も侍るにや、 それはなはだおほけなし。 かの土は、 断无明の菩薩のほかはいる事なし。 又一向専修の念仏門にいるなかにも、 日別に三萬遍、 もしは五万遍・六万遍乃至十万遍といふとも、 これをつとめおはりなんのち、 年来受持読誦の功つもりたる½諸経をもよみたてまつらん事、 つみに½なるべきかと不審をなして、 あざむくともがらもまじはれり。 それはつみになるべきにては、 いかでかは侍るべき。
○末代の衆生、 その行成就しがたきによりて、 まづ弥陀の願力にのりて、 念仏往生をとげてのち、 浄土にて阿弥陀如来・観音・勢至0465にあひたてまつりて、 もろもろの聖教をも学し、 さとりをもひらくべきなり。 又末代の衆生、 念仏をもはらにすべき事、 その釈おほかる中に、 かつうは十方恒沙のほとけ証誠し給ふ。
○又 ¬観経の疏¼ の第三 (定善義) に善導の給はく、 「自余衆行雖名是善、 若比念仏全非比挍也。 是故諸経中処々広讃念仏功能。 如 ¬无量寿経¼ 四十八願中、 唯明専念名号得生。 又如 ¬弥陀経¼ 中、 一日七日専念弥陀名号得生。 又十方恒沙諸仏証誠不虚也。 又此 ¬経¼ 定散文中、 唯標専念名号徳生。 此例非一也。 広顕念仏三昧竟」 とあり。
○又善導の ¬往生礼讃¼ (意) のなかの専修雑修の文等にも、 「雑修のものは往生をうる事、 万がなかに一、 二なをかたし。 専修のものは、 百に百ながらむまる」 といへり。 これらはすなはち、 何事もその門にいりなんには、 一向にもはら他の心あるべからざるゆへなり。
○たとへば今生にも主君につかへ、 人をあひたのむみち、 他人に心ざしをわくると、 一向にあひたのむと、 ほちしからざる事也。 たゞし家ゆたかにして、 のり物、 僮僕もかなひ、 面々に心ざしをいたすちからもたへたるともがらは、 かたがたに心ざしをわくといへども、 そ½の功むなしからず。 かくのごときのちか½らにたへざるものは、 所々をかぬるあひだ、 身はつかるといへども、 そのしるしをえがたし。 一向に人一人をたのめば、 ま0466づしき物も、 かならずそのあはれみをうる也。
○すなはち末代悪世の无智の衆生は、 かのまづしき物のごときなり。 むかしの権者聖人は、 家ゆたかなる衆生のごとき也。 しかれば、 无智の身をもて智者の行をまなばんにおきては、 まづしき物の得人をまなばんがごとき也。
○又なをたとへととらば、 たかき山の、 人もかよふべくもなからん巌石を、 ちからたらざらんもの、 いしのかど木の根にとりすがりてのぼらんとはげまんは、 雑行を修して往生をねがはんがごときなり。 かの山のみねより、 つよきつなをおろしたらんにすがりての½ぼらんは、½ 弥陀の願力をふかく信じて、 一向に念仏をつとめば、 往生せんがごときなるべし。
○又一向専修には、 ことに三心を具足すべき也。 三心といふは、 一には至誠心、 二には深心、 三には廻向発願心也。
○至誠心といふは、 余仏を礼せず弥陀を礼し、 余行を修せず弥陀を念じて、 もはらにしてもはらならしむる也。
○深心といふは、 弥陀の本願をふかく信じて、 わが身は无始よりこのかた罪悪生死の凡夫として、 生死をまぬかるべきみちなきを、 弥陀の本願不可思議なるによりて、 かの名号を一向に称念して、 うたがひをなす心なければ、 一念のあひだに八十億劫の生死のつみを滅して、 最後臨終の時、 かならず弥陀の来迎にあづかる也。
○廻向発願心といふ0467は、 自他の行を真実の心の中に廻向発願する也。
○この三心、 一つもかけぬれば、 往生½をとげがたし。 しかれば、 他の行½をまじえんによりて罪になるべからずといへども、 なを念仏往生を不定に存じていさゝかのうたがひをのこして、 他事をくわふるにて侍るべき也。
○たゞしこの三心のなかに、 至誠心をやうやうに心えて、 ことにまことをいたす事を、 かたく申しなすともがらも侍るにや。 しからば、 弥陀の本願の本意にもたがひて、 信心はかけぬるにてあるべき也。
○いかに信力をいたすといふともがらも、 造悪の凡夫の身の信力にて、 願を成就せんほどの信力は、 いかでか侍るべき。 たゞ一向に往生を決定せんずればこそ、 本願の不思議にて侍るべけれ。
○さやうに信力もふかく、 よからん人のためには、 かくあながちに不思議の本願をおこし給ふべきにあらず、 この道理をば存じながら、 ま事しく専修念仏の一行にいたる人はいみじくありがたき也。
○しかるを道綽禅師は決定往生の先達なり、 智恵ふかくして講説を修し給ひき。 曇鸞法師の三世已下の弟子也。 かの曇師は智恵高遠なりといへども、 四論の講説をすてゝ、 ひとへに往生の業を修して、 一向にもはら弥陀を念じて、 相続无間にして、 現に往生し給へり。
○かくのごとき道綽は、 講説をやめて念仏を修し、 善導は雑修をきらひて専修をつとめ給0468ひき。 又道綽禅師のすゝめによりて、 州の三県の人、 七歳已後一向に念仏を修すといへり。
○しかれば、 わが朝の末法の衆生、 なんぞあながちに雑修をこのまんや。 たゞすみやかに弥陀如来の願、 釈迦如来の説、 道綽・善導の釈をまなぶに、 雑修を修して極楽の果を不定に存ぜんよりは、 専修の業を行じて往生ののぞみを決定すべきなり。
○かの道綽・善導等の釈は、 念仏門の人々の事なれば、 左右におよぶべからず。
○法相宗におきては、 専修念仏門をば信向せざるかと存ずるところに、 慈恩大師の ¬西方要決¼ にいはく、 「末法万年余経悉滅。 弥陀一教利物偏増」 と釈し給へり。 又おなじき ¬書¼ (西方要決意) にいはく、 「三空九断之文、 十地・五修之訓、 生期分促死路非運、 不如暫息多聞之広学、 専念仏之軍修」 といへり。
○しかのみならず、 又 ¬大聖竹林寺の記¼ にいはく、 「五台山竹林寺の大講堂の中にして、 普賢・文殊東西に対座して、 もろもろの衆生のために妙法をとき給ふ時、 法照禅師ひざまづきて、 文殊に問たてまつりき。 未来悪世の凡夫、 いづれの法をおこなひてか、 ながく三界をいでゝ浄土にむまるゝ事をうべきと。 文殊こたへての給はく、 往生浄土のはかり事、 弥陀の名号にすぎたるはなく、 頓証菩提のみち、 たゞ称念の一門にあり。 これによて、 釈迦一代の聖教におほくほむるところみな弥陀にあり0469。 いかにいはんや、 未来悪世の凡夫をやとこたへ給へり」。
○かくのごときの要文等、 智者たちのおしへを見ても、 なを信心なくして、 ありがたき人界をうけて、 ゆきやすき浄土にいらざらん事、 後悔なに事かこれにしかんや。
○かつうは又、 かくのごときの専修念仏のともがらを、 当世にもはら難をくわえて、 あざけりをなすともがらおほくきこゆ。 これ又むかしの権者たち、 かねてまづさとりしり給へる事也。
文殊の給はく、 「於未来世悪衆生、 称念西方弥陀号、 依仏本願出生死、 以直心故生極楽。」云云 ○善導の ¬法事讃¼ にいはく、 「世尊説法時将了、 慇懃付嘱弥陀名、 五濁増時多疑謗、 道俗相嫌不用聞、 見有修行起瞋毒、 方便破壊競生怨、 如此生盲闡提輩、 毀滅頓教永沈淪、 超過大地微塵劫、 未可得離三塗身、 大衆同心皆懺悔、 諸有破法罪因縁。」云云
○又 ¬平等覚経¼ にいはく、 「もし善男子・善女人ありて、 かくのごときらの浄土の法門をとくをきゝて、 悲喜をなして身の毛いよだつ事をしてぬきいだすがごとくするは、 しかるべし、 この人過去にすでに仏道をなしてきたれる也。 もし又これをきくといふとも、 すべて信楽せざらんにおきては、 しるべし、 この人はじめて三悪道のなかよりきたれる也」。
○しかれば、 かくのごときの謗難のともがらは、 左右なき罪人のよしをしりて、 論談にあたふべ0470からざる事也。
○又十善かたくたもたずして、 利・都率をねがはん、 きはめてかなひがたし。 極楽は五逆のもの念仏によりてむまる。 いはんや、 十悪においてはさわりとなるべからず。 又慈尊の出世を期せんにも、 五十六億七千万歳、 いとまちどを也、 いまだしらず。 他方の浄土そのところどころにはかくのごときの本願なし、 極楽はもはら弥陀の願力はなはだふかし、 なんぞほかをもとむべき。
○このたび仏法に縁をむすびて、 三生・四生に得脱せんとのぞみをかくるともがらあり、 この願きわめて不定也。 大通結縁の人、 信楽慚愧のころものうらに、 一乗无価の玉をかけて、 隔生即亡して、 三千塵点があひだ六趣に輪廻せしにあらずや。 たとひ又、 三・四生に縁をむすびて、 必定得脱すべきにても、 それをまちつけん輪廻のあひだのくるしみ、 いとたへがたかるべし、 いとまちどをなるべし。
○又かの聖道門においては、 三乗・五乗の得道也。 この行は多百千劫也。 こゝにわれら、 このたびはじめて人界の生をうけたるにてもあらず、 世々生々をへて、 如来の教化にも、 菩薩の弘経にも、 いくそばくかあひたてまつりたりけん。 たゞ不信にして教化にもれきたれるなるべし。
○三世諸仏・十方菩薩、 思へばみなこれむかしのとも也。 釈迦も五百塵点のさき、 弥陀も十劫成道のさきは、 かたじけなく父母・師0471弟ともたがひになり給ひけん。 ほとけは前仏の教をうけ、 善知識のおしへを信じて、 はやく発心修行し給ひて、 成仏してひさしくなり給にける。 われらは信心おろかなるゆへに、 いまに生死にとまれるなるべし。
○過去の輪転をおもへば、 未来も又かくのごとし。 たとひ二乗の心をおこすといふとも、 菩提心をばおこしがたし。 如来は勝方便としておこなひ給へり。 濁世の衆生、 自力をはげまさんには、 百千万億劫難行苦行をいたすといふとも、 その勤およぶところにあらず。
○又かの聖道門は、 よく清浄にして、 そのうつは物にたれらん人のつとむべき行也。 懈怠不信にしては、 中々行ぜざらんよりも、 罪業の因となるかたもありぬべし。 念仏門においては、 行住坐臥ねてもさめても持念するに、 そのたよりとがなくして、 そのうつは物をきらはず、 ことごとく往生の因となる事うたがひなし。
○「彼仏因中立弘誓 | 聞名念我総来迎 |
不簡貧窮将富貴 | 不簡下智与高才 |
不簡多聞持浄戒 | 不簡破戒罪根深 |
但使廻心多念仏 | 能令瓦礫変成金」 (五会法事讃巻本) |
といへり。
○又いみじき経論・聖教の智者といへども、 最後臨終の時、 その文を暗誦0472するにあたはず。 念仏においては、 いのちをきわむるにいたるまで、 称念するにそのわづらひなし。
○又ほとけの誓願のためしをひかんにも、 薬師の十二の誓願には不取正覚の願なく、 千手の願は不取正覚とちかひ給へるも、 いまだ正覚なり給はず。 弥陀は不取正覚の願をおこして、 正覚なりて、 すでに十劫をへ給へり。 かくのごときのちかひに信をいたさゞらん人は、 又他の法門をも信仰するにおよばず。
○しかれば、 返々も一向専修の念仏に信をいたして、 他の心なく、 日夜朝暮、 行住坐臥に、 おこたる事なく称念すべき也。 専修念仏をいたすともがら、 当世にも往生をとぐるきこへ、 そのかずおほし。 雑修の人においては、 そのきこへきわめてありがたし。
○そもそもこれを見ても、 なをよこさまのひがゐんにいりて、 物難ぜんとおもはんともがらは、 さだめていよいよいきどをりをなして、 しからば、 むかしよりほとけのときをき給へる経論・聖教、 みなもて无益のいたづら物にて、 うせなんとするにこそなんど、 あざけり申さんずら½ん。
○それは天臺・法相の本寺・本山に修学をいとなみて、 名をも存じ、 おほやけにもつかへて、 官位をものぞまんとおもはんにおいては、 左右におよぶべからず。 又上根利智の人は、 そのかぎりにあらず。 この心をえてよく了見する人は、 あやまりて聖道門をことにおも0473くするゆへと存ずべき也。
○しかるを、 なを念仏にあひかねてつとめをいださん事は、 聖道門をすでに念仏の助行にもちゐるべきか。 その条こそ、 返々羞悪同門をうしなふにては侍りけれ。
○たゞこの念仏門は、 返々も又他の心なく後世を思はんともがらの、 よしなき僻胤におもむきて、 時をも身をもはからず、 難行をも½修して、 このたびたま½たまありがたき人界に½むまれて、 さばか½りあひがたかるべき弥陀のちかひをすてゝ、 又三塗の旧界に返りて、 生死に輪転して、 多百千劫をへんかなしさを思ひしらん人の身のためを申也。
○さらば、 諸宗のいきどほりにはおよぶべからざる事也。