二十一0567、 十二箇条問答
▲十二箇条の問答 第二十一
一
問ていはく、 念仏すれば往生すべしといふ事、 耳なれたるやうにありながら、 いかなるゆへともしらず。 かやうの五障の身までも、 すてられぬ事ならば、 こまかにおしへさせ給へ。
答ていはく、 およそ生死をいづるおこなひ一つにあらずといへども、 まづ極楽に往生せんとねがへ、 弥陀を念ぜよよいふ事、 釈迦一代の教にあまねくすゝめ給へり。
そのゆへは、 弥陀の本願をおこして、 わが名号を念ぜん物、 わが浄土にむまれずは正覚とらじとちかひて、 すでに正覚をなり給ふゆへに、 この名号をとなふるものはかならず往生する也。
臨終の時、 もろもろの聖衆とゝもにきたりて、 かならず迎接し給ふゆへに、 悪業としてさふるものなく、 魔縁としてさまたぐる事なし。 男女・貴賎をえらばず、 善人・悪人をもわかたず、 心をいたして弥陀を念ずるに、 むまれずといふ事なし。
たとへばおもき石をふねにのせつれば、 しづむ事なく万里のうみをわたるがごとし。 罪業のおもき事は石のごとくなれども、 本願のふねにのりぬれば、 生死のうみにしづむ事なく、 かならず往生する也。
ゆめゆめわが身の罪業によりて、 本願の不思議をうたがはせ給ふべか0568らず。 これを他力の往生とは申す也。 自力にて生死をいでんとするには、 煩悩悪業を断じつくして、 浄土にもまいり菩提にもいたると習ふ。 これはかちよりけわしきみちをゆくがごとし。
二
問ていはく、 罪業おもけれども、 智慧の灯をもちて、 煩悩のやみをはらふ事にて候なれば、 かやうの愚痴の身には、 つみをつくる事はかさなれども、 つぐのふ事はなし。 なにをもてこのつみをけすべしともおぼへず候は又いかん。
答ていはく、 たゞ仏の御詞を信じてうたがひなければ、 仏の御ちからにて往生する也。 さきのたとへのごとく、 ふねにのりぬれば、 目しゐたる物も目あきたる物も、 ともにゆくがごとし。
智慧のまなこある物も、 仏を念ぜざれば願力にかなはず、 愚痴のやみふかきものも、 念仏すれば願力に乗ずる也。 念仏する物をば、 弥陀、 光明をはなちてつねにてらしてすて給はねば、 悪縁にあはずして、 かならず臨終に正念をえて往生するなり。 さらにわが身の智慧のありなしによりて、 往生の定不定をばさだむべからず。 たゞ信心のふかかるべき也。
三
問ていはく、 世をそむきたる人は、 ひとすぢに念仏すれば往生もえやすき事也。 かやうの身には、 あしたにもゆふべにもいとなむ事は名聞、 昨日も今日もおもふ事0569は利養也。 かやうの身にて申さん念仏は、 いかゞ仏の御心にもかなひ候べきや。
答ていはく、 浄摩尼珠といふたまを、 にごれる水に投ぐれば、 たまの用力にて、 その水きよくなるがごとし。 衆生の心はつねに名利にそみて、 にごれる事かのみづのごとくなれども、 念仏の摩尼珠を投ぐれば、 心のみづおのづからきよくなりて、 往生をうる事は念仏のちから也。
わが心をしづめ、 このさわりをのぞきてのち、 念仏せよとにはあらず。 たゞつねに念仏して、 そのつみをば滅すべし。 さればむかしより、 在家の人おほく往生したるためし、 いくばくかおほき。 心のしづかならざらんにつけても、 よくよく仏力をたのみ、 もはら念仏すべし。
四
問ていはく、 念仏は数遍を申せとすゝむる人もあり、 又さしもなくともなんど申す人もあり。 いづれにかしたがひ候べき。
答ていはく、 さとりもあり、 ならふ[む]ねもありて申さん事は、 その心のうちしりがたければ、 さだめにくし。
在家の人の、 つねに悪縁にのみしたしまれ、 身には数遍を申さずして、 いたづらに日をくらし、 むなしく夜をあかさん事、 荒量の事にや候はんずらん。 凡夫は縁にしたがひて退しやすき物なれば、 いかにもいかにもはげむべき事也。 されば、 処処におほく 「念念に相続してわすれざれ」 といへり。
0570五
問ていはく、 念念にわすれざる程の事こそ、 わが身にかなひがたくおぼへ候へ。 又手には念珠をとれども、 心にはそゞろ事をのみ思ふ。 この念仏は、 往生の業にはかなひがたくや候はんずらん。 これをきらはれば、 この身の往生は不定なるかたもありぬべし。
答ていはく、 念念にすてざれとおしふる事は、 人のほどにしたがひてすゝむる事なれば、 わが身にとりて心のおよび、 身のはげまん程は、 心にはからはせ給べし。
又念仏の時悪業の思はるゝ事は、 一切の凡夫のくせ也。 さりながらも往生の心ざしありて念仏せば、 ゆめゆめさわりとはなるべからず。 たとへば親子の約束をなす人、 いさゝかそむく心あれども、 さきの約束改変する程の心なければ、 おなじ親子なるがごとし。 念仏して往生せんと心ざして念仏を行ずるに、 凡夫なるがゆへに貪瞋の煩悩おこるといへども、 念仏往生の約束をひるがへさゞれば、 かならず往生する也。
六
問ていはく、 これ程にやすく往生せば、 念仏するほどの人はみな往生すべきに、 ねがふ物もおほく、 念ずる物もおほきなかに、 往生する物のまれなるは、 なにのゆへとか思ひ候べき。
答ていはく、 人の心はほかにあらはるゝ事なければ、 その邪正さだめがたしといへども、 ¬経¼ (観経意) には 「三心を具して往生す」 とみへて候めり0571。 この心を具せざるがゆへに、 念仏すれども往生をえざる也。 三心と申すは、 一には至誠心、 二には深心、 三には廻向発願心也。
はじめに至誠心といふは真実心也と釈するは、 内外とゝのほれる心也。 何事をするにも、 ま事しき心なくては成ずる事なし。 人なみなみの心をもちて、 穢土のいとはしからぬをいとふよしをし、 浄土のねがはしからぬをねがふ気色をして、 内外とゝのほらぬをきらひて、 ま事の心ざしをもて、 穢土をもいとひ浄土をもねがへとおしふる也。
次に深心といふは、 仏の本願を信ずる心也。 われは悪業煩悩の身なれども、 ほとけの願力にて、 かならず往生するなりといふ道理をきゝて、 ふかく信じて、 つゆちりばかりもうたがはぬ心也。 人おほくさまたげんとして、 これをにくみ、 これをさへぎれども、 これによりて心のはたらかざるを、 ふかき信とは申也。
次に廻向発願心といふは、 わが修するところの行を廻向して、 極楽にむまれんとねがふ心也。
わが行のちから、 わが心のいみじくて往生すべしとはおもはず、 ほとけの願力のいみじくおはしますによりて、 むまるべくもなき物もむまるべしと信じて、 いのちおはらば仏かならずきたりてむかへ給へと思ふ心を、 金剛の一切の物にやぶられざるがごとく、 この心をふかく信じて、 臨終までもとおりぬれば、 十人は十人ながら0572むまれ、 百人は百人ながらむらるゝ也。
さればこの心なき物は、 仏を念ずれども順次の往生をばとげず、 遠縁とはなるべし。 この心のおこりたる事は、 わが身にしるべし、 人はしるべからず。
七
問ていはく、 往生をねがはぬにはあらず、 ねがふといふとも、 その心勇猛ならず。 又念仏をいやしと思ふにはあらず、 行じながらおろそかにしてあかしくらし候へば、 かゝる身なれば、 いかにもこの三心具したりと申すべくもなし。 さればこのたびの往生をばおもひたへ候べきにや。
答ていはく、 浄土をねがへどもはげしからず、 念仏すれども心のゆるなる事をなげくは、 往生の心ざしのなきにはあらず。 心ざしのなき物は、 ゆるなるをもなげかず、 はげしからぬをもかなしまず、 いそぐみちにはあしのおそきをなげく、 いそがざるみちにはこれをなげかざるがごとし。
又このめばおのづから発心すと申す事もあれば、 漸漸に増進してかならず往生すべし。 日ごろ十悪・五逆をつくれる物も、 臨終にはじめて善知識にあひて往生する事あり。 いはんや、 往生をねがひ念仏を申して、 わが心のはげしからぬ事をなげかん人をば、 仏もあはれみ、 菩薩もまぼりて、 障りをのぞき、 知識にあひて、 往生をうべき也。
0573八
問ていはく、 つねに念仏の行者いかやうにかおもひ候べきや。
答ていはく、 ある時には世間の无常なる事をおもひて、 この世のいくほどなき事をしれ。
ある時には仏の本願をおもひて、 かならずむかへ給へと申せ。
ある時には人身のうけがたきにことはりを思ひて、 このたびむなしくやまん事をかなしめ。 六道をめぐるに、 人身をうる事は、 梵天より糸をくだして、 大海のそこなる針のあなをとをさんがごとしといへり。
ある時はあひがたき仏法にあへり。 このたび出離の業をうゑずは、 いつをか期すべきとおもふべき也。 ひとたび悪道におちぬれば、 阿僧祇劫をふれども、 三宝の御名をきかず、 いかにいはんや、 ふかく信ずる事をえんや。
ある時にはわが身の宿善をよろこぶべし。 かしこきもいやしきも、 人おほしといへども、 仏法を信じ浄土をねがふものはまれ也。 信ずるまでこそかたからめ、 そしりにくみて悪道の因をのみきざす。 しかるにこれを信じこれを貴びて、 仏をたのみ往生を心ざす、 これひとへに宿善のしからしむる也。 たゞ今生のはげみにあらず、 往生の期のいたれる也と、 たのもしくよろこぶべし。
かやうの事を、 おりにしたがひ事によりて、 おもふべきなり。
九
問ていはく、 かやうの愚痴の身には聖教をも見ず、 悪縁のみおほし。 いかなる方法0574をもてか、 わが心をまぼり、 信心をももよをすべきや。
答ていはく、 そのやう一にあらず。 あるいは人の苦にあふを見て、 三塗の苦をおもひやれ。 あるいは人のしぬるを見て、 无常のことわりをさとれ。 あるいはつねに念仏して、 その心をはげませ。 あるいはつねによきともにあひて、 心をはぢししめられよ。 人の心は、 おほく悪縁によりてあしき心のおこる也。 されば悪縁をばきり、 善縁にはちかづけといへり。 これらの方法ひとしなならず、 時にしたがひてはからふべし。
十
問ていはく、 念仏のほかの余善をば、 往生の業にあらずとて、 修すべからずといふ事あり。 これはしかるべしや。
答ていはく、 たとへば人のみちをゆくに、 主人一人につきて、 おほくの眷属のゆくがごとし。 往生の業のなかに、 念仏は主人也、 余の善は眷属也。 しかりといひて、 余善をきらふまではあるべからず。
十一
問ていはく、 本願は悪人をきらはねばとて、 このみて悪業をつくる事はしかるべしや。
答ていはく、 ほとけは悪人をすて給はねども、 このみて悪をつくる事、 これ仏の弟子にはあらず。 一切の仏法に悪を制せずといふ事なし。 悪を制するに、 かならずしもこれをとゞめざるものは、 念仏してそのつみを滅せよとすゝめたる也。
わが身のたへねばとて、 仏にとがをかけたてまつらん事は、 おほきなるあやま0575り也。 わが身の悪をとゞむるにあたはずは、 ほとけ慈悲をすて給はずして、 このつみを滅してむかへ給へと申すべし。 つみをばたゞつくるべしといふ事は、 すべて仏法にいはざるところ也。
たとへば人のおやの、 一切の子をかなしむに、 そのなかによき子もあり、 あしき子もあり。 ともに慈悲をなすとはいへども、 悪を行ずる子をば、 目をいからし、 杖をさゝげて、 いましむるがごとし。 仏の慈悲のあまねき事をきゝては、 つみをつくれとおぼしめすといふさとりをなさば、 仏の慈悲にももれぬべし。
悪人までをもすて給はぬ本願としらんにつけても、 いよいよほとけの知見をば、 はづべし、 かなしむべし。 父母の慈悲あればとて、 父母のまへにて悪を行ぜんに、 その父母よろこぶべしや。 なげきながらすてず、 あはれみながらにくむ也。 ほとけも又もてかくのごとし。
十二
問ていはく、 凡夫は心に悪をおもはずといふ事なし。 この悪をほかにあらはさゞるは、 仏をはぢずして人目をはゞかるといふ事あり。 これは心のままにふるまふべしや。
答ていはく、 人の帰依をえんとおもひてほかをかざらんは、 とがあるかたもやあらん。 悪をばしのばんがために、 たとひ心におもふとも、 ほかまではあらはさじとおもひておさへん事は、 すなはちほとけに恥る心也。 とにもかくにも悪を0576しのびて、 念仏の功をつむべき也。
習ひさきよりあらざれば、 臨終正念もかたし。 つねに臨終のおもひをなして、 臥すごとに十念をとなふべし。 されば、 ねてもさめてもわするゝ事なかれといへり。 おほかたは世間も出世も、 道理はたがはぬ事にて候也。
心ある人は父母もあはれみ、 主君もはぐゝむにしたがひて、 悪事をばしりぞき、 善事をばこのまんとおもへり。 悪をもすて給はぬ本願ときかんにも、 まして善人をば、 いかばかりかよろこび給はんと思ふべき也。 一念・十念をもむかへ給ふときかば、 いはんや百念・千念をやとおもひて、 心のおよび、 身のはげまれん程ははげむべし。
さればとてわが身の器量のかなはざらんをばしらず、 仏の引接をばうたがふべからず。 たとひ七、 八十のよはひを期すとも、 おもへばゆめのごとし。 いはんや、 老少不定なれば、 いつをかぎりと思ふべからず。 さらにのちを期する心あるべからず。 たゞ一とすぢに念仏すべしといふ事、 そのいはれ一にあらず。
これを見んおりおりごとにおもひでゝ、 南無阿弥陀仏とつねにとなへよ。