0522十二、 大胡太郎へつかはす御返事
●大胡太郎実秀へつかはす御返事 第十二
○さきの便にはさしあふ事候て、 御返事こまかに申さず候き、 さだめて不審のおぼしめし候らんと思給候。
○さてはたづねおほせられ候し事ども、 御文なんどにて、 たやすく申ひらきがたき事にて候。 あはれ京にひさ½しく御逗留候し時、 こまかに御沙汰候ましかばよく候ひなまし。
○大方は念仏して往生すと申事ばかり、 わづかにうけ給はりて候。 わが心一つにふかく信じたるばかりにてこそ候へども、 人までつばひらかに申きかせなんどする程の身にて候はねば、 ましてたちいりたる事どもの不審なんど、 御文にて申ひらくべしともおぼへ候はねども、 わづかに見および候はん程の事を、 はゞかりまいらせて、 ともかくも御返事申候はざらん事のおそれにて候へば、 心のおよぶ程は、 かたのごとく申候はんと存じ候也。
○まづ三心具足して往生すと申候事は、 ま事にその名目ばかりをうちきく時には、 いかなる心を申やらんと、 事々しくおぼへ候ひぬべけれども、 善導の御心にては、 心えやす½き事にて候也。 かならずしもならひ沙汰せざらん无智の人や、 さとりなからん女人なんどの、 え具せぬ程の心ばへにては候はぬ也。 たゞまめやかに往生0523せんとおもひて念仏申さん人は、 自然に具足しぬべき心にて候物を。
○そのゆへは、 三心と申すは、 ¬観无量寿経¼ にとかれて候やうは、 「もし衆生ありて、 かのくにゝむまれんとねがはんものは、 三種の心をおこしてすなはち往生すべし。 何等をか三とする。 一には至誠心、 二には深心、 三には廻向発願心也。 この三心を具するものは、 かならずかのくにゝむまる」 とゝかれたり。
○しかるに善導和尚の御心によらば、 はじめに 「至誠心」 といふは真実の心也。 真実といふは、 いはく内はむなしくして、 外をかざる心のなきを申也。 すなはち ¬観経疏¼ (散善義) に釈していはく、 「外には賢善精進の相を現じ、 内には虚仮をいだく事をえざれ」 といへり。
○この釈の心は、 内はおろかにして、 外にはかしこき人とおもはれんとふるまひ、 内には悪をつくり、 外には善人のよしをしめし、 内には懈怠の心を懐きて、 外には精進の相を現ずるを、 真実ならぬ心とは申也。 外も内もありのまゝにてかざる心のなきを、 至誠心となづくるにこそ候めれ。
○二に 「深心」 といふは、 すなはちこれ深く信ずる心也。 何事をふかく信ずるぞといふに、 まづもろもろの煩悩を具足し、 おほくのつみをつくりて、 余の善根なんどなからん凡夫、 あみだほとけの大悲本願をあふぎて、 そのほとけの大悲の名号をと0524なへて、 もしは百年にても、 もしは四、 五十年にても、 もしは十、 二十年にても、 乃至一、 二年にてもあれ、 すべて往生せんとおもひはじめたらん時よりして、 最後臨終の時にいたるまで懈怠せず。 もしは七日・一日、 十声・一声にても、 おほくもすくなくも、 称名念仏の人は決定して往生すべしと信じて、 乃至一念もうたがふ心なきを、 深心とは申也。
○しかるのもろもろの往生をねがふ人、 本願の名号をたもちながら、 なを内に妄念のおこるをおそれ、 外に余善のすくなきによりても、 ひとへにわが身をかろしめて往生を不定におもはゞ、 すでに本願をうたがふ也。
○されば善導は、 はるかに未来の行者のこのうたがひをのこさん事をかゞみて、 その疑心をのぞきて決定の心をすゝめんがために、 煩悩を具足して罪業をつくり、 善根すくなく智解なからん凡夫、 十声・一声までの念仏によりて、 決定して往生すべきことはりを、 くはしく釈しおしへ給へる也。
○たとひおほくのほとけ、 空の中に充満ちて、 光をはなち舌をのべて、 造罪の凡夫、 念仏して往生すといふ事はひが事なり、 信ずべからずとの給ふとも、 それによりて一念もおどろきうたがふ心あるべからず。
○そのゆへは、 阿弥陀ほとけいまだ仏になり給はざりしむかし、 もし我仏になりたらん時、 十方の衆生わが名号を十たびとなへ、 一こゑもとな0525へむ。 となふる事、 かみ百年よりしも十声・一声までにせんに、 もしわがくにゝむまれずといはゞ、 われほとけにならじとちかひ給ひたりしに、 その願むなしからずして、 ほとけになりてすでにひさしくなり給へり。 知るべし、 その名号をとなへむ人は、 かならず往生すべしといふ事を。
○又釈迦ほとけ、 この娑婆世界にいで給ひて、 一切衆生のために、 かの弥陀の本願をときて、 念仏往生をすゝめ給へり。
○又六方恒沙の諸仏、 おのおの広長の舌をいだして、 釈迦の念仏して往生すとゝき給ふは決定也。 もろもろの衆生、 ふかく信じてすこしもうたがふ心あるべからずと、 爾許のほとけたちの一仏ものこらず一味同心に証誠し給へり。
すでに½阿弥陀ほとけは、 その願を立給ふ。 釈迦ほとけは、 その願のむなしからざる事をときすゝめ給ふ。 六方恒沙の諸仏は、 その説の真実なる事を証誠し給へり。
○このほかいづれのほとけの、 又これらの諸仏にたがひて、 凡夫念仏して往生せずとはの給ふべきぞといふことはりをもて、 おほくのほとけ現じての給ふとも、 それにおどろきて、 さては念仏往生かなふまじきかと、 信心をやぶり疑心をおこすべからず。 いはんや、 菩薩たちのの給はんをや。 いはんや、 羅漢・辟支仏等をやと、 釈し給ひて候也。
○いかにいはんや、 近来の凡夫のいひさまたげんをや。 いか0526にめでたき人と申すとも、 善導和尚にまさりたてまつりて往生の道をしりたらん事もありがたく候。
○善導は又たゞの凡夫にはあらず、 すなはち阿弥陀仏の化身也。 かのほとけ、 わが本願をひろめて、 あまねく一切衆生にしらしめて、 決定して往生せさせん料に、 かりそめに凡夫の人とむまれて善導和尚といはれ給ふ也。 いはばその教は仏説にてこそ候へ。
○いかにいはんや、 垂迹のかたにても現身に念仏三昧をえて、 まのあたり浄土の荘厳を見、 仏にむかひたてまつりて、 たゞちにほとけのおしへをうけ給はりての給へる詞共也。 本地をおもふにも垂迹をたづぬるにも、 かたがたあふいで信ずべし。
○されば、 たれもたれも煩悩のこきうすきをかへりみず、 罪障のかろきおもきをも沙汰せず、 たゞ口に南無阿弥陀仏ととなへむこ½ゑにつきて、 決定往生のおもひをなすべし。 その決定の心を、 やがて深心とはなづくる也。 その深心を具しぬれば、 決定して往生する也。
○詮ずるところは、 とにもかくにも深心、 念仏して往生すといふ事をふかく信じてうたがはぬを、 深心とはなづけて候なり。
○三に 「廻向発願心」 といふは、 これ又別の心には候はず、 わが所修の行業を、 一向に極楽に廻向して往生をねがふ心也。
○「かくのごときの三心を具してかならず往生0527すべし。 この心一つもかけぬれば、 往生せず」 (礼讃意) と、 善導は釈し給へる也。
○たとひ真実の心ありて、 うゑをかざらずとも、 ほとけの本願をうたがはゞ、 すでに深心かけたる念仏也。 たとひ疑心なくともほかをかざりて、 内にま事の心なくは、 至誠心かけたる心½なるべし。 たとひこの二心を具して、 かざる心も疑心もなくとも、 極楽にむまれんとおもふ心なくは、 廻向発願心かけぬべし。
○三心を心えわかつ時には、 かくのごとく別々なる様なれども、 詮ずるところは、 真実の心をおこして、 ふかく本願を信じて往生をねがふ心を、 三心具足の心とは申也。 ま事にこれほどの心だにも具足せずしては、 いかゞ往生ほどの大事をばとげ給ふべきや。
○この心は申せば、 又やすき事にて候也。 これをかやうに心えしらねばとて、 又え具足せぬ心にては候はぬ也。 その名をだにもしらぬものも、 この心をばそなへつべく候。 又よくよくしりたらん人のなかにも、 そのまゝに具せぬも候ひぬべき心ばへにて候也。
○さればこそ、 いふに甲斐なき人ならぬものどもの中よりも、 たゞひらに念仏申すばかりにて往生したりといふ事は、 むかしより申つたへたる事にて候へ。 それらはみなしらねども、 三心を具したる人にてありけりと、 心えらるゝ事にて候也。
○又0528としごろ念仏申たる人の、 臨終のわろき事の候は、 さきに申つるやうに、 うゑばかりをかざりて、 たうとき念仏者と人にいはれんとのみ思ひて、 したにはふかく本願をも信ぜず、 まめやかに往生をもねがはぬ人にてこそは候らめと、 心えられ候也。
○さればこの三心を具せざるゆへに、 臨終もわろく、 往生もせぬ事に½て候也としろしめすべき也。 かく申候へば、 さては往生は大事の事にこそとおぼしめす事、 ゆめゆめ候まじき也。 一定往生すべしと思ひとらぬ心を、 やがて深心かけて往生せぬ心とは申候へば、 いよいよ一定の往生とこそおぼしめすべき事にて候へ。
○まめやかに往生の心ざしありて、 弥陀の本願をうたがはずして、 念仏を申さん人は、 臨終のわろき事は大方は候まじき也。 そのゆへは、 ほとけの来迎し給ふ事は、 もとより行者の臨終正念のためにて候也。 それを心えぬ人は、 みなわが臨終正念にして念仏申たらん時に、 ほとけはむかへ給ふべき也とのみ心えて候は、 仏の願をも信ぜず、 経の文をも心えぬ人にて候也。
○そのゆへは、 ¬称讃浄土経¼ にいはく、 「ほとけ慈悲をもて加へ助けて、 心をしてみだらしめ給はず」 とゝかれて候へば、 たゞの時によくよく申をきたる念仏によりて、 臨終にかならずほとけは来迎し給ふべし。 ほとけの来迎し給ふを見たてまつりて、 行者正念に住すと申す義0529にて候也。
○しかるにさきの念仏を、 むなしくおもひなして、 よしなく臨終正念をのみいのる人なんどの候は、 ゆゝしき僻胤にいりたる事にて候也。 さればほとけの本願を信ぜん人は、 かねて臨終をうたがふ心あるべからずとこそおぼへ候へ。
○たゞ当時申さん念仏をば、 いよいよも心を至して申べきにて候。 いつかはほとけの本願にも、 臨終の時念仏申たらん人をのみ迎へんとはたて給ひて候。
○臨終の念仏にて往生すと申事は、 日比往生をもねがはず、 念仏をも申さずして、 ひとえにつみをのみつくりたる悪人の、 すでに死なんとする時、 はじめて善知識のすゝめにあひて、 念仏して往生すとこそ、 ¬観経¼ にもとかれて候へ。
○もとよりの行者は、 臨終の沙汰をばあながちにすべき様は候はぬ也。 仏の来迎一定ならば、 臨終の正念も又一定とおぼしめすべき也。 この大意をもて、 よくよく御心をとゞめて、 心えさせ給ふべく候。
○又罪をつくりたる人だにも念仏して往生す、 まして ¬法華経¼ なんどうちよみて、 念仏申さんは、 なにかはくるしかるべきと人々の申候らん事は、 京辺にもさやうに申候人々おほく候へば、 まことにさぞ候らん。 それは余宗の心にてこそ候らめ。 よしあしをさだめ申すべきに候はず、 僻事と申さば、 おそれあるかたおほく候。
○た0530ゞし浄土宗の心、 善導の御釈には、 往生の行に大きにわかちて二つとす。 一には正行、 二には雑行也。
○はじめに正行といふは、 これにあまたの行あり。 はじめに読誦正行といふは、 これは ¬无量寿経¼・¬観経¼・¬阿弥陀経¼ 等の 「三部経」 を読誦する也。 つぎに観察正行といふは、 これはかのくにの依正二報のありさまを観ずる也。 つぎに礼拝正行といふは、 これは阿弥陀ほとけを礼拝する也。 つぎに称名正行といふは、 南無阿弥陀仏とゝなふる也。 つぎに讃嘆供養正行といふは、 これは阿弥陀仏を讃嘆したてまつる也。 これをさして五種の正行となづく。 讃嘆と供養とを二つの行とする時は、 六種の正行とも申也。
○「この正行に付てふさねて二つとす。 一には一心にもはら弥陀の名号をとなへたてまつりて、 立居・起伏、 昼夜にわするゝ事なく、 念々にすてざる物を、 これを正定の業となづく、 かのほとけの本願に順ずるがゆへに」 (散善義意) と申て、 念仏をもてまさしくさだめたる往生の業と立てゝ、 「もし礼誦等におるをばなづけて助業とす」 (散善義) と申て、 念仏のほかの礼拝や読誦や讃嘆供養なんどをば、 かの念仏をたすくる業と申て候也。
○さてこの正定業と助業とをのぞきて、 そのほかのもろもろの業をば、 みな雑行となづく。 布施・持戒・忍辱・精進等の六度万行も、 ¬法華経¼ をもよみ、 真言をもおこ0531なひ、 かくのごとくのもろもろの行をば、 みなことごとく雑行となづく。 さきの正行を修するをば、 専修の行者といひ、 のちの雑行を修するをば、 雑修の行者と申て候也。
○この二行の得失を判ずるに、 「さきの正行を修するには、 心つねにかのくにゝ親近して憶念ひまなし。 のちの雑行を行ずるには、 心つねに間断す、 廻向してむまるゝ事をうべしといへども、 すべて疎雑の行となづく」 (散善義意) といひて、 極楽にうとき行といへり。
○又専修のものは、 十人は十人ながらむまれ、 百人は百人ながらむまる。 なにをもてのゆへに。 外の雑縁なくして、 正念をうるがゆへに、 弥陀の本願とあひ叶ふるゆへに、 釈迦のおしへにたがはざるがゆへに。
○雑行のものは、 百人が中に一、 二人むまれ、 千人が中に四、 五人むまる。 なにをもてのゆへに。 雑縁乱動して、 正念をうしなふがゆへに、 弥陀の本願と相応せざるがゆへに、 釈迦のおしへにしたがはざるがゆへに、 係念相続せざるがゆへに、 憶念間断するがゆへに、 みづからも往生の業をさへ、 仏の往生をもさふるがゆへに」 (礼讃意) なんど釈せられて候めれば、 善導和尚をふかく信じて、 浄土宗にいらん人は、 一向に正行を修すべしと申す事にてこそ候へ。
○そのうゑは善導のおしへをそむきて、 余行をくわへんと思はん人は、 おのおのならひたる様どもこそ候らめ。 そ0532れをよしあしとはいかゞ申候べき。 善導の御心にて、 すゝめ給へる行どもをおきながら、 すゝめ給はぬ行をすこしにてもくはふべき様なしと申事にてこそ候へ。 すゝめ給へる正行ばかりだにもなを物うき身にて、 いまだすゝめ給はぬ雑行を加えん事は、 ま事しからぬかたも候ぞかし。
○又つみをつくる人だにも念仏して往生す。 まして善なれば、 ¬法華経¼ なんどをよまんは、 なにかくるしからんなんど申候らんこそ、 无下にけぎたなくおぼへ候へ。 往生をたすけばこそ、 いみじくも候はめ。 さまたげにならぬばかりを、 いみじき事とてくわへおこなはん事は、 なにかは詮にて候べき。
○されば悪をば、 仏の心に、 つくれとやすゝめさせ給ふ。 かまへてとゞめよとこそいましめ給へども、 凡夫のならひ、 当時のまよひにひかれて、 罪をつくるはちからおよばぬ事にてこそ候へ。 ま事に悪をつくる人の様に、 しかるべく経もよみたく、 余行もくわへたからん事は、 ちからおよばず。
○たゞし ¬法華経¼ なんどをよまん事を、 一と言ばなりとも悪をつくらん事にいひならべて、 それもくるしからねば、 ましてこれはなんど申すらん事こそ、 不便の事にて候へ。 ふかき御のりもあしく心うる人にあひぬれば、 返りて物ならずきこへ候事こそ、 あさましくおぼへ候へ。
○これをかやうに申候へば、 余行の人々は腹たつ事にて候に0533、 御心一つに心えて、 ひろくちらさせ給まじく候。 あらぬさとりの人のともかくも申候はん事をば、 耳にきゝいれさせ給はで、 たゞ一筋に善導の御すゝめにしたがひて、 いますこしも一定往生する念仏の数遍を申そえんとおぼしめすべき事にて候也。
○たとひ往生のさわりとこそならずとも、 不定の往生とはきこへて候めれば、 一定往生の正行を修すべき。 行のいとまをいれて、 不定の往生の業をくわへん事は、 且うは損にては候はずや。 よくよく心えさせ給ふべき事にて候也。
○たゞし、 かく申候へば、 雑行をくわへん人は、 ながく往生すまじなんど申事にては候はず。 いかさまにも余行の人なりとも、 すべて人をくだし人をそしる事は、 ゆゝしきとがおもき事にて候也。 よくよく御つゝしみ候て、 雑行の人なればとて、 あなづる御心の候まじく候也。 よかれあしかれ、 人のうゑのよしあしをおもひいれぬが吉き事にて候也。
○又心ざし本よりこの門にありて、 進みぬべからんをば、 こしらへ、 すゝめさせ給ふべく候。 さとりたがひて、 あらぬさまならん人々なんどに論じあはせ給ふ事は、 あるまじき事にて候。
○よくよくならひしり給ひたる聖りたちだにも、 さやうの事をばつゝしみておはしましあひて候ぞ。 まして殿原なんどの御身にては、 一定僻事にて候はんずるに候。
○たゞ御身一つに、 まづよくよく往0534生をねがひて、 念仏をはげませ給ひて、 位たかき往生をとげて、 いそぎ娑婆に返りて、 人をばみちびかせ給へ。 かやうにくはしくかきつけて申候事も、 返々はゞかりおもふ事にて候也。 あなかしこ、 あなかしこ。
○御披露候まじく候。 あなかしこ、 あなかしこ。
○三月十四日 源空