1117◎法然上人御消息
一、 熊谷入道への御返事
◎○御ふみくはしくうけたまはり候ぬ。 かやうにまめやかに、 大事におぼしめし候。 返々ありがたく候。 まことにこのたび、 かまへて往生しなんと、 おぼしめしきるべく候。
◇うけがたき人身すでにうけたり、 あひがたき念仏往生の法門にあひたり。 娑婆をいとふこゝろあり、 極楽をねがふこゝろおこりたり。 弥陀の本願□□□□□□たゞ御こゝろにあるたひなり。 ゆめゆめ御念仏おこたらず、 決定往生のよしを存ぜさせたまふべく候。 なに事もとゞめ候ぬ。
◇九月十六日 源空
九条殿北◗政所◗御返事
二1118、 上野大胡太郎実秀の妻への御返事
◎上野のおほごの女房御返事
○御ふみくはしくうけたまはり候ぬ。 まづはるかなるほどに、 念仏の事きこしめさむために、 わざと御つかひをのぽせさせたまひて候条、 まことに念仏の御こゝろざしのほど、 かへすがへすあはれにこそ候へ。
◇たづねおほせ候念仏の事、 往生極楽のためには、 たとひいかなる行なりといへども、 念仏にすぎたる事は候はぬ也。 そのゆへは、 念仏はこれ弥陀の本願の行なるがゆへなり。
◇本願とまふすは、 阿弥陀仏の、 いまだ仏になりたまはざりしむかし、 法蔵菩薩とまふしゝいにしへ、仏の国土をきよめ、 衆生を成就せしめむがために、 世自在王如来と申しゝ仏のみまへにして、 四十八の大願をおこしたまひしそのなかに、 一切衆生を往生せしめむがために、 一の願をおこしたまひける。 これを念仏往生の大願とは申候なり。
◇すなはち ¬无量寿経¼ 上巻◗云、
「たとひわれ仏を得たらむに、 十方の衆生、 心を至し信楽してわが国に生れむと欲ひて、 乃至十念せむ。 もし生れずは、 正覚を取らじ」 と。 文
「設我得↠仏、 十方衆生、 至↠心信楽欲↠生↢我国↡、 乃至十念。 若不↠生者、 不↠取↢正覚↡。」 文
◇善1119導和尚この願を釈して云、
「もしわれ成仏せむに、 十方の衆生、 わが名号を称すること下十声に至るまで、 もし生れずは正覚を取らじと。 かの仏今現に在して成仏したまへり。 まさに知るべし、 本誓重願虚しからず、 衆生称念すればかならず往生を得む」 と。 (礼讃)文
「若我成仏、 十方衆生、 称↢我名号↡下至↢十声↡、 若不↠生者不↠取↢正覚↡。 彼仏今現在成仏。 当↠知、 本誓重願不↠虚、 衆生称念必得↢往生↡。」 文
◇念仏は、 仏の法身を観ずるにもあらず、 仏の相好を観ずるにもあらず、 たゞ心をひとつにして、 もはら阿弥陀の名号を称するを、 これを念仏とは申なり。 かるがゆへに称名とはなづけて候なり。
◇念仏のほかの一切の行は、 これ弥陀の本願にあらず。 かるがゆへに、 たとひたえなる行なりといふとも、 念仏にはおよび候まじきなり。 おほかたそのくにゝむまれむとおもはむものは、 その仏の誓願にしたがふべきものなり。 しかればすなはち、 弥陀の浄土にむまれむことは、 かならず本願にあり。 余行はこれたくらぶべからず。 かるがゆへに往生極楽のためには、 念仏の行にすぎたることはさらに候はず。
◇往生のみちにあらざる余行、 またおのおのかたどるかたもあり。 しかるに衆生の生死をはなるゝみちは、 仏の御おしへやうやうに候といへども、 このごろのひとの三界をいで生死をはなるゝみちは、 たゞ往生極楽ばかりなり。 この宗のおほきなるこゝろなり。
◇極楽に往生するに、 その行やうやうにおほく候へども、 われらが往生せむことは、 たゞ念仏にあらずは1120かなひがたく候なり。 そのゆへは、 念仏はこれ弥陀の本願の行なるがゆへに、 本願にすがりて往生することいとやすく候。
◇しかればすなわち、 念ずるところ、 極楽にあらずは生死をはなるべからず、 念仏にあらずは極楽にむまるべからざるものなり。 しかれば、 ふかくこのむねを信じたまひて、 一向に極楽をねがひ、 ひとすぢに念仏を修して、 このたび生死をはなれ極楽にむまれむとおぼしめすべきなり。
◇また一一の願のおはりに、 「若不爾者不取正覚」 とちかひたまへり。 しかるに阿弥陀仏は成仏したまひてよりこのかた、 すでに十劫をへたまへり。 まさにしるべし、 本願むなしからず、みなことごとく成就したまへり。 その中に念仏往生の大願、 ひとりむなしかるべからず。 しかればすなわち、 衆生の称念すれば、 一人もむなしからず、 みなかならず往生す。 たれか成仏したまへること、 信ぜざるべき。
◇三宝滅尽のときなりといへども、 一念すればかならず往生す。 五逆深重の人なりといへども、 十念すればまた往生す。 いかにいはむや、 三宝のましますよにむまれて、 五逆おもつくらず。 われら弥陀の名号をとなえむに、 往生うたがふべからず。
◇いまこの願にあひたてまつることは、 おぼろげの縁にあらず。 たとひあえりといへども、 信ぜざればまたあはざるがごとし。 いまふかくこの願を信ぜし1121めたまはゞ、 往生のうたがひおぼしめすべからず。 かならずかならず二心なく、 よくよく御念仏候て、 このたび生死をはなれ極楽にむまれむとおぼしめすべし。
◇また ¬観无量寿経¼ 云、 「光明遍照↢十方世界↡、 念仏衆生摂取不↠捨」 とは、 この弥陀の光明、 念仏のひとをのみをてらして、 余の一切の行人をばてらさずといふなり。 たゞし、 余の行なりといふとも極楽をねがはむものおば、 仏の光明てらして摂取したまふべきに、 なんぞたゞ、 かならずしも念仏の人ばかりをてらしたまはむや。
◇善導和尚ののたまはく、
「弥陀の真色は金の山のごとし。 相好の光明は十方を照らしたまふ。 たゞ念仏のものゝみあて光摂を蒙る。 まさに知るべし、 本願もとも強しとす」 と (礼讃)文
「弥陀真色如↢金山↡ | 相好光明照↢十方↡ |
唯有↢念仏↡蒙↢光摂↡ | 当↠知、 本願最為↠強」 文 |
◇念仏はこれ弥陀の本願の行なるがゆへに、 成仏の光明かへて本地◗誓願を信ずる真実信心をえたる信者をてらしたまふなり。 余行はまた本願にあらざるがゆへに、 弥陀の光明きらふててらしたまはず。
◇かるがゆへに、 いま極楽をもとめむ人は、 本願の念仏を行じて、 摂取の光明にてらされむとおもふべし。 これにつけても念仏大切に候、 よくよくまふしたまふべし。
◇また釈迦如来、 この行の中の定散の諸行をときてのち、 まさしく阿難に付嘱したまふしときは、 かみにとくところの1122散善三福業、 定善十三観おば付嘱したまはずして、 たゞ念仏の一行を付嘱したまへり。 ¬経¼ (観経) 云、
「仏阿難に告げたまはく、 なんぢよくこの語を持て。 この語を持てといふは、 すなわちこれ无量寿仏の名を持てとなり。」 文
「仏告↢阿難↡、 汝好持↢是語↡。 持↢是語↡者、 則是持↢无量寿仏名↡。」 文
◇善導この文を釈 云、
「仏告阿難汝好持是語より已下は、 まさしく弥陀名号を付嘱して、 遐代に流通せることを明す。 上よりこのかた定散両門の益を説といへども、 仏の本願の意を望むには、 衆生をして一向にもはら弥陀仏の名を称するに在」 と。 (散善義)文
「仏告阿難汝好持是語已下、正明↫付↢嘱弥陀名号↡、流↪通於↩遐代↨。上来雖↠説↢定散両門之益↡、望↢仏本願意↡、在↣衆生一向専称↢弥陀仏名↡。」 文
◇この定散の諸行は、 弥陀の本願にあらざるがゆへに、 釈迦如来、 往生の行を付嘱したまふしとき、 余の定善・散善おば付嘱したまはずして、 念仏はこれ弥陀の本願の行なるがゆへに、 まさしくえらびて付属したまふしなり。
◇いま釈迦のおしえにしたがふて往生をもとめむもの、 付嘱の念仏を修して、 釈迦の御こゝろにかなふべし。 これにつけてもまたよくよく御念仏候て、 仏の本願にかなひたまふべし。
◇また六方恒沙の諸仏、 みしたをのべて、 三千大千世界におほひて、 もはらたゞ弥陀の名号をとなへて往生すといふは、 これ真実なりと証誠したまふなり。 これまた念仏は弥陀の本願なるがゆへに、 六方恒沙の諸仏も証誠したまへり。 余の行は本願にあらざるがゆへに、 諸仏証誠したまはざるなり。 これにつけてもなほ1123なほよくよく御念仏候いて、 六方の諸仏の護念をかぶりたまふべし。
◇弥陀の本願、 釈迦の付嘱、 六方の護念、 一一にむなしからず。 このゆへに、 念仏の行は諸行にすぐれたり。
◇善導和尚は弥陀の化身なり。 浄土の祖師おほしといへども、 三昧発得す。 それおほきにわかちて二とす。 一には専修、 いはゆる念仏なり。 二には雑修なり、 いはゆる一切の諸行なり。 かみにいふところの定散等これなり。
◇¬往生礼讃¼ 云、
「もしよく上のごとく念念相続して、 畢命を期とするものは、 十はすなわち十ながら生ず、 百はすなわち百ながら生ず。 なにをもてのゆへに。 外の雑縁なし。 正念を得るがゆへに、 仏の本願と相応↡得るがゆへに、 教に違せざるがゆへに、 仏語↡随順するがゆへに。 もし専を捨てゝ雑業を修せむと欲するものは、 百は時に希に一二↡得、 千は時に希に三五を得。 なにをもてのゆへに。 いまし雑縁乱動す、 正念を失するによるがゆへに、 仏の本願と相応せざるがゆへに、 教と相違するがゆへに、 仏語↡順ぜざるがゆへに、 係念相続せざるがゆへに」 と。 文
「若能如↠上念念相続、畢命為↠期者、十即十生、百即百生。何以故。无↢外雑縁↡。得↢正念↡故、与↢仏本願↡得↢相応↡故、不↠違↠教故、随↢順仏語↡故。若欲↣捨↠専修↢雑業↡者、百時希得↢一二↡、千時希得↢三五↡。何以故。乃由↣雑縁乱動、失↢正念↡故、与↢仏本願↡不↢相応↡故、与↠教相違故、不↠順↢仏語↡故、係念不↢相続↡故。」 文
これは専修と雑修との得失なり。
◇得といふは、 往生することをうるなり。 いはゆる念仏のひとは、 十はすなわち十ながら生じ、 百は百ながら生ずるこれなり。 失といふは、 いはゆる往生をうしなふなり。 雑修のものは、 百人の中にまれに一二人往生することをう。 その余は千人の中にわづかに五人むまる、 のこりはむまれず。
◇専修はみなむまる、 なんがゆへぞ。 弥陀の本願に相応するがゆへに、 釈迦のお1124しえに随順するがゆへなり。 雑業のものはむまるゝことのすくなきは、 なんがゆへぞ。 弥陀の本願にあひたがふがゆへに、 釈迦のおしえにしたがはざるがゆへなり。 念仏を修して浄土をもとむるものは、 釈迦・弥陀の御こゝろにあひかなへり。 雑業を修して浄土をもとむるものは、 釈迦・弥陀の御こゝろにそむけり。
◇善導和尚、 得失を判ずること、 これのみにあらず。 ¬観経の疏¼ とまふす文のなかに、 おほく得失をあげたり。 おほくしげきがゆへにいださず。 これをもちてしるべし。
◇おほよそ念仏を謗ずるものは地獄におちて五劫苦をうくることきわまりなし。 念仏を信ずるものは浄土にむまれて无量劫楽をうくることきわまりなし。 このむねをふかく信じたまふて、 二心なく御念仏を申させたまふべきものなり。
◇くはしきことは、 御ふみにまふして候うへ、 この御使申あげ候べし。 あなかしこ、 あなかしこ。
南无阿弥陀仏
大子女房御返事
僧源空
*建長 乙卯 五月廿三日書之
底本は高田派専修寺蔵親鸞聖人真筆。 ただし訓(ルビ)は一部有国が補完している。
底本は高田派専修寺蔵真仏上人書写。 ただし訓(ルビ)は一部有国が補完している。