一五(992)、上野大胡太郎実秀への御返事
▲上野のくにの住人おほごの太郎と申もの、 京へまかりのぼりたるついでに、 法然聖人にあひたてまつりて、 念仏のしさいとひたてまつりて、 本国へくだりて念仏をつとむるに、 ある人申ていはく、 いかなる罪をつくれども、 念仏を申せば往生す、 一向専修なるべしといふとも、 ときどきは ¬法華経¼ おもよみたてまつり、 また念仏申さむもなにかはくるしからむと申ければ、 まことにさるかたもありとて、 法然聖人の御もとへ、 消息にてこのよしをいかゞと申たりける御返事、 かくのごとし。 件の太郎は、 このすゝめによりて、 めおとこ、 ともに往生してけり。
○聖0993人の御返事。
◇さきの便にさしあふ事候て、 御ふみをだにみとき候ざりしかば、 御返事こまかに申さず、 さだめておぼつかなくおぼしめし候覧と、 おそれおもふたまへ候。
◇さてはたづねおほせられて候ことゞもは、 御ふみなどにて、 たやすく申ひらくべきことにても候はず。 あはれまことに京にひさしく御とうりう候し時、 よし水の坊にて、 こまかに御さたありせばよく候なまし。
◇おほかたは念仏して往生すと申ことばかりおば、 わづかにうけたまはりて、 わがこゝろひとつにふかく信じたるばかりにてこそ候へども、 人までつばひらかに申きかせなどするほどの身にては候はねば、 ましていりたちたることゞも、 不審など、 御ふみに申ひらくべしともおぼえ候はねども、 わづかにうけたまはりおよびて候はむほどの事を、 はゞかりまいらせて、 すべてともかくも御返事を申さざらむことのくちおしく候へば、 こゝろのおよび候はむほどのことは、 かたのごとく申さむとおもひ候也。
◇まづ三心具足して往生すと申事は、 まことにその名目 ナトイフ ばかりをうちきくおりは、 いかなるこゝろを申やらむと、 ことごとしくおぼえ候ぬべけれども、 善導の御こゝろにては、 こゝろえやすき事にて候なり。 もしならひさたせざらむ無智の人0994、 さとりなからむ女人などは、 え具せぬほどのこゝろばえにては候はぬなり。 まめやかに往生せむとおもひて念仏申さむ人は、 自然に具足しぬべきこゝろにて候ものを。
◇そのゆへは、 三心と申は、 ¬観无量寿経¼ にとかれて候やうは、 「もし衆生あて、 かのくにゝむまれむとねがはむものは、 三種の心をおこしてすなはち往生すべし。 なにおか三とする。 一には至誠心、 二には深心、 三には廻向発願心なり。 三心を具せるもの、 かならずかのくににむまる」 ととかれたり。
◇しかるに善導和尚の御こゝろによらば、 はじめの至誠心といふは真実心なり。 真実といふは、 うちにはむなしくして、 外にはかざるこゝろなきを申也。 すなわち、 ¬観无量寿経¼ を釈してのたまはく、 「外に賢善精進の相を現じて、 内には虚仮をいだく事なかれ」 (散善義) と。
◇この釈のこゝろは、 内にはおろかにして、 外にはかしこき人とおもはれむとふるまひ、 内には悪をつくりて、 外には善人のよしをしめし、 内には懈怠にして、 外には精進の相を現ずるを、 実ならぬこゝろとは申也。 内にも外にもたゞあるまゝにてかざるこゝろなきを、 至誠心とはなづけたるにこそ候めれ。
◇二には深心とは、 すなわちふかく信ずるこゝろなり。 なに事をふかく信ずるぞといふに、 もろもろの煩悩を具足して、 おほくのつみをつくりて、 余の善0995根なからむ凡夫、 阿弥陀仏の大悲の願をあふぎて、 そのほとけの名号をとなえて、 もしは百年にても、 もしは四、 五十年にても、 もしは十、 廿年乃至一、 二年、 すべておもひはじめたらむより臨終の時にいたるまで退せざらむ。 もしは七日・一日、 十声・一声にても、 おほくもすくなくも、 称名念仏の人は決定して往生すと信じて、 乃至一念もうたがふ事なきを、 深心と也。
◇しかるにもろもろの往生をねがふ人も、 本願の名号おばたもちながら、 なほ内に妄念のおこるにもおそれ、 外に余善のすくなきによりて、 ひとへにわがみをかろめて往生を不定におもふは、 すでに仏の本願をうたがふなり。
◇されば善導は、 はるかに未来の行者のこのうたがひをのこさむ事をかゞみて、 うたがひをのぞきて決定心をすゝめむがために、 煩悩を具してつみをつくりて、 善根すくなくさとりなからむ凡夫、 一声までの念仏、 決定して往生すべきことわりを、 こまかに釈してのたまへるなり。
◇「たとひおほくの仏、 そらの中にみちみちて、 ひかりをはなち御したをのべて、 つみをつくれる凡夫、 念仏して往生すといふ事はひがごとなり、 信ずべからずとのたまふとも、 それによりて一念もおどろきうたがふこゝろあるべからず。
◇そのゆへは、 阿弥陀仏いまだ仏になりたまはざりしむかし、 もしわれ仏になりたら0996むに、 わが名号をとなふる事、 十声・一声までせむもの、 わがくににむまれずは、 われ仏にならじとちかひたまひたりしその願むなしからずして、 すでに仏になりたまへり。 しるべし、 その名号をとなえむ人は、 かならず往生すべしといふことを。
○また釈迦仏、 この娑婆世界にいでゝ、 一切衆生のために、 かの阿弥陀仏の本願をとき、 念仏往生をすゝめたまへり。 ◇また六方の諸仏は、 その説を証誠したまへり。
○このほかにいづれの仏の、 またこれらの諸仏にたがひて、 凡夫往生せずとはのたまふべきぞといふことわりをもて、 仏現じてのたまふとも、 それにおどろきて、 信心をやぶりうたがひをいたす事あるべからず。 いはむや、 仏たちのゝたまはむおや。 いはむおや、 辟支仏等をや」 と、 こまごまと釈したまひて候也。
◇いかにいはむや、 このごろの凡夫のいひさまたげむおや。 いかにめでたき人と申とも、 善導和尚にまさりて往生のみちをしりたらむ事もかたく候。
◇善導またたゞの凡夫にあらず、 すなわち阿弥陀仏の化身なり。 かの仏わが本願をひろめて、 ひろく衆生に往生せさせむれうに、 かりに人とむまれて善導とは申なり。 そのおしえ申せば仏説にてこそ候へ。
◇いかにいはむや、 垂跡のかたにても現身に三昧をえて、 まのあたり浄土の荘厳おもみ、 仏にむかひたてまつりて、 たゞちに仏0997のおしへをうけたまはりてのたまへることばどもなり。 本地をおもふにも垂跡をたづぬるにも、 かたがたあふぎて信ずべきおしえなり。
◇しかれば、 たれだれも煩悩のうすくこきおもかへりみず、 罪障のかろきおもきおもさたせず、 たゞくちにて南无阿弥陀仏ととなえば、 こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし。 決定心をすなわち深心となづく。 その信心を具しぬれば、 決定して往生するなり。
◇詮ずるところは、 たゞとにもかくにも、 念仏して往生すといふ事をうたがはぬを、 深心とはなづけて候なり。
◇三には廻向発願心と申は、 これ別のこゝろにては候はず、 わが所修の行を、 一向に廻向して往生をねがふこゝろなり。
◇「かくのごとく三心を具足してかならず往生す。 このこゝろひとへにかけぬれば往生せず」 (礼讃意) と、 善導は釈したまへるなり。
◇たとひまことのこゝろありて、 うへをかざらずとも、 仏の本願をうたがはゞ、 深心フカクシかけンズルコたるヽロトイこゝフナリ ろなり。 たとひうたがふこゝろなくとも、 うへをかざりて、 うちにまことにおもふこゝろなくは、 至誠心かけたるこゝろなるべし。 たとひまたこのふたつのこゝろを具して、 かざりごゝろもなく、 うたがふこゝろもなくとも、 極楽に往生せむとねがふこゝろなくは、 廻向発願心すくなかるべし。
◇また三心とわかつおりは、 かくのごとく別別になる0998やうなれども、 詮ずるところは、 真実のこゝろをおこして、 ふかく本願を信じて往生をねがはむこゝろを、 三心具足のこゝろとは申べき也。 まことにこれほどのこゝろをだにも具せずしては、 いかゞ往生ほどの大事おばとげ候べき。
◇このこゝろを申せば、 またやすきことにて候ぞかし。 これをかやうにこゝろえしらねばとて、 三心具せぬにては候はぬなり。 そのなをだにもしらぬものも、 このこゝろおばそなえつべく、 またよくよくしりたらむ人の中にも、 そのまゝに具せぬも候ぬべきこゝろにて候なり。
◇さればこそいふかひなき人のなかよりも、 たゞひとへに念仏申ばかりにては往生したりといふことは、 むかしより申つたえたることにて候へ。 それはみなしらねども、 三心を具したる人にてありけりと、 こゝろうる事にて候なり。
◇またとしごろ念仏申たる人の、 臨終わるきことの候は、 さきに申つるやうに、 うへばかりをかざりて、 たうとき念仏者など人にいはれむとのみおもひて、 したにはふかく本願おも信ぜず、 まめやかに往生おもねがわぬ人にてこそは候らめとこそは、 こゝろえられ候へ。
◇さればこの三心を具せぬゆへに、 臨終もわるく、 往生もえせぬとは申候也。 かく申候へば、 さては往生は大事にこそあむなれと、 おぼ0999しめす事ゆめゆめ候まじ。 一定往生すべきぞとおもひとらぬこゝろを、 やがて深心かけて往生せぬこゝろとは申候へば、 いよいよ一定とこそおぼしめすべき事にて候へ。
◇まめやかに往生のこゝろざしありて、 弥陀の本願うたがはずして、 念仏申さむ人は、 臨終わるきことはおほかた候まじきなり。 そのゆへは、 仏の来迎したまふ事は、 もとより行者の臨終正念のためにて候なり。 それをこゝろえぬ人は、 みなわが臨終正念にて念仏申たらむおりに、 仏はむかへたまふべきとのみこゝろえて候ば、 仏の願おも信ぜず、 経の文おもこゝろえぬにて候なり。
◇¬称讃浄土経¼ には、 「慈悲をもてくわえたすけて、 こゝろをしてみだらしめたまはず」 ととかれて候也。 たゞの時によくよく申おきたる念仏によりて、 臨終にかならず仏来迎しキタリムカフたまふ。 仏のきたり現じたまへるをみたてまつりて、 正念には住すと申しつたえて候なり。
◇しかるにさきの念仏おば、 むなしくおもひなして、 よしなき臨終正念おのみいのる人などの候は、 ゆゝしきひがゐむにいりたることにて候なり。 されば仏の願を信ぜむ人は、 かねて臨終うたがふこゝろあるべからずとこそはおぼへ候へ。
◇たゞたうじより申さむ念仏おぞ、 いよいよもこゝろをいたして申候べき。 いつかは仏の願にも、 臨終の時念仏申たらむ人おのみむかへむとは1000たてたまひて候。
◇臨終の念仏にて往生をすと申ことは、 往生おもねがはず、 念仏おも申さずして、 ひとへにつみをのみつくりたる悪人の、 すでにしなむとする時に、 はじめて善知識のすゝめにあひて、 念仏して往生すとこそ、 ¬観経¼ にもとかれて候へ。
◇もとよりの行者、 臨終のさたはあながちにすべきやうも候はぬなり。 仏の来迎一定ならば、 臨終正念はまた一定とおぼしめすべきなり。 この御こゝろをえて、 よくよく御こゝろをとゞめて、 こゝろえさせたまふべきことにて候なり。
◇またつみをつくりたる人だにも念仏して往生す、 まして ¬法華経¼ などよみて、 また念仏申さむは、 などかはあしかるべきと人々の申候らむことは、 京へむにもさやうに申候人々おほく候へば、 まことにさぞ候らむ。 これは余の宗のこゝろにてこそは候はめ。 よしあしをさだめ申候べきことに候はず。 ひがごとゝ申候はゞ、 おそれあるかたもおほく候。
◇たゞし浄土宗のこゝろ、 善導の御釈には、 往生の行をおほきにわかちて二とす。 一には正行、 二には雑行也。
◇はじめの正行といふは、 それにまたあまたの行あり。 はじめに読誦の正行、 これは ¬大无量寿経¼・¬観无量寿経¼・¬阿弥陀経¼ 等の 「三部経」 をよむなり。 つぎに観察正行、 こ1001れは極楽の依正二報のありさまを観ずるなり。 つぎに礼拝正行、 これも阿弥陀仏を礼拝するなり。 つぎに称名正行、 これは南无阿弥陀仏ととなふるなり。 つぎに讃嘆供養正行、 これは阿弥陀仏を讃嘆供養したてまつるなり。 これをさして五種の正行となづく。 讃嘆と供養とを二にわかつには、 六種の正行とも申なり。
◇また 「この正行につきてふさねて二種とす。 一には一心にもはら弥陀の名号をとなえて、 たちゐ・おきふし、 よるひる、 わするゝことなく、 念念にすてざるを、 正定の業となづく、 かの仏の願によるがゆへに」 (散善義意) と申て、 念仏をもてまさしきさだめたる往生の業にたてて、 「もし礼誦等によるおばなづけて助業とす」 (散善義) と申て、 念仏のほかの礼拝や読誦や観察や讃嘆供養などおば、 かの念仏者をたすくる業と申候なり。
◇さてこの正定の業と助業とをのぞきて、 そのほかの諸行おば、 布施・持戒・忍辱・精進等の六度万行も、 ¬法華経¼ おもよみ、 真言おもおこなひ、 かくのごとくの諸行おば、 みなことごとく雑行となづく。 さきの正行を修するおば、 専修の行者といふ。 のちの雑行を修するを、 雑修の行者と申也。
◇この二行の得失を判ずるに、 「さきの正行を修するには、 こゝろつねにかのくにに親近してシタシクチカヅク憶念ひまなし。 のちの雑行を行ずるには、 こゝろつ1002ねに間断す、 ヘダテタフルナリ廻向してむまるゝことをうべしといゑども、 疎ウト雑の行クマジワルト となづく」 (散善義意) といひて、 極楽にはうとき行とたてたり。
◇また 「専修のものは、 十人は十人ながらむまれ、 百人は百人ながらむまる。 なにをもてのゆへに。 外ホカのナリ雑縁なし、 正念をうるがゆへに、 弥陀の本願と相応するがゆへに、 釈迦のおしえにしたがふがゆへに、 恒沙の諸仏のみことにしたがふがゆへに。
◇雑修のものは、 百人に一二人、 千人に四五人むまる。 なにをもてのゆへに。 雑縁乱動す、 ミダリオゴカスナリ正念をうしなふがゆへに、 弥陀の本願に相応せざるがゆへに、 釈迦のおしへにしたがはざるがゆへに、 諸仏のみことにたしがはざるがゆへに、 繋念相続せざるがゆへに、 憶想間断するがゆへに、 名利と相応するがゆへに、 自障ワガコヽロヲサヘ障他ヒトヲサフルするがゆへに、 このみて雑縁にちかづきて往生の正行をさふるがゆへに」 (礼讃意) と釈せられて候めれば、 善導和尚をふかく信じて、 浄土宗にいらむ人は、 一向に正行を修すべしと申事にてこそ候へ。
◇そのうへに善導のおしえをそむきて、 よの行を修せむとおもはむ人は、 おのおのならひたるやうどもこそ候らめ。 それをよしあしとはいかゞ申候べき。 善導の御こゝろにて、 すゝめたまへる行どもをおきながら、 すゝめたまはざる行をすこしにてもくはふべきやうなしと申ことにて候なり。 すゝめたまひつる1003正行ばかりをだにもなほものうきみに、 いまだすゝめたまはぬ雑行をくはへん事は、 まことしからぬかたも候ぞかし。
◇またつみをつくりたる人だにも往生すれば、 まして善なれば、 なにかくるしからむと申候らむこそ、 むげにけきたなくおぼえ候へ。 往生おもたすけ候はゞこそは、 いみじくも候はめ。 さまたげになりならぬばかりを、 いみじき事にてくはえおこなはむこと、 なにかせむにて候べき。
◇悪をば、 されば仏の御こゝろに、 このつみつくれとやはすゝめさせたまふ。 かまえてとゞめよとこそはいましめたまへども、 凡夫のならひ、 当時のまどひにひかれて、 悪をつくるちからおよばぬ事にてこそ候へ。 まことに悪をつくる人のやうに、 しかるべくて経をよみたく、 余の行おもくはへたからむは、 ちからおよばず候。
◇たゞし ¬法華経¼ などよまむことを、 一言もヒトコトバ 悪をつくらむことにいひくらべて、 それもくるしからねば、 ましてこれもなど申候はむこそ、 不便のことにて候へ。 ふかきみのりもあしくこゝろうる人にあひぬれば、 かへりてものならずきこえ候こそ、 あさましく候へ。
◇これをかやうに申候おば、 余行の人々はらたつことにて候に、 御こゝろひとつにこゝろえて、 ひろくちらさせたまふまじく候。 あらぬさとりの人々のともかくも申候はむ事おば、 1004きゝいれさせたまはで、 たゞひとすぢに善導の御すゝめにしたがひて、 いますこしも一定往生する念仏のかずを申あはむとおぼしめすべく候。
◇たとひ往生のさわりとこそならずとも、 不定往生とはきこえて候めれば、 一定往生の行を修すべし。 いとまをいれて、 不定往生の業をくわえむ事は、 損にて候はずや。 よくよくこゝろうべき事にて候なり。
◇たゞし、 かく申候へば、 雑行をくわえむ人、 ながく往生すまじと申にては候はず。 いかさまにも余の行人なりとも、 すべて人をくだし人をそしる事は、 ゆゝしきとがおもきことにて候なり。 よくよく御つゝしみ候て、 雑行の人なればとて、 あなづる御こゝろ候まじ。 よかれあしかれ、 人のうえの善悪をおもひいれぬがよきことにて候也。
◇またもとよりこゝろざしこの門にありて、 すゝむべからむ人おば、 こしらへ、 すゝめたまふべく候。 さとりたがひ、 あらぬさまならむ人などに論じあふ事は、 ゆめゆめあるまじき事にて候なり。
◇よくよくならひしりたまひたるひじりだにも、 さやうの事おばつゝしみておはしましあひて候ぞ。 ましてとのばらなどの御身にては、 一定ひが事にて候はむずるに候。
◇たゞ御身ひとつに、 まづよくよく往生をもねがひ、 念仏おもはげませたまひて、 くらゐたかく往生して、 いそぎかへりきたりて、 人おもみちびか1005むとおぼしめすべく候。 かやうにこまかにかきつづけて申候へども、 返々はゞかりおもひて候なり。 あなかしこ、 あなかしこ。
◇御ひろうあるまじく候。 御らむじこゝろえさせたまひてのちには、 とくとくひきやらせたまふべく候。 あなかしこ、 あなかしこ。
◇三月十四日
源空 ▽