一五(992)、上野大胡太郎実秀への御返事

上野かうづけのくにの住人ぢゆにんおほごのらうまふすもの、 きやうへまかりのぼりたるついでに、 法然ほふねんしやうにんにあひたてまつりて、 念仏ねむぶちのしさいとひたてまつりて、 本国ほんごくへくだりて念仏ねむぶちをつとむるに、 あるひとまふしていはく、 いかなるつみをつくれども、 念仏ねむぶちまふせばわうじやうす、 一向ゐちかう専修せんじゆなるべしといふとも、 ときどきは ¬法華ほふくゑきやう¼ おもよみたてまつり、 また念仏ねむぶちまふさむもなにかはくるしからむとまふしければ、 まことにさるかたもありとて、 法然ほふねんしやうにんおむもとへ、 消息せうそくにてこのよしをいかゞとまふしたりけるおむかへりごと、 かくのごとし。 くだんらうは、 このすゝめによりて、 めおとこ、 ともにわうじやうしてけり。

しやう0993にんおむかへりごと

さきの便びんにさしあふことさふらひて、 おむふみをだにみときさふらはざりしかば、 おむかへりごとこまかにまふさず、 さだめておぼつかなくおぼしめしさふらふらむと、 おそれおもふたまへさふらふ

さてはたづねおほせられてさふらふことゞもは、 おむふみなどにて、 たやすくまふしひらくべきことにてもさふらはず。 あはれまことにきやうにひさしくとうりうさふらひとき、 よしみづばうにて、 こまかにさたありせばよくさふらふなまし。

おほかたは念仏ねむぶちしてわうじやうすとまふすことばかりおば、 わづかにうけたまはりて、 わがこゝろひとつにふかくしんじたるばかりにてこそさふらへども、 ひとまでつばひらかにまふしきかせなどするほどのにてはさふらはねば、 ましていりたちたることゞも、 しむなど、 おむふみにまふしひらくべしともおぼえさふらはねども、 わづかにうけたまはりおよびてさふらはむほどのことを、 はゞかりまいらせて、 すべてともかくもおむかへりごとまふさざらむことのくちおしくさふらへば、 こゝろのおよびさふらはむほどのことは、 かたのごとくまふさむとおもひさふらふなり

まづ三心さんしむそくしてわうじやうすとまふすことは、 まことにそのみやうもく ナトイフ ばかりをうちきくおりは、 いかなるこゝろをまふすやらむと、 ことごとしくおぼえさふらひぬべけれども、 善導ぜんだうおむこゝろにては、 こゝろえやすきことにてさふらふなり。 もしならひさたせざらむ無智むちひと0994、 さとりなからむ女人によにんなどは、 えせぬほどのこゝろばえにてはさふらはぬなり。 まめやかにわうじやうせむとおもひて念仏ねむぶちまふさむひとは、 ねんそくしぬべきこゝろにてさふらふものを。

そのゆへは、 三心さんしむまふすは、 ¬くわんりやう寿じゆきやう¼ にとかれてさふらふやうは、 「もししゆじやうあて、 かのくにゝむまれむとねがはむものは、 三種さんしゆしむをおこしてすなはちわうじやうすべし。 なにおかみつとする。 ひとつにはじやうしむふたつには深心じむしむみつにはかうほちぐわんしむなり。 三心さんしむせるもの、 かならずかのくににむまる」 ととかれたり。

しかるに善導ぜんだうくわしやうおむこゝろによらば、 はじめのじやうしむといふは真実しんじちしむなり。 真実しんじちといふは、 うちにはむなしくして、 ほかにはかざるこゝろなきをまふすなり。 すなわち、 ¬くわんりやう寿じゆきやう¼ をしやくしてのたまはく、 「ほか賢善けんぜんしやうじんさうげんじて、 うちには虚仮こけをいだくことなかれ」 (散善義) と。

このしやくのこゝろは、 うちにはおろかにして、 ほかにはかしこきひととおもはれむとふるまひ、 うちにはあくをつくりて、 ほかには善人ぜんにんのよしをしめし、 うちにはだいにして、 ほかにはしやうじんさうげんずるを、 じちならぬこゝろとはまふすなりうちにもほかにもたゞあるまゝにてかざるこゝろなきを、 じやうしむとはなづけたるにこそさふらふめれ。

ふたつには深心じむしむとは、 すなわちふかくしんずるこゝろなり。 なにごとをふかくしんずるぞといふに、 もろもろの煩悩ぼむなうそくして、 おほくのつみをつくりて、 ぜん0995ごんなからむぼむ弥陀みだぶちだいぐわんをあふぎて、 そのほとけのみやうがうをとなえて、 もしはひやくねんにても、 もしはじふねんにても、 もしはじふ廿にじふねんないゐちねん、 すべておもひはじめたらむより臨終りむじゆときにいたるまで退たいせざらむ。 もしは七日しちにち一日ゐちにちじふしやうゐちしやうにても、 おほくもすくなくも、 称名しようみやう念仏ねむぶちひと決定くゑちぢやうしてわうじやうすとしんじて、 ない一念ゐちねむもうたがふことなきを、 深心じむしむなり

しかるにもろもろのわうじやうをねがふひとも、 ほんぐわんみやうがうおばたもちながら、 なほうち妄念まうねむのおこるにもおそれ、 ほかぜんのすくなきによりて、 ひとへにわがみをかろめてわうじやうぢやうにおもふは、 すでにほとけほんぐわんをうたがふなり。

されば善導ぜんだうは、 はるかにらいぎやうじやのこのうたがひをのこさむことをかゞみて、 うたがひをのぞきて決定くゑちぢやうしむをすゝめむがために、 煩悩ぼむなうしてつみをつくりて、 善根ぜんごんすくなくさとりなからむぼむゐちしやうまでの念仏ねむぶち決定くゑちぢやうしてわうじやうすべきことわりを、 こまかにしやくしてのたまへるなり。

「たとひおほくのほとけ、 そらのなかにみちみちて、 ひかりをはなちしたをのべて、 つみをつくれるぼむ念仏ねむぶちしてわうじやうすといふことはひがごとなり、 しんずべからずとのたまふとも、 それによりて一念ゐちねむもおどろきうたがふこゝろあるべからず。

そのゆへは、 弥陀みだぶちいまだほとけになりたまはざりしむかし、 もしわれほとけになりたら0996むに、 わがみやうがうをとなふることじふしやうゐちしやうまでせむもの、 わがくににむまれずは、 われほとけにならじとちかひたまひたりしそのぐわんむなしからずして、 すでにほとけになりたまへり。 しるべし、 そのみやうがうをとなえむひとは、 かならずわうじやうすべしといふことを。

またしやぶち、 このしやかいにいでゝ、 一切ゐちさいしゆじやうのために、 かの弥陀みだぶちほんぐわんをとき、 念仏ねむぶちわうじやうをすゝめたまへり。 また六方ろくぱう諸仏しよぶちは、 そのせち証誠しようじやうしたまへり。

このほかにいづれのほとけの、 またこれらの諸仏しよぶちにたがひて、 ぼむわうじやうせずとはのたまふべきぞといふことわりをもて、 ほとけげんじてのたまふとも、 それにおどろきて、 信心しんじむをやぶりうたがひをいたすことあるべからず。 いはむや、 ほとけたちのゝたまはむおや。 いはむおや、 びやくぶちとうをや」 と、 こまごまとしやくしたまひてさふらふなり

いかにいはむや、 このごろのぼむのいひさまたげむおや。 いかにめでたきひとまふすとも、 善導ぜんだうくわしやうにまさりてわうじやうのみちをしりたらむこともかたくさふらふ

善導ぜんだうまたたゞのぼむにあらず、 すなわち弥陀みだぶち化身くゑしんなり。 かのほとけわがほんぐわんをひろめて、 ひろくしゆじやうわうじやうせさせむれうに、 かりにひととむまれて善導ぜんだうとはまふすなり。 そのおしえまふせば仏説ぶちせちにてこそさふらへ。

いかにいはむや、 すいしやくのかたにても現身げんしん三昧さんまいをえて、 まのあたりじやうしやうごむおもみ、 ほとけにむかひたてまつりて、 たゞちにほとけ0997のおしへをうけたまはりてのたまへることばどもなり。 ほんをおもふにもすいしやくをたづぬるにも、 かたがたあふぎてしんずべきおしえなり。

しかれば、 たれだれも煩悩ぼむなうのうすくこきおもかへりみず、 ざいしやうのかろきおもきおもさたせず、 たゞくちにて南无なも弥陀みだぶちととなえば、 こゑにつきて決定くゑちぢやうわうじやうのおもひをなすべし。 決定くゑちぢやうしむをすなわち深心じむしむとなづく。 その信心しんじむしぬれば、 決定くゑちぢやうしてわうじやうするなり。

せむずるところは、 たゞとにもかくにも、 念仏ねむぶちしてわうじやうすといふことをうたがはぬを、 深心じむしむとはなづけてさふらふなり。

みつにはかうほちぐわんしむまふすは、 これべちのこゝろにてはさふらはず、 わが所修しよしゆぎやうを、 一向ゐちかうかうしてわうじやうをねがふこゝろなり。

「かくのごとく三心さんしむそくしてかならずわうじやうす。 このこゝろひとへにかけぬればわうじやうせず」 (礼讃意) と、 善導ぜんだうしやくしたまへるなり。

たとひまことのこゝろありて、 うへをかざらずとも、 ほとけほんぐわんをうたがはゞ、 深心じむしむフカクシかけンズルコたるヽロトイこゝフナリ ろなり。 たとひうたがふこゝろなくとも、 うへをかざりて、 うちにまことにおもふこゝろなくは、 じやうしむかけたるこゝろなるべし。 たとひまたこのふたつのこゝろをして、 かざりごゝろもなく、 うたがふこゝろもなくとも、 極楽ごくらくわうじやうせむとねがふこゝろなくは、 かうほちぐわんしむすくなかるべし。

また三心さんしむとわかつおりは、 かくのごとく別別べちべちになる0998やうなれども、 せむずるところは、 真実しんじちのこゝろをおこして、 ふかくほんぐわんしんじてわうじやうをねがはむこゝろを、 三心さんしむそくのこゝろとはまふすべきなり。 まことにこれほどのこゝろをだにもせずしては、 いかゞわうじやうほどのだいおばとげさふらふべき。

このこゝろをまふせば、 またやすきことにてさふらふぞかし。 これをかやうにこゝろえしらねばとて、 三心さんしむせぬにてはさふらはぬなり。 そのなをだにもしらぬものも、 このこゝろおばそなえつべく、 またよくよくしりたらむひとなかにも、 そのまゝにせぬもさふらひぬべきこゝろにてさふらふなり。

さればこそいふかひなきひとのなかよりも、 たゞひとへに念仏ねむぶちまふすばかりにてはわうじやうしたりといふことは、 むかしよりまふしつたえたることにてさふらへ。 それはみなしらねども、 三心さんしむしたるひとにてありけりと、 こゝろうることにてさふらふなり。

またとしごろ念仏ねむぶちまふしたるひとの、 臨終りむじゆわるきことのさふらふは、 さきにまふしつるやうに、 うへばかりをかざりて、 たうとき念仏ねむぶちしやなどひとにいはれむとのみおもひて、 したにはふかくほんぐわんおもしんぜず、 まめやかにわうじやうおもねがわぬひとにてこそはさふらふらめとこそは、 こゝろえられさふらへ。

さればこの三心さんしむせぬゆへに、 臨終りむじゆもわるく、 わうじやうもえせぬとはまふしさふらふなり。 かくまふしさふらへば、 さてはわうじやうだいにこそあむなれと、 おぼ0999しめすことゆめゆめさふらふまじ。 ゐちぢやうわうじやうすべきぞとおもひとらぬこゝろを、 やがて深心じむしむかけてわうじやうせぬこゝろとはまふしさふらへば、 いよいよゐちぢやうとこそおぼしめすべきことにてさふらへ。

まめやかにわうじやうのこゝろざしありて、 弥陀みだほんぐわんうたがはずして、 念仏ねむぶちまふさむひとは、 臨終りむじゆわるきことはおほかたさふらふまじきなり。 そのゆへは、 ほとけ来迎らいかうしたまふことは、 もとよりぎやうじや臨終りむじゆしやうねむのためにてさふらふなり。 それをこゝろえぬひとは、 みなわが臨終りむじゆしやうねむにて念仏ねむぶちまふしたらむおりに、 ほとけはむかへたまふべきとのみこゝろえてさふらはば、 ほとけぐわんおもしんぜず、 きやうもんおもこゝろえぬにてさふらふなり。

¬しようさんじやうきやう¼ には、 「慈悲じひをもてくわえたすけて、 こゝろをしてみだらしめたまはず」 ととかれてさふらふなり。 たゞのときによくよくまふしおきたる念仏ねむぶちによりて、 臨終りむじゆにかならずほとけ来迎らいかうキタリムカフたまふ。 ほとけのきたりげんじたまへるをみたてまつりて、 しやうねむにはぢゆすとまふしつたえてさふらふなり。

しかるにさきの念仏ねむぶちおば、 むなしくおもひなして、 よしなき臨終りむじゆしやうねむおのみいのるひとなどのさふらふは、 ゆゝしきひがゐむにいりたることにてさふらふなり。 さればほとけぐわんしんぜむひとは、 かねて臨終りむじゆうたがふこゝろあるべからずとこそはおぼへさふらへ。

たゞたうじよりまふさむ念仏ねむぶちおぞ、 いよいよもこゝろをいたしてまふしさふらふべき。 いつかはほとけぐわんにも、 臨終りむじゆとき念仏ねむぶちまふしたらむひとおのみむかへむとは1000たてたまひてさふらふ

臨終りむじゆ念仏ねむぶちにてわうじやうをすとまふすことは、 わうじやうおもねがはず、 念仏ねむぶちおもまふさずして、 ひとへにつみをのみつくりたる悪人あくにんの、 すでにしなむとするときに、 はじめてぜんしきのすゝめにあひて、 念仏ねむぶちしてわうじやうすとこそ、 ¬観経くわんぎやう¼ にもとかれてさふらへ。

もとよりのぎやうじや臨終りむじゆのさたはあながちにすべきやうもさふらはぬなり。 ほとけ来迎らいかうゐちぢやうならば、 臨終りむじゆしやうねむはまたゐちぢやうとおぼしめすべきなり。 このおむこゝろをえて、 よくよくおむこゝろをとゞめて、 こゝろえさせたまふべきことにてさふらふなり。

またつみをつくりたるひとだにも念仏ねむぶちしてわうじやうす、 まして ¬法華ほふくゑきやう¼ などよみて、 また念仏ねむぶちまふさむは、 などかはあしかるべきと人々ひとびとまふしさふらふらむことは、 きやうへむにもさやうにまふしさふらふ人々ひとびとおほくさふらへば、 まことにさぞさふらふらむ。 これはしゆのこゝろにてこそはさふらはめ。 よしあしをさだめまふしさふらふべきことにさふらはず。 ひがごとゝまふしさふらはゞ、 おそれあるかたもおほくさふらふ

たゞしじやうしゆのこゝろ、 善導ぜんだうおむしやくには、 わうじやうぎやうをおほきにわかちてふたつとす。 ひとつには正行しやうぎやうふたつにはざふぎやうなり

はじめの正行しやうぎやうといふは、 それにまたあまたのぎやうあり。 はじめに読誦どくじゆ正行しやうぎやう、 これは ¬だいりやう寿じゆきやう¼・¬くわんりやう寿じゆきやう¼・¬弥陀みだきやう¼ とうの 「さんきやう」 をよむなり。 つぎにくわんざち正行しやうぎやう、 こ1001れは極楽ごくらくしやうほうのありさまをくわんずるなり。 つぎに礼拝らいはい正行しやうぎやう、 これも弥陀みだぶち礼拝らいはいするなり。 つぎに称名しようみやう正行しやうぎやう、 これは南无なも弥陀みだぶちととなふるなり。 つぎに讃嘆さんだんやう正行しやうぎやう、 これは弥陀みだぶち讃嘆さんだんやうしたてまつるなり。 これをさしてしゆ正行しやうぎやうとなづく。 讃嘆さんだんやうとをふたつにわかつには、 六種ろくしゆ正行しやうぎやうともまふすなり。

また 「この正行しやうぎやうにつきてふさねてしゆとす。 ひとつには一心ゐちしむにもはら弥陀みだみやうがうをとなえて、 たちゐ・おきふし、 よるひる、 わするゝことなく、 念念ねむねむにすてざるを、 正定しやうぢやうごふとなづく、 かのほとけぐわんによるがゆへに」 (散善義意)まふして、 念仏ねむぶちをもてまさしきさだめたるわうじやうごふにたてて、 「もし礼誦らいじゆとうによるおばなづけて助業じよごふとす」 (散善義)まふして、 念仏ねむぶちのほかの礼拝らいはい読誦どくじゆくわんざち讃嘆さんだんやうなどおば、 かの念仏ねむぶちしやをたすくるごふまふしさふらふなり。

さてこの正定しやうぢやうごふ助業じよごふとをのぞきて、 そのほかのしよぎやうおば、 布施ふせかい忍辱にんにくしやうじんとうろくまんぎやうも、 ¬法華ほふくゑきやう¼ おもよみ、 真言しんごんおもおこなひ、 かくのごとくのしよぎやうおば、 みなことごとくざふぎやうとなづく。 さきの正行しやうぎやうしゆするおば、 専修せんじゆぎやうじやといふ。 のちのざふぎやうしゆするを、 雑修ざふしゆぎやうじやまふすなり

このぎやう得失とくしちはんずるに、 「さきの正行しやうぎやうしゆするには、 こゝろつねにかのくにに親近しんごんしてシタシクチカヅク憶念おくねむひまなし。 のちのざふぎやうぎやうずるには、 こゝろつ1002ねに間断けんだんす、 ヘダテタフルナリかうしてむまるゝことをうべしといゑども、 ウトざふぎやうクマジワルト となづく」 (散善義意) といひて、 極楽ごくらくにはうときぎやうとたてたり。

また 「専修せんじゆのものは、 十人じふにん十人じふにんながらむまれ、 ひやくにんひやくにんながらむまる。 なにをもてのゆへに。 ぐゑホカナリ雑縁ざふえんなし、 しやうねむをうるがゆへに、 弥陀みだほんぐわん相応さうおうするがゆへに、 しやのおしえにしたがふがゆへに、 恒沙ごうじや諸仏しよぶちのみことにしたがふがゆへに。

雑修ざふしゆのものは、 ひやくにんゐちにん千人せんにん四五しごにんむまる。 なにをもてのゆへに。 雑縁ざふえん乱動らんどうす、 ミダリオゴカスナリしやうねむをうしなふがゆへに、 弥陀みだほんぐわん相応さうおうせざるがゆへに、 しやのおしへにしたがはざるがゆへに、 諸仏しよぶちのみことにたしがはざるがゆへに、 ねむ相続さうぞくせざるがゆへに、 憶想おくさう間断けんだんするがゆへに、 みやう相応さうおうするがゆへに、 しやうワガコヽロヲサヘしやうヒトヲサフルするがゆへに、 このみて雑縁ざふえんにちかづきてわうじやう正行しやうぎやうをさふるがゆへに」 (礼讃意)しやくせられてさふらふめれば、 善導ぜんだうくわしやうをふかくしんじて、 じやうしゆにいらむひとは、 一向ゐちかう正行しやうぎやうしゆすべしとまふすことにてこそさふらへ。

そのうへに善導ぜんだうのおしえをそむきて、 よのぎやうしゆせむとおもはむひとは、 おのおのならひたるやうどもこそさふらふらめ。 それをよしあしとはいかゞまふしさふらふべき。 善導ぜんだうおむこゝろにて、 すゝめたまへるぎやうどもをおきながら、 すゝめたまはざるぎやうをすこしにてもくはふべきやうなしとまふすことにてさふらふなり。 すゝめたまひつる1003正行しやうぎやうばかりをだにもなほものうきみに、 いまだすゝめたまはぬざふぎやうをくはへんことは、 まことしからぬかたもさふらふぞかし。

またつみをつくりたるひとだにもわうじやうすれば、 ましてぜんなれば、 なにかくるしからむとまふしさふらふらむこそ、 むげにけきたなくおぼえさふらへ。 わうじやうおもたすけさふらはゞこそは、 いみじくもさふらはめ。 さまたげになりならぬばかりを、 いみじきことにてくはえおこなはむこと、 なにかせむにてさふらふべき。

あくをば、 さればほとけおむこゝろに、 このつみつくれとやはすゝめさせたまふ。 かまえてとゞめよとこそはいましめたまへども、 ぼむのならひ、 たうのまどひにひかれて、 あくをつくるちからおよばぬことにてこそさふらへ。 まことにあくをつくるひとのやうに、 しかるべくてきやうをよみたく、 ぎやうおもくはへたからむは、 ちからおよばずさふらふ

たゞし ¬法華ほふくゑきやう¼ などよまむことを、 一言ゐちごんヒトコトバ あくをつくらむことにいひくらべて、 それもくるしからねば、 ましてこれもなどまふしさふらはむこそ、 便びんのことにてさふらへ。 ふかきみのりもあしくこゝろうるひとにあひぬれば、 かへりてものならずきこえさふらふこそ、 あさましくさふらへ。

これをかやうにまふしさふらふおば、 ぎやう人々ひとびとはらたつことにてさふらふに、 おむこゝろひとつにこゝろえて、 ひろくちらさせたまふまじくさふらふ あらぬさとりの人々ひとびとのともかくもまふしさふらはむことおば、 1004きゝいれさせたまはで、 たゞひとすぢに善導ぜんだうおむすゝめにしたがひて、 いますこしもゐちぢやうわうじやうする念仏ねむぶちのかずをまふしあはむとおぼしめすべくさふらふ

たとひわうじやうのさわりとこそならずとも、 ぢやうわうじやうとはきこえてさふらふめれば、 ゐちぢやうわうじやうぎやうしゆすべし。 いとまをいれて、 ぢやうわうじやうごふをくわえむことは、 そんにてさふらはずや。 よくよくこゝろうべきことにてさふらふなり。

たゞし、 かくまふしさふらへば、 ざふぎやうをくわえむひと、 ながくわうじやうすまじとまふすにてはさふらはず。 いかさまにもぎやうにんなりとも、 すべてひとをくだしひとをそしることは、 ゆゝしきとがおもきことにてさふらふなり。 よくよくおんつゝしみさふらひて、 ざふぎやうひとなればとて、 あなづるおむこゝろさふらふまじ。 よかれあしかれ、 ひとのうえの善悪ぜんあくをおもひいれぬがよきことにてさふらふなり

またもとよりこゝろざしこのもんにありて、 すゝむべからむひとおば、 こしらへ、 すゝめたまふべくさふらふ。 さとりたがひ、 あらぬさまならむひとなどにろんじあふことは、 ゆめゆめあるまじきことにてさふらふなり。

よくよくならひしりたまひたるひじりだにも、 さやうのことおばつゝしみておはしましあひてさふらふぞ。 ましてとのばらなどのおむにては、 ゐちぢやうひがごとにてさふらはむずるにさふらふ

たゞおむひとつに、 まづよくよくわうじやうをもねがひ、 念仏ねむぶちおもはげませたまひて、 くらゐたかくわうじやうして、 いそぎかへりきたりて、 ひとおもみちびか1005むとおぼしめすべくさふらふ。 かやうにこまかにかきつづけてまふしさふらへども、 返々かへすがへすはゞかりおもひてさふらふなり。 あなかしこ、 あなかしこ。

おむひろうあるまじくさふらふらむじこゝろえさせたまひてのちには、 とくとくひきやらせたまふべくさふらふ あなかしこ、 あなかしこ。

さんぐわちじふにち

ぐゑん