一四(986)、上野大胡太郎実秀の妻への御返事
◎●御ふみこまかにうけたまはり候ぬ。 はるかなるほどに、 念仏の事きこしめさむがために、 わざとつかひをあげさせたまひて候、 御念仏の御こゝろざしのほど、 返々もあはれに候。
○さてはたづねおほせられて候念仏の事は、 往生極楽のためには、 いづれの行といふとも、 念仏にすぎたる事は候はぬ也。 そのゆへは、 念仏はこれ弥陀の本願の行なるがゆへなり。
○本願といふは、 あみだ仏のいまだほとけにならせたまはざりしむかし、 法蔵菩薩と申しいにしへ、 仏の国土をきよめ、 衆生を成就せむがために、 世自在王如来と申仏の御まへにして、 四十八の大願をおこしたまひしその中に、 一切衆生の往生のために、 一の願をおこしたまへり。 これを念仏往生の本願と申也。
○すなわち ¬无量寿経¼ の上巻にいはく、
「たとひわれ仏を得たらむに、 十方の衆生、 心を至し信楽してわが国に生むと欲て、 乃至十念せむ。 もし生ずは、 正覚を取じ」
「設我得↠仏、 十方衆生、 至↠心信楽欲↠生↢我国↡、 乃至十念。 若不↠生者、 不↠取↢正覚↡」
と 云云。
○善0987導和尚この願を釈して云、
「もしわれ成仏せむに、 十方の衆生、 わが名号を称せむこと下十声に至まで、 もし生ぜずは正覚を取じ。 かの仏今現に在て成仏したまへり。 まさに知べし、 本誓重願虚からず、 衆生称念すればかならず往生を得」 と (礼讃)。 已上
「若我成仏、 十方衆生、 称↢我名号↡下至↢十声↡、 若不↠生者不↠取↢正覚↡。 彼仏今現在成仏。 当↠知、 本誓重願不↠虚、 衆生称念必得↢往生↡。」 已上
○念仏といふは、 仏の法身を憶念するにもあらず、 仏の相好を観念するにもあらず、 たゞこゝろをひとつにして、 もはら阿弥陀仏の名号を称念する、 これを念仏とは申也。 かるがゆへに 「称我名号」 といふなり。
○念仏のほかの一切の行は、 これ弥陀の本願にあらさるがゆへに、 たとひめでたき行なりといふとも、 念仏にはおよばず。 おほかたそのくににむまれむとおもはむものは、 その仏のちかひにしたがふべきなり。 されば弥陀の浄土にむまれむとおもはむものは、 弥陀の誓願にしたがふべきなり。 本願の念仏と、 本願にあらざる余行と、 さらにたくらぶべからず。 かるがゆへに往生極楽のためには、 念仏の行にすぎたるは候はずと申なり。
○往生にあらざるみちには、 余行またつかさどるかたあり。 しかるに衆生の生死をはなるゝみち、 仏のをしへやうやうにおほく候へども、 このごろ人の生死をはなれ三界をいづるみちは、 たゞ極楽に往生し候ばかりなり。 このむね聖教のおほきなることわりなり。
○つぎに極楽に往生するに、 その行やうやうにおほく候へども、 われらが往生せむこ0988と、 念仏にあらずはかなひがたく候なり。 そのゆへは、 仏の本願なるがゆへに、 願力にすがりて往生することはやすし。
○さればせむずるところは、 極楽にあらずは生死をはなるべからず、 念仏にあらずは極楽へむまるべからざるものなり。 ふかくこのむねを信ぜさせたまひて、 ひとすぢに極楽をねがひ、 ひとすぢに念仏をして、 このたびかならず生死をはなれむとおぼすべきなり。
○また一一の願のおはりに、 「もししからずは正覚をとらじ」 とちかひたまへり。 しかるに阿弥陀仏、 ほとけになりたまひてよりこのかた、 すでに十劫をへたまへり。 まさにしるべし、 誓願むなしからず。 しかれば、 衆生の称念するもの、 一人もむなしからず往生する事をう。 もししからずは、 たれか仏になりたまへることを信ずべき。
○三宝滅尽の時なりといゑども、 一念すればなほ往生す。 五逆深重の人なりといゑども、 十念すれば往生す。 いかにいはむや、 三宝の世にむまれて五逆をつくらざるわれら、 弥陀の名号をとなえむに、 往生うたがふべからず。
○いまこの願にあえることは、 まことにこれおぼろげの縁にあらず。 よくよくよろこびおぼしめすべし。 たとひまたあふといゑども、 もし信ぜざればあはざるがごとし。 いまふかくこの願を信ぜさせたまへり。 往生うたがひおぼしめすべからず。 かならずかならずふた0989ごゝろなく、 よくよく御念仏候て、 このたび生死をはなれ極楽にむまれさせたまふべし。
○また ¬観无量寿経¼ に云く、
「一一の光明あまねく十方世界を照す、 念仏の衆生おば摂取して捨たまはず」
「一一光明遍照↢十方世界↡、 念仏衆生摂取不↠捨」
と。 已上 これは光明たゞ念仏の衆生をてらして、 よの一切の行おばてらさずといふなり。 たゞし、 よの行をしても極楽をねがはゞ、 仏のひかりてらして摂取したまふべし。 いかゞたゞ念仏のものばかりをえらびて、 てらしたまへるや。
○善導和尚釈してのたまはく、
「弥陀の真色金山のごとし。 相好光明十方を照す。 たゞ念仏のものあて光摂を蒙る。 まさに知べし、 本願もとも強しとす。」 (礼讃) 已上
「弥陀真色如↢金山↡ | 相好光明照↢十方↡ |
唯有↢念仏↡蒙↢光摂↡ | 当↠知、 本願最為↠強」 已上 |
○念仏はこれ弥陀の本願の行なるがゆへに、 成仏の光明つよく本地の誓願をてらしたまふなり。 余行これ本願にあらざるがゆへに、 弥陀の光明きらいててらしたまはざるなり。
○いま極楽をもとめむ人は、 本願の念仏を行じて、 摂取のひかりにてらされむとおぼしめすべし。 これにつけても念仏大切に候、 よくよく申させたまふべし。
○また釈迦如来、 この ¬経¼ の中に定散のもろもろの行をときおはりてのちに、 まさしく阿難に付属したまふときには、 かみにとくところの散善の三福業、 定善の十三観おば付属せずして、 たゞ念仏の一行を付属したまへり。 ¬経¼ (観経) に云く、
「仏阿難に告たまはく、 なんぢよくこの語を持て。 この語を持てといふは、 すなわちこの无量寿仏の名を持てとなり。」 已上
「仏告↢阿難↡、 汝好持↢是語↡。 持↢是語↡者、 則是持↢无量寿仏名↡。」 已上
○善導和尚こ0990の文を釈してのたまはく、
「仏告阿難汝好持是語より已下、 正く弥陀名号を付属して、 遐代に流通することを明す。 上よりこのかた定散両門の益を説といゑども、 仏の本願を望には、 意衆生をして一向にもはら弥陀仏の名を称するに在と。」 (散善義) 已上
「従↢仏告阿難汝好持是語↡已下、 正明↫付↢属弥陀名号↡、 流↪通於↩遐代↨。 上来雖↠説↢定散両門之益↡、 望↢仏本願↡、 意在↣衆生一向専称↢弥陀仏名↡。」 已上
○この定散のもろもろの行は、 弥陀の本願にあらず。 かるがゆへに釈迦如来、 往生の行を付嘱したまふに、 余の定善・散善おば付嘱せずして、 念仏はこれ弥陀の本願なるがゆへに、 まさしくえらびて本願の行を付属したまへるなり。
○いま釈迦のおしえにしたがひて往生をもとむるもの、 付属の念仏を修して、 釈迦の御こゝろにかなふべし。 これにつけてもまたよくよく御念仏候て、 仏の付属にかなはせたまふべし。
○また六方恒沙の諸仏、 御したをのべて、 三千世界におほいて、 もはらたゞ弥陀の名号をとなへて往生すといふは、 これ真実也と証誠したまふなり。 これまた念仏は弥陀の本願なるがゆへに、 六方恒沙の諸仏、 これを証誠したまふ。 余の行は本願にあらざるがゆへに、 六方恒沙の諸仏証誠したまはず。 これにつけてもよくよく御念仏候べし。
○弥陀の本願、 釈迦の付属、 六方の諸仏の証誠護念を、 ふかくかうぶらせたまふべし。 弥陀の本願、 釈尊の付属、 六方の諸仏の護念、 一一にむなしからず。 このゆへに、 念仏の行は諸行にすぐれたるなり。
○また善導和尚は弥陀の化身なり。 浄0991土の祖師おほしといへども、 たゞひとへに善導による。 往生の行おほしといゑども、 おほきにわかちて二としたまへり。 一には専修、 いはゆる念仏なり。 二には雑修なり、 いはゆる一切のもろもろの行なり。 上にいふところの定散等これなり。
○¬往生礼讃¼ に云、
「もしよく上のごとく念念相続して、 畢命を期とする者は、 十はすなわち十ながら生ず、 百はすなわち百ながら生ず」
「若能如↠上念念相続、 畢命為↠期者、 十即十生、 百即百生」
と云り。 専修と雑行との得失なり。
○得といふは、 往生する事をうるといふ。 いはく念仏するものは、 すなわち十は十人ながら往生し、 百はすなわち百人ながら往生すといふ、 これなり。 失といふは、 いはく往生の益をうしなえるなり。 雑修のものは、 百人が中にまれに一二人往生する事をえてそのほかは生ぜず、 千人が中にまれに三五人むまれてその余はむまれず。 ○専修のものはみなむまるゝことをうるは、 なにのゆへぞと。 阿弥陀仏の本願に相応せるがゆへなり、 釈迦如来のおしえに随順せるがゆへなり、 雑業のものはむまるゝことのすくなきは、 なむのゆへぞと。 弥陀の本願にたがへるがゆへなり。 念仏して浄土をもとむるものは、 二尊のミダシヤカノ御こゝろにふかくかなへり。 雑修をして浄土をもとむるものは、 二仏の御こゝろにそむけり。
○善導和尚、 二行の得失を判ぜること、 これのみにあらず。 ¬観経の疏¼ と申すふみの中に、 おほく得失をあげたり。 しげきが0992ゆへにいださず。 これをもてしるべし。
○おほよそこの念仏は、 そしれるものは地獄におちて五劫苦をうくることきわまりなし。 信ずるものは浄土にむまれて永劫たのしみをうくることきわまりなし。 なほなほいよいよ信心をふかくして、 ふたごゝろなく念仏せさせたまふべし。 くはしき事、 御ふみにつくしがたく候。 この御つかひ申候べし。▽