1397◎常楽台主老衲一期記 於御前口筆畢
◎*正応三年六月四日に 誕生したまふ。
◎正応三年六月四日ニ 誕生タマフ。
*永仁三年に*慈俊生れたまふ。
永仁三年ニ慈俊生タマフ。
*同五年八歳の時、 従五位下親綱。 この時前の伯耆の守親顕に子となり、 親顕卒りたまひて後、 親業卿にまた子となる。 よりて出家の時、 実名親恵。 また親顕は親業卿の子、 顕盛朝臣の弟なり。
同五年八歳之時、従五位下親綱。此ノ時前ノ伯耆ノ守親顕為↠子ト、親顕卒タマヒテ後、親業卿又為タマフ↠子ト。仍出家之時、実名親恵。又親顕者親業卿ノ子、顕盛朝臣之弟也。
*正安元年、 大谷の南の敷地を買い副へられおはりぬ。 かの地の主は、 長楽寺*隆寛律師の弟子慈信房澄海 能説の学生 の旧跡なり。 かの*真弟禅日房良海、 相伝して居住し、 沽却の志なしといへども、 ことに買得すべき由懇望のあひだ、 直いの法万疋をもつて買得しおはりぬ。 根本の*覚信の御房御寄進の地は、 口は五丈奥は十丈、 これ一戸の主なり。 後に買い副へられたまふ地の丈数、 もつて同じ。
正安元年、大谷南ノ敷地被↢買副↡畢。彼ノ地主者、長楽寺隆寛律師ノ弟子慈信房澄海 能説学生 旧跡也。彼真弟禅日房良海相伝テ居住シ、雖↠無↢沽却之志↡、特ニ可↢買得↡之由懇望之間、以↢直ヒノ法万疋↡買得畢。根本覚信ノ御房御寄進地者、口ハ五丈奥ハ十丈、是一戸ノ主也。後ニ被買副タマフ地ノ丈数、以同ジ。
*唯善房は、 本は山臥なり。 仁和寺相応坊の守助の僧正の 弟子なり。 大納言阿闍1398梨弘雅と号す。 しかるに落堕の後、 奥郡の河和田に居して嫁とる 或仁、 子息等出来すれども、 無足窮困のあひだ、 *大々上喚び上げられ同宿せしめたまふ、 北の敷地 闕少せり、 南の敷地を加へらるればよろしかるべき由、 唯公、 門弟の中において連々あひ語らるるあひだ、 夏のころ、 奥の郡の人々上洛ありて沙汰に及べり。 しかるに禅日房、 買券を書かんと欲する時、 「沽却は誰人の由書くべきや」 と 云々。 唯公に宛てて書くべき由申す人、 少々これあり。 その時大々上仰せられていはく、 「上人の御敷地を広げられたらば、 門弟中に沽却せらる由載せらるる条、 覚信の御坊の御素意に叶ふべきか。 一人に宛てらるれば、 未来の*牢寵勿論なり」 と。 衆中の管領となして、 唯公の居住子細あるべからざる由これ仰せらる。 その時唯公座にありて顔色を変じて、 立腹きはまりなし。 しかれども大々上の仰せのごとく 「門弟中」 と宛て載せおはりぬ。 その後坊を造り、 唯公居住せり。 同行御堂に参りて後、 かならずまづ北殿に参り、 南殿に参りたり。
唯善房者、本ハ山臥也。仁和寺相応坊守助僧正ノ 弟子也。号↢大納言阿闍梨弘雅↡。而落堕之後、居シテ↢奥郡ノ河和田ニ↡嫁 或仁、子息等出来スレドモ、無足窮困之間、大々上被↢喚上↡令↢同宿↡給フ、北ノ敷地 闕少セリ、被↠加↢南敷地↡者可↠宜之由、唯公於↢門弟ノ中↡連々被↢相語↡之間、夏比、奥ノ郡ノ人々有テ↢上洛↡及リ↢沙汰ニ↡。而禅日房欲↠書ント↢買券ヲ↡之時、沽却ハ誰人之由可キヤト↠書哉 云々。宛テヽ↢唯公ニ↡可↠書之由申人、少々在↠之。其時大々上被テ↠仰云、為ラバ↠被↠広ゲ↢上人ノ御敷地↡者、被↣沽↢却門弟中↡之由被↠載之条、可↠叶↢覚信御坊ノ御素意ニ↡歟。被↠宛↢一人↡者、未来之牢寵勿論ナリ。為シテ↢衆中之管領ト↡、唯公ノ居住不↠可↠有↢子細↡之由被↠仰↠之。其時唯公在テ↠座変ジテ↢顔色↡、立腹無↠極。然ドモ而如↢大々上ノ仰↡宛↢載「門弟中ト」↡畢。其後造↠坊、唯公居住セリ。同行参テ↢御堂↡之後、必先参↢北殿↡、参↢南殿↡。
十二歳 *正安三、
十二歳 正安三、
*冬のころ、 永井の道信 鹿嶋門徒 ¬黒谷伝¼ (九巻) 新草の所望によりて在京せり。 よりて*大上これを草せしめたまふ。
冬比、永井ノ道信 鹿嶋門徒 依テ↢¬黒谷伝¼ 九巻 新草ノ所望ニ↡在京セリ。仍大上令↠草↠之給フ。
その次に道信申していはく、 「唯公、 禅念坊の譲状ありと称して、 唯公の身に宛てて院宣を掠賜せらるる由その聞あり。 随ひて管領を捽らるる所存か。 この事しかるべからず。 その故は、 当敷地は上人の御影堂を建立せんがために、 覚信の比丘尼門弟中において管領すべき由1399、 寄進状顕然なり。 しかるを謀書を構へて禅念坊の譲与したまふ状と称せらるる条、 母子の敵対、 未来の牢寵なり。 この事いかでか申し披かれざるや」 と 云々。
其次ニ道信申テ云、唯公称シテ↠有↢禅念坊ノ譲状↡、宛テ↢唯公ノ身ニ↡被↣掠↢賜セ院宣↡之由有↢其ノ聞↡。随テ而被↠捽↢管領↡之所存歟。此事不↠可↠然。其故ハ者、当敷地ハ為↣建↢立上人ノ御影堂↡、覚信比丘尼於↢門弟中↡可↢管領↡之由、寄進状顕然也。而ヲ構↢謀書↡被↠称↢禅念坊ノ譲与シタマフ状ト↡之条、母子敵対、未来之牢寵也。此事争カ不↠被↢申披↡哉 云々。
よりて大々上左大辨の宰相 有房卿 の亭に入御したまふ、 これは千草の先祖なり、 宗真法印の引導なり。 上の件の子細を申し述べらるるところに、 かの卿のいはく、 「禅念の譲書に任せおはりぬ」 と 云々。 申せられていはく、 「譲状の事不実なり、 もし備へ進めしめばこれ謀書なり、 門弟の中に出たる覚信の寄進の状顕然なり、 もしかの状御覧ぜらるるか」 との由仰せらるるところに、 その儀なし。 禅林寺の長老規庵沙汰申せらるるによりて左右なく勅許ありて、 符案を出され院宣を書き進むべき由仰せ下さるるあひだ、 案に任せてはからふるなり。 重て申し披かるれば、 定て正理に帰すべきかの由返答なり。 よりて帰坊せしめおはりぬ。
仍テ大々上入↢御タマフ左大辨宰相 有房卿ノ 亭ニ↡、是ハ千草ノ先祖也、宗真法印ノ引導也。被↣申↢述上件ノ子細↡之処ニ、彼ノ卿ノ云、任↢禅念ノ譲書ニ↡畢 云々。被↠申云、譲状ノ事不実也、若令メバ↢備ヘ進↡者是謀書也、出↢門弟ノ中ニ↡覚信寄進ノ状顕然也、若彼ノ状被↢御覧↡歟之由被↠仰之処ニ、無↢其儀↡。禅林寺ノ長老規庵依↠被↠申↢沙汰↡無↢左右↡勅許アリテ、被↠出↢符案↡可↣書キ↢進院宣↡之由被↢仰下↡之間、任↠案計也。重テ被↢申披↡者、定可↠帰↢正理↡歟之由返答也。仍テ令↢帰坊↡畢。
十三歳 *乾元々、
十三歳 乾元々、
大々上の御使節として、 大上、 勧進して申し披くべき*料足のために東国に御下向あり。 いくばくもなくしてすなはち御帰洛なり。
為↢大々上ノ御使節↡、大上為ニ↧勧進シテ可キ↢申披↡之料足↥御↢下向アリ東国↡。無シテ↠幾則御帰洛ナリ。
よりて院宣を当方に申し下され了して、 その詞にいはく、 「親鸞上人影堂の敷地の事。 山僧の濫妨によりて、 唯善が申に欲するあひだ、 院宣を下さるるといへども、 所詮は尼覚信が置文門弟等の沙汰に任せ相違あるべからざるものなり、 院宣によりて仰せのところ、 件のごとし。 *正安四年 月 日、 参議 有房卿 判、 親鸞上人門弟等中」と、 この宛所の事に付きてかの卿申せられていはく、 「貴辺に進むべし、 いかん」 と 云々。 ここに大々上仰せられていはく、 当方唯公共自1400専すべきにあらざるをもつて、 覚信の置文顕然なるうへは、 門弟中に宛つるべし」 と 云々。 ここにかの卿のいはく、 「申さるるところ廉直の至、 もともしかるべし。 ただしかの上人の門徒一向に在家下劣の輩なり。 しかれば 「門徒中」 と書く条叶ふべからず」 と 云々。 その時申されていはく、 「以前下さるるところの唯善の院宣、 もつて同前なるべし。 強てかの門徒一向に下劣とすべきにあらず、 いはんや唯公また門徒の随一なり」 と。 しかればかの時載せらるるところの唯公とこの門弟と、 さらに勝劣あるべからざる由詳に申さるるあひだ、 理に伏し望に任せて 「門弟等中」 と書き下されおはりぬ。
仍被↣申↢下院宣於当方ニ↡了シテ、其詞ニ云、「親鸞上人影堂ノ敷地事。依↢山僧濫妨↡、唯善ガ欲↠申ニ之間、雖↠被↠下↢院宣↡、所詮任↢尼覚信ガ置文門弟等ノ沙汰ニ↡不↠可↠有↢相違↡者也、依テ↢院宣↡所↠仰、如↠件。 正安四年 月 日、参議 有房卿 判、親鸞上人門弟等中ト、」付↢此宛所ノ事↡彼ノ卿被↠申云、可↠進↢貴辺ニ↡如何ント 云々。爰ニ大々上被↠仰云、当方唯公共以↠非↠可↢自専↡、覚信ノ置文顕然之上者、可↠宛↢門弟中ニ↡ 云々 爰ニ彼ノ卿ノ云、所↠被↠申廉直之至、尤可↠然。但シ彼上人門徒一向ニ在家下劣輩也。然バ者書↢「門徒中ト」↡之条不↠可↠叶 云々。其ノ時被↠申云、以前所↠被↠下唯善之院宣、以可↠為↢同前↡。強テ彼門徒一向ニ非↠可↢下劣↡、況唯公又門徒之随一也。然者彼時所↠被↠載唯公与↢此門弟↡、更不↠可↠有↢勝劣↡之由詳ニ被↠申之間、伏↠理ニ任テ↠望被↣書↢下「門弟等中ト」↡畢ヌ。
十月 日、 和州中河の成身院 実範寺に住持す 東北院円月上人 慶海 に同宿したまふ。
十月 日、和州中河ノ成身院 実範住↢持ス寺ニ↡ 同宿シタマフ↢東北院円月上人 慶海ニ↡。
十四歳 *嘉元々、
十四歳 嘉元々、
童体の時、 発心院殿の禅師覚意の御坊において、 毎月講筵あり、 毎度問者勤仕す。 慶海上人これを諷諫の上、 伯法印実伊の扶持なり。 また三位の法印良寛 時に已講 西南院同宿の時、 連々入寺のあひだ、 かの仁、 論義等の事扶持を加へられおはりぬ。 かの良寛は、 慶海上人の祖師兼宝律師の弟子なり、 その時経宝と号し顕宗を好み、 興福寺の*交衆を致しおはりぬ。
童体之時、於↢発心院殿禅師覚意ノ御坊ニ↡、毎月有↢講筵↡、毎度問者勤仕ス。慶海上人諷↢諫之↡上、伯法印実伊扶持也。又三位法印良寛 于時已講 西南院同宿之時、連々入寺之間、彼ノ仁論義等ノ事被↠加↢扶持↡了ヌ。彼良寛ハ者、慶海上人之祖師兼宝律師之弟子也、其時号↢経宝ト↡而好ミ↢顕宗ヲ↡、致シ↢興福寺ノ交衆↡了ヌ。
十月十日、 出家す、 同十日、 東大寺において遂に受戒しおはりぬ。 実名興親、 仮に中納言と名のる。
十月十日、出家ス、同十日、於↢東大寺ニ↡遂ニ受戒シ了。実名興親、仮ニ名↢中納言↡。
十一月二十八日、 十八道行、 金剛界伝受に至る。
十一月廿八日、十八道行、至↢金剛界伝受ニ↡。
関東において専修念仏停廃の事あり。 その時唯公ひそかに馳せ下り、 巨1401多の料足をもつて、 安堵の御下知を申し成られおはりぬ。 横曾弥の門徒木針智信三百貫を出す。 その外所々を勧進し、 数百貫をもつて申せらるるあひだ相違なし。 その文章は、 「たとひ親鸞上人門流においては、 諸国横行の類にあらず。 在家止住の土民等懃行する条、 国のために費なく、 人のために煩なし、 彼等に混ずるべからざる由、 唯善かの遺跡のために申すところその謂なきにあらざるあひだ、 免許せらるところ件のごとし。 嘉元々年 月 日、 加賀の守三善判。」 この下知両所の判形なし。 政所の下と号すと 云々。 文章また遺跡の成敗にあらず。 しかれども事を遺跡に混ぜんがためにこれを申し成るか。
於↢関東↡有リ↢専修念仏停廃ノ事↡。其ノ時唯公窃ニ馳下、以↢巨多之料足↡、被↣申↢成安堵之御下知ヲ↡了ヌ。横曾弥ノ門徒木針智信出ス↢三百貫↡。其ノ外勧↢進所々ヲ↡、以↢数百貫ヲ↡被↠申之間無↢相違↡。其文章ハ、「仮令於テ↢親鸞上人門流ニ↡者、非ズ↢諸国横行之類ニ↡。在家止住之土民等懃行スル之条、為ニ↠国無↠費、為ニ↠人無↠煩、不↠可↠混↢彼等ニ↡之由、唯善為↢彼遺跡↡所↠申非↠無↢其ノ謂↡之間、所↠被↢免許↡如↠件。 嘉元々年 月 日、加賀ノ守三善判。」此ノ下知無↢両所ノ判形↡。号↢政所ノ下ト↡ 云々。文章又非↢遺跡ノ成敗ニ↡。然ドモ而為↠混↢事於遺跡↡申↢成之↡歟。
十五歳 *嘉元二、
十五歳 嘉元二、
四月のころ、 父祖等を拝みたてまつるために上洛せしめおはりぬ。 幼少の時より連々邪気を煩ひし刻に、 心性院の僧正経恵 時に法印 慈恵大師の御影を渡したてまつりて、 時々加持せらる。 よりて平復のあひだ、 師弟の約を成し、 同宿すべきの由往日の契約なり。 しかるに中河の東北院の附弟相続の儀は大切たるによる。 父祖の御計は下向せしむといへども、 往日の旧好忘れがたく、 山門の交衆なほ本望の由あひ存ずによりて子細を申す刻、 意に任すべき由面々に仰せらるるあひだ、 五月五日、 かの法印の坊磯嶋の引接坊に入りおはりぬ。 その時親恵と改む。 五日、 もしは憚あるかの由その沙汰ありといへども、 日吉小五月の会日なり、 ことに1402よろしかるべき由法印申せらるるによりて、 その節を遂ぐ。 故に引出物として弘法大師の御筆の 「如意輪大呪」 をこれ与へらる。
四月之比、為↠奉↠拝↢父祖等↡令↢上洛↡了。幼少之時ヨリ連々煩↢邪気ヲ↡之刻ニ、心性院ノ僧正経恵 于時法印 奉テ↠渡シ↢慈恵大師ノ御影ヲ↡、時々被↢加持↡。仍テ平復之間、成↢師弟之約↡、可ノ↢同宿↡之由往日ノ契約ナリ。然而中河ノ東北院ノ附弟相続之儀ハ依↠為ルニ↢大切↡。父祖ノ之御計雖↠令↢下向↡、往日之旧好難↠忘、山門之交衆猶本望之由依↢相存↡申↢子細↡之刻、可↠任↠意ニ之由面々被↠仰之間、五月五日、入↢彼ノ法印之坊磯嶋ノ引接坊ニ↡了ヌ。其ノ時改ム↢親恵ト↡。五日、若有↠憚歟之由雖↠有ト↢其ノ沙汰↡、日吉小五月ノ会日也、殊可↠宜之由法印依↠被↠申、遂グ↢其ノ節ヲ。故ニ為テ↢引出物ト↡弘法大師ノ御筆「如意輪大呪ヲ」被↠与↠之。
それよりこのかた同宿の後、 ¬法花経¼ 一部八巻一日にこれを伝受したまふ、 また十八道の加行同じくこれを伝受したまふ。 また懇望によりて、 心性院吹挙として、 尊勝院の僧正 玄智、 時に大僧都 の室に入りおはりぬ。 八月十五の夜、 まづ面謁して、 同宿に及ばず、 密宗の受法等日を追ひてこれを励む。 十一月、 山門において受戒の牒を清書したまふ大納言の法印浄実の師主、 青竜院の二品親王 慈道、 時に法性寺座主、 無品親王、 僧正参仕の上奉公の号のあひだ、 かくのごとく僧正あひ計ひたまふものなり。 よりて当年十一月十三日、 十楽院の准后大僧正 道玄 御入滅、 青龍院御相続なり。
自↠其以来同宿之後、¬法花経¼一部八巻一日ニ伝↢受タマフ之↡、又十八道加行同伝↢受タマフ之↡。又依↢懇望ニ↡、為テ↢心性院吹挙ト↡、入↢尊勝院ノ僧正 玄智、于時大僧都 室ニ↡了ヌ。八月十五ノ夜、先ヅ面謁シテ、不↠及↢同宿↡、密宗之受法等追↠日励↠之。十一月、於↢山門ニ↡受戒之牒ヲ清書シタマフ大納言法印浄実ノ師主、青竜院二品親王 慈道、于時法性寺座主、無品親王、僧正参仕之上奉公之号間、如ク↠此僧正相計タマフ者也。仍当年十一月十三日、十楽院ノ准后大僧正 道玄 御入滅、青龍院御相続ナリ。
十六歳 *同三、
十六歳 同三、
正月二十日、 尊勝院に同宿す。 光恵僧正 時に阿闍梨 兄弟の約大切たるべき由あひ勧むるあひだ、 二月六日、 同車せしめて日野の大納言 時に中納言 の亭に向ひて、 すなはち猶子の約を成りおはりぬ。 その席において右衛門権の佐資冬 光恵の舎兄 に謁す。 その後光玄と改む。 養父の名字、 顕宗の師匠の名字、 よろしかるべきの由、 僧正あひ計はるるなり。 今月十楽院に参仕したまふ。 三月二十日、 *有職に補せらる 中納言の新阿闍梨と号す。
正月廿日、同↢宿尊勝院↡。光恵僧正 于時阿闍梨 兄弟之約可↠為↢大切↡之由相勧之間、二月六日、令↢同車↡向テ↢日野大納言ノ 于時ニ中納言 亭ニ↡、則成↢猶子之約↡了ヌ。於↢其席↡謁↢右衛門権佐資冬↡ 光恵舎兄。其ノ後改↢光玄ト↡。養父之名字、顕宗師匠之名字、可キノ↠宜之由、僧正被↢相計↡也。今月参↢仕タマフ十楽院↡。三月廿日、被↠補↢有職ニ↡ 号ス↢中納言新阿闍梨ト↡。
十七歳 *徳治元、
十七歳 徳治元、
今年唯善房の騒乱やうやくさらに発す。 *霜月のころ、 大々上重病を受け御1403平臥の最中なり、 御影堂の鎰を乞ひたてまつりて嗷々たるあひだ、 ひそかに逃れ出て衣服寺に移住せしめたまひおはりぬ。
今年唯善房騒乱漸更ニ発ス。霜月之比、大々上受↢重病↡御平臥ノ之最中ナリ、奉↠乞↢御影堂ノ鎰ヲ↡嗷々タル之間、窃ニ逃レ出テ令↣移↢住セ衣服寺ニ↡給了ヌ。
十八歳 *同二、
十八歳 同二、
四季の講に入りたまふ。 夏季は衆に入り、 秋季は講師を懃むべきところに、 *四月十二日、 大々上御入滅のあひだ、 世諍の治しがたきによりてこれを勤めず。 よりて離坊せしめおはりぬ。
入タマフ↢四季ノ講ニ↡。夏季ハ入↠衆、秋季ハ可↠懃↢講師↡之処ニ、四月十二日、大々上御入滅之間、依↢世諍之難ニ↟治不↠勤↠之。仍令↢離坊↡了ヌ。
*四月十一日の夜、 大々上仰せられていはく、 「たとひ隠遁の門に入らずといへども当所の管領となるべき上は、 ことさらに房号あるべき」 由命ぜられて、 すなはちこれを尊覚と授けらると 云々。 ただ中山の宮の御名となすによりて、 尊を改め存とす。 これ*先考の御計なり。
四月十一日ノ夜、大々上被↠仰云、縦雖↠不↠入↢隠遁之門↡可↠為↢当所ノ管領↡之上ハ者、故サラニ可↠有↢房号↡之由被テ↠命、則被↠授↢之ヲ尊覚ト↡ 云々。但依↠為↢中山ノ宮ノ御名↡、改↠尊為↠存。是先考之御計也。
大々上御入滅の地は、 二条朱雀の衣服寺なり。 かの所は僧教仏の宿所なり。 これまた*先妣の父なり。 先妣は大々上に宮仕へたてまつりて、 初は播磨の局、 後は大夫といふ。 予・兄弟誕生の後、 御上と号しこれ、 四十六才にして入滅す。
大々上御入滅之地者、二条朱雀ノ衣服寺也。彼ノ所者僧教仏ノ宿所也。是又先妣父也。先妣者奉↣宮↢仕大々上ニ↡、初ハ播磨ノ局、後ハ大夫ト云。豫・兄弟誕生之後、号シ↢御上↡之、四十六才ニシテ入滅ス。
十月より十二月に至るまで、 樋口の安養寺に*経回す。 時に長老阿日上人彰空、 聞法のためなり。 「玄義」 より 「定善義」 に至るまでこれを聴聞しおはりぬ。
自↢十月↡至↢十二月↡、経↢廻ス樋口ノ安養寺ニ↡。于時長老阿日上人彰空為↢聞法ノ↡也。自↢「玄義」↡至↢「定善義」↡聴↢聞之↡了ヌ。
十一月、 伊達の郡野辺の了専 ならびに 子息了意 時に九良 両人上洛 衣服寺、 世諦の御無力なるを見たてまつりて大上に同道したてまつり奥州に下向す。 予は御留守なり。
十一月、伊達ノ郡野辺了専 并 子息了意 于時九良 両人上洛 衣服寺、 奉テ↠見↢世諦ノ御無力ナルヲ↡奉↣同↢道大上↡下↢向ス奥州ニ↡。豫ハ御留主。
十九歳 *同三、
十九歳 同三、延慶元、
延慶元、 四月に御上洛以後、 法興院の辻子に御居住なり。 これにおいて今出川1404の上臘 二十七歳、 延明門院按察 小野宮の中将の入道女 両人連々通信せしむ。 入道女はすなはち御同宿、 三室の戸に御篭居、 御離別已後、 翌年十二月に他界なりと 云々。 即生房の息女は、 中納言の阿闍梨光助 光円卿猶子 に嫁す。 後大原の青蓮院の二品親王 尊助 に*祇候して*坊官と成り、 中納言の上座と号す。 子息中納言の律師源伊は、 山門の堂僧なり。 上人の御舎弟*尋有僧都は、 東塔善法院の坊主なり。 由縁によりて源伊にこの坊を相伝しおはりぬ。 舎弟中納言の上座光昌は、 竹内の僧正 慈順 坊人なり。 常寿院の宮御治山の時、 上人の遺跡においては、 源伊卿管領を致すべき由沙汰を出す。 よりて執事す、 兵衛の督の法印公尋 後僧正に至る 奉行として問状の令旨を成ぜらる。 しかるを申し披かるるに別事なし。 来善は、 即生坊の下人なり。 よりて子孫等源伊相伝のあひだ、 大々上に譲りたてまつり買得せらると 云々。 かの調度の文書にあひ副へ、 大々上より予に譲与せられおはりぬ。
四月ニ御上洛以後、御↢居住也法興院ノ辻子ニ↡。於↠是今出川上臘 廿七歳、延明門院按察 小野宮中将入道女 両人連々令↢通信↡。入道女ハ即御同宿、依テ御↢篭居三室ノ戸ニ↡、御離別已後、翌年十二月ニ他界也ト 云々。即生房之息女ハ者、嫁↢中納言阿闍梨光助ニ↡ 光円卿猶子。後祇↢候シテ大原ノ青蓮院二品親王 尊助↡ 成↢坊官↡、号↢中納言上座ト↡。子息中納言ノ律師源伊者、山門ノ堂僧也。上人御舎弟尋有僧都ハ者、東塔善法院坊主也。依↢由縁↡源伊ニ相↢伝シ此坊↡了ヌ。舎弟中納言上座光昌ハ、竹内ノ僧正 慈順 坊人也。常寿院ノ宮御治山之時、於↢上人之遺跡ニ↡者、源伊卿可↠致↢管領↡之由出↢沙汰ヲ↡。仍テ執事ス兵衛ノ督法印公尋 後至↢僧正↡ 為↢奉行ト↡被↠成↢問状之令旨ヲ↡。然ヲ而被ルニ↢申披↡無↢別事↡。来善ハ者、即生坊ノ下人也。仍テ子孫等源伊相伝之間、奉↠譲↢大々上↡被↢買得↡ 云々。相↢副彼ノ調度ノ文書↡、自↢大々上↡被↣譲↢与于豫ニ↡了ヌ。
御門弟三方の使者上洛す 法興寺辻子の御宿。 鹿嶋の順性 順慶の父 が使は浄信なり、 高田の*顕智 常専の曾祖父 が使は善智なり、 和田の信寂が使は寂静 子息なり。 おのおの申していはく、 巨多の料足をもつて院宣を改む、 門弟多年管領を致すところに、 唯公一向に押領して、 山僧等を北殿に置かるるあひだ、 門弟等参入するにかつ憚あり、 また本意に背して、 はやく申し披かれ、 安堵せしむ様御沙汰あるべしと 云々。 し1405かるにその時洛中の雑訴等勅裁に及ばず。 ひとへに使庁の沙汰とすべき由定めらるるあひだ、 法に任せてその沙汰を経おはりぬ。
御門弟三方ノ使者上洛ス 法興寺辻子ノ御宿。鹿嶋ノ順性ガ 順慶父 使ハ浄信也、高田ノ顕智ガ 常専曾祖父 使ハ善智也、和田ノ信寂ガ使ハ寂静 子息也。各申テ云、以↢巨多之料足ヲ↡改↢院宣↡、門弟多年致↢管領↡之処ニ、唯公一向ニ押領シテ、被↠置カ↢山僧等於北殿ニ↡之間、門弟等参入スルニ且有↠憚、又背テ↢本意ニ↡、早ク被↢申披↡、令↢安堵↡之様可↠有↢御沙汰↡ 云々。而其ノ時洛中ノ雑訴等不↠及↢勅裁ニ↡。偏可↠為↢使庁ノ沙汰↡之由被↠定之間、任↠法ニ経↢其沙汰↡了ヌ。
時に*大理三条の坊門宰相の中将通顕 後内大臣に至る時に十九才、 刑部卿の入道顕盛朝臣 時に前の宮内大輔 納々読書の師範なり。 大理の父の内大臣通重 時に大納言 は、 右少辨有正 時に前の甲斐の司 無双の文友・知己なり。 よりて叔姪・父子所縁他に異なるあひだ、 安堵の庁裁を申し下されおはりぬ。 かくのごとく当方安堵せしむといへども、 *敵方の山徒退出に及ばず。 しかれども使庁の下部等嗷義を致すべきにあらざるあひだ停滞す。 この人々申していはく、 かさねてまた 伏見の 院宣を申し賜はずは、 この事道断しがたきかと 云々。 よりて故日野の大納言俊光卿 時に中納言 に属きてこの子細を述べらるるところに、 伺ひ試すべき由領状す。 よりて七、 八箇日を経て後、 催促のために小しき酒肴を随身してかの亭に渡御したまふ時、 かの卿のいはく、 奏聞を経るところに、 使庁の成敗の由聞しめさるる旨仰せ下さる条、 子細あるべからざる由勅答なり。 よりて畏悦きはまりなし。 しかればすなはち拝領何様にすべきかの由仰せらるるあひだ、 当座において記書渡されおはりぬ。 その詞にいはく、 「親鸞上人の影堂 ならびに 敷地の事、 正安の院宣に任せ使庁成敗の由聞しめらるれば、 院宣かくのごとし。 よりて執達件のごとし。 延慶元年 月 日判、」 表書は、 「親鸞上人門弟等中へ、 俊光」と 云々。
于↠時大理三条ノ坊門宰相ノ中将通顕 後至↢内大臣↡于時十九才、刑部卿入道顕盛朝臣 于時前宮内大輔 納々読書之師範也。大理父内大臣通重 于時大納言 者、右少辨有正 于時前甲斐司 無双之文友・知己也。仍叔姪・父子所縁異↠他ニ之間、被↣申↢下安堵之庁裁↡了ヌ。如↠此当方雖↠令↢安堵↡、敵方之山徒不↠及↢退出ニ↡。然ドモ而使庁ノ下部等非↠可↠致↢嗷義↡之間停滞ス。此人々申云、重テ又不↣申↢賜 伏見 院宣↡者、此事難↢道断↡歟 云々。仍属↢故日野大納言俊光卿↡ 于時中納言 被↠述↢此子細↡之処ニ、可↢伺ヒ試↡之由領状ス。仍経↢七、八箇日↡之後、為↢催促ノ↡随↢身シテ小酒肴ヲ↡渡↢御シタマフ彼ノ亭ニ↡之時、彼ノ卿ノ云、経↢奏聞↡之処ニ、使庁成敗之由被↢聞召↡之旨仰下之条、不↠可↠有↢子細↡之由勅答也。仍畏悦無↠極。然者則拝領可↠為↢何様↡哉之由被↠仰之間、於↢当座↡記書渡サレ了ヌ。其ノ詞ニ云ク、「親鸞上人ノ影堂 并ニ 敷地ノ事、任↢正安ノ院宣ニ↡使庁成敗之由被↢聞召↡者、院宣如↠此。仍執達如↠件。 延慶元年 月 日判、」表書、「親鸞上人門弟等中ヘ、俊光ト。」云々
かくのごとく沙汰致すところに、 唯公また異なる方便1406を廻らして、 青蓮院に申して、 院宣を*門跡に申し成らさしむ。 大旨にいはく、 「妙香院、 法楽寺の敷地を領する事、 先規に任せ一同計の御沙汰あるべき由、 院宣の候ふところなり。 よりて言上件のごとし。 俊光恐惶頓首謹言。 延慶元年 月 日判じたてまつる」、 表書にいはく、 「進上青蓮院の法印の御房に、 俊光」 と 云々。 この青蓮院 慈深 は、 後の光明峰寺の摂政 家経 の御息なり、 僧正の後御遁世にて海津僧正の御房 大乗院の御師 と号す。
如↠此致↢沙汰↡之処ニ、唯公又廻ラシテ↢異ナル方便ヲ↡、申↢青蓮院ニ↡、令↣申↢成サ院宣ヲ於門跡ニ↡。大旨云、「妙香院領スル↢法楽寺ノ敷地↡事、任↢先規ニ↡一同可↠有↢計ヒノ御沙汰↡之由、院宣所↠候也。仍言上如↠件。俊光恐惶頓首謹言。 延慶元年 月 日判奉ル、」表書ニ云、「進上青蓮院法印ノ御房ニ、俊光ト。」云々 此ノ青蓮院者 慈深、後ノ光明峰寺摂政 家経ノ 御息ナリ、僧正之後御遁世ニテ号ス↢海津僧正御房ト↡ 大乗院ノ御師。
この院宣以後、 門跡より当方に仰せらるる様、 もとより門跡において成敗あるべきところに、 院宣使庁の沙汰に及ぶ条、 存外の次第なり。 本所において訴諌を究むるべき由仰えらるるあひだ、 仰天きはまりなし。 よりて三方の使節大略*退屈す。 その上無足の在京治しがたきあひだ、 まづ帰国しおはりぬ。 この沙汰不慮に延引す。
此ノ院宣以後、自↢門跡↡被↠仰↢当方↡之様、自↠元於↢門跡↡可↠有↢成敗↡之処ニ、及↢院宣使庁之沙汰ニ↡之条、存外之次第也。於↢本所↡可↠究↢訴諌↡之由被↠仰之間、仰天無↠極。仍テ三方ノ使節大略退屈ス。其上無足之在京難↠治之間、先帰国シ了ヌ。此ノ沙汰不慮延引ス。
九月のころ、 老母処々を経歴して、 器量聡敏の僧、 もし要するところの事あらば、 挙ぐべき由示さるるところに、 毘沙門谷の寺務証聞院の僧正観高の坊に至りて、 上の件の子細を述べらるるあひだ、 大切の由返答なり。 もとより日野の中納言殿の御猶子なれば、 かの卿の状を付さるる寺務僧正においては、 子細あるべからざる由、 弟子の俊覚僧正 時に少僧都 あひ計ふあひだ、 悦喜せしむ。
九月之比、老母経↢歴シテ処々↡、器量聡敏ノ僧、若有ラバ↢所↠要事↡者、可↠挙之由被↠示之処ニ、至↢毘沙門谷ノ寺務証聞院僧正観高ノ坊↡、被↠述↢上件ノ之子細ヲ↡間、大切之由返答也。自リ↠元為↢日野中納言殿ノ御猶子↡者、被↠付↢彼ノ卿ノ状ヲ↡於↢寺務僧正↡者、不↠可↠有↢子細↡之由、弟子俊覚僧正 于時少僧都 相計之間、令↢悦喜セ↡。
よりて九月九日、 大上御同道ありて、 家督卿に仰せらるるあひだ、 左右なく領状したまふ。 翌日遣はし取らるる時、 相違なく書き与へられおはりぬ。 その状にいはく、 「光玄阿闍1407梨一門としての上、 猶子にて候ふ。 御同宿候ふは、 本望とすべきに候ふ。 しばらく内々に九条殿に申すべく候ふ。 恐々謹々。 九月十日、 俊光」 と、 表書にいはく、 「中納言の法印御房」 と。 よりてこの状を帯し、 証聞院坊の法印ならびに僧都に向ひて対面す。 いくばくもなくして、 尊勝の供僧朝遍阿闍梨の遁世の闕けたるを補せらるるなり。 しかれども年内は入寺移住に及ばず。
仍九月九日、大上有テ↢御同道↡、被↠仰↢家督卿ニ↡之間、無↢左右↡領状シタマフ。翌日被↢遣シ取↡之時、無↢相違↡被↢書与↡了ヌ。其状云、「光玄阿闍梨為↢一門↡之上、猶子ニテ候。御同宿候ハ者、可↠為↢本望↡候。且内々可↠申↢九条殿↡候。恐々謹々。 九月十日、俊光ト、」表書ニ云、「中納言法印御房ト。」仍テ帯↢此ノ状↡、向↢証聞院坊ノ法印并ニ僧都↡対面ス。無シテ↠幾、被↠補セ↢尊勝ノ供僧朝遍阿闍梨ノ遁世ノ闕タルヲ↡也。然ドモ而年内ハ不↠及↢入寺移住ニ↡。
二十歳 *延慶二、
廿歳 延慶二、
正月より証聞院に居住して、 次第に受法等これを遂げおはりぬ。
自↢正月↡居↢住シテ証聞院↡、次第ニ受法等遂↠之了ヌ。
去年の三方の使節、 夏のころ上洛す、 執りてこの事を沙汰せんとするなり。 よりて門跡の奉行伊与の法眼承任が宿所に罷り向ひ、 連々問答す。 所詮訴諫に及ばず、 両方門跡に参候す。 雑掌をもつて対決を遂ぐべき由治定せり。
去年ノ三方ノ使節、夏比上洛ス、為↣執テ沙↢汰セント此ノ事↡也。仍罷リ↢向ヒ門跡ノ奉行伊与ノ法眼承任ガ宿所ニ↡、連々問答ス。所詮不↠可↠及↢訴諫↡、両方参↢候ス門跡ニ↡。以↢雑掌↡可↠遂↢対決↡之由治定セリ。
よりて大上三室戸より御出京にて、 *七月上旬のころ、 出て対す。 *青蓮院両方の正員を別所に置かれて、 雑掌をもつて重々対決す。 不審の事等おのおの正員に尋ねられ、 両方の申状ことごとく記し置かれ退散す。 この時是非に及ばざるなり。 評判に、 その後当方本所の御下知に顕れおはりぬ。 その詞の大途は、 正安の院宣に任せ庁宣にまた院宣を重ぬれば領掌す。 子細あるべからざる由御下知なり。
仍テ大上自↢三室戸↡御出京ニテ、七月上旬之比、出テ対ス。青蓮院被テ↠置↢両方之正員ヲ於別所ニ↡、以↢雑掌ヲ↡重々対決ス。不審事等各被↠尋↢正員↡、両方ノ申状悉ク被↢記置↡退散ス。此時不↠及↢是非↡也。評判ニ、其後当方顕↢本所ノ御下知ニ↡了ヌ。其ノ詞ノ大途者、任↢正安ノ院宣↡庁宣ニ又重ヌレバ↢院宣ヲ↡領掌。不↠可↠有↢子細↡由御下知也。
かくのごとく厳密の御沙汰に及ぶあひだ、 唯公関東に没落の刻、 御影・御骨を取りたてまつりて、 鎌倉の常葉に安置したてまつる。 田舎の人々かの所に群集すと 云々。
如↠此及↢厳密之御沙汰ニ↡之間、唯公没↢落関東↡之刻、奉↠取↢御影・御骨↡、奉↣安↢置鎌倉ノ常葉ニ↡。田舎ノ人々群↢集スト彼所ニ↡ 云々
御留守識の事、 何様にすべきか、 かくのごとく落居の上は、 移住すべきか1408、 いかがの由使節に尋ねられしところ、 吾等左右なく計り申しがたきあひだ、 門徒一同の衆儀をもつて沙汰あるべき由返答なり。 よりて御影堂の御留守は性善なり。
。御留守識之事、可↠為↢何様↡哉、如↠此落居之上ハ者、可↢移住↡歟、如何之由被↠尋↢使節ニ↡之処、吾等無↢左右↡難↢計申↡之間、以↢門徒一同之衆儀↡可↠有↢沙汰↡之由返答。仍テ御影堂ノ御留主ハ性善也。
二十一歳 *同三、
廿一歳 同三、
*正月、 大上東国に御下向。 その故は御留守識の事もし叶はずは、 志ある人と談じて、 別に一所を建立し生涯を終ふる由内々の御所存なり。 勧進帳を草し試すかの由仰せ含みのあひだ、 毘沙門谷より草し進しおはりぬ。 たとひ四、 五日の間の思案なり。 これ予が筆削の最初なり。 殊勝の由感仰せられおはりぬ。 この時御影堂相続の事ならびに若州・伊賀の国久多の庄等の事、 条々ことごとく御譲状に載せこれを賜りおはりぬ。
正月、大上御↢下向東国↡。其故者御留守識事若シ不↠叶者、談↢有↠志之人↡、別ニ建↢立一所ヲ↡終↢生涯↡之由内々ノ御所存也。勧進帳草シ試哉之由含↠仰之間、自↢毘沙門谷↡草シ進シ了ヌ。仮令四、五日ノ間ノ思案也。是豫ガ筆削之最初也。殊勝之由被↢感仰↡了ヌ。此時御影堂相続之事并ニ若州・伊賀ノ国久多庄等事、条々悉ク載↢御譲状↡賜↠之了ヌ。
*秋のころ、 御帰洛なり。 安積・鹿嶋ことに共にこれを許すあひだ、 御入洛已後すなはち御影堂に御居住なり。 ただ文書を帯せらるに就きて連々かくのごときの煩出来す。 ことごとく門弟中に出さるるべき由、 面々申さしむるあひだ、 御斟酌ありといへども、 出されずは御居住治しがたきあひだ、 留守識相承券契・覚信御坊の御状出されおはりぬ。 その上条々懇望の状の事等寂静申さしむるあひだ、 書き出されおはりぬ。
秋ノ比、御帰洛也。安積・鹿嶋殊共許↠之間、御入洛已後即御↢居住也御影堂ニ↡。但就↠被↠帯↢文書↡連々如ノ↠此煩出来ス。悉ク可↠被↠出↢門弟中↡之由、面々令↠申之間、雖↠有↢御斟酌↡、不↠被↠出者御居住難↠治之間、留守識相承券契・覚信御坊ノ御状被↠出了ヌ。其上条々懇望ノ状ノ事等寂静令↠申之間、被↢書出↡了ヌ。
十月のころ、 予、 証聞院供僧を辞退し離寺しおはりぬ。 所労の上、 当所安堵の初なれば、 相続付弟のための上は、 同宿すべき由大上仰せらるるあひだ、 *厳命に応ずる故なり。 離寺せしむといへども、 かの僧正 ならびに 弟子俊覚僧正と、 生涯の和睦相違なし。
十月ノ比、豫、証聞院辞↢退供僧↡離寺了ヌ。所労之上、当所安堵之初ナレバ、為↢相続付弟↡之上者、可↢同宿ス↡之由大上被↠仰之間、応ル↢厳命ニ↡之故也。雖↠令↢離寺↡、与↢彼ノ僧正 并 弟子俊覚僧正↡、生涯和睦無↢相違↡。
二1409十二歳 *応長元、
廿二歳 応長元、
*五月のころ、 大上越前の国に御下向、 すなはち*扈従したてまつりおはりぬ。 二十余日大町の*如道の許に御居住、 ¬教行証¼ を伝受したてまつるあひだ、 御*与奪によりて、 予大略これを授けおはりぬ。
五月之比、大上御↢下向越前国ニ↡、則奉↢扈従↡畢ヌ。廿余日御↢居住大町ノ如道許↡、奉↣伝↢受¬教行証ヲ¼↡之間、依↢御与奪ニ↡、豫大略授ケ↠之了。
閏六月二十三日、 慈俊法印 十七歳、 童名光珠 毘沙門谷の殿法印 九条禅閤の御息、 忠恵 の坊に向ふ。 引導すべき由しきりに仰せらるるあひだ、 予ひそかに計ふなり。 しかるに先妣二十五日、 逝去したまふ。 よりて告示の間、 帰房せしむ。 冬のころ、 帰参して、 遂に出家しおはりぬ。 実名は光真、 仮名は右衛門の督なり。 名を改むること度々なれども、 所詮は、 光真・光楯・光尋・光禅・慈俊なり。
閏六月廿三日、慈俊法印 十七歳、童名光珠 向↢毘沙門谷ノ殿法印ノ 九条禅閤御息、忠恵 坊ニ↡。可↢引導↡之由頻ニ被↠仰之間、豫秘ニ計也。而ニ先妣廿五日、逝去シタマフ。仍テ告示之間、令↢帰房↡。冬ノ比、帰参シテ、遂出家了ヌ。実名ハ光真、仮名ハ右衛門督也。改↠名度々ナレドモ、所詮ハ、光真・光楯・光尋・光禅・慈俊也。
秋のころ、 大上勢州に御下向。 十月、 今出川の上臘と大上御同宿なり。 同じき下旬離別せられて、 御領殿 従三位為信卿の女、 法名相如、 十九歳 を迎へらる。
秋ノ比、大上御↢下向勢州ニ↡。十月、与↢今出川ノ上臘↡大上御同宿也。同キ下旬被テ↢離別↡、被↠迎↢御領殿ヲ↡ 従三位為信卿ノ女、法名相如、十九歳。
二十三歳 *正和元、
廿三歳 正和元、
青蓮院の宮門跡三方 良助親王・尊円親王・慈道親王 御相論なり。 大上もともよろしかるべき由仰せられ、 訴諫の事に労功他に異なるなり。 この時光玄を光顕とす。
青蓮院ノ宮門跡三方 良助親王・尊円親王・慈道親王 御相論也。大上尤可↠宜之由被↠仰、訴諫ノ事ニ労功異也↠他ニ。此ノ時光玄為↢光顕↡。
*夏のころ、 法智発起のために、 額を打たれ寺を専修寺と号す。 同人これを計り申す。 勘解由の小路二位の入道経伊卿 法名寂伊 これを書く。 予、 錦の小路の僧正に申してこれを誂ふ。
夏比、為ニ↢法智発起↡、被↠打↠額ヲ寺ヲ号↢専修寺ト↡。同人計リ↢申之↡。勘解由ノ小路二位ノ入道経伊卿 法名寂伊 書↠之。豫申↢錦小路僧正ニ↡誂↠之。
*秋のころ、 山門の事書到来す。 その旨趣、 一向専修は往古に停廃するところなり。 しかるに今専修の号しかるべからず。 早く破却すべしと 云々。 座主は裏の築地の僧正公什なり。 附弟慈什僧正は鷹司の禅尼 冬雅卿の伯母 曾孫のあひだ、 かの1410縁をもつて座主と談ぜしむ、 よりて*無為なり。 しかれどもなほ定めて休まざるか、 卿を枉げて寺号を改む。 しかればまづ額を撤すべきあひだ、 座主ならびに玄智僧正あひ計るのあひだ、 その額を撤せらる。 後日法智わが寺に申し下して、 かの寺号を用ゐてこれを打つと 云々。 この折節仙芸、 光玄に随ふ。
秋ノ比、山門ノ事書到来ス。其旨趣、一向専修ハ者往古ニ所↢停廃スル↡也。而今専修ノ号不↠可↠然。早可↢破却↡ 云々。座主ハ裏築地ノ僧正公什也。附弟慈什僧正者鷹司ノ禅尼 冬雅卿伯母 曾孫之間、以↢彼ノ縁↡令↠談↢座主↡、仍無為也。然モ而猶定テ不↠休歟、枉テ↠卿改↢寺号ヲ↡。然者先可↠撤↠額之間、座主并ニ玄智僧正相計ルノ之間、被↠撤↢其額↡。後日法智申↢下シテ吾寺ニ↡、用テ↢彼寺号ヲ↡打之 云々。此ノ折節仙芸随↢光玄ニ↡。
二十四歳 *正和二。
廿四歳 正和二。
二十五歳 *正和三、
廿五歳 正和三、
春のころ、 大上尾州に御下向、 扈従したてまつりおはりぬ。 二十余日御逗留。
春ノ比、大上御↢下向尾州↡、奉↢扈従↡了ヌ。廿余日御逗留。
大上連々御所労のあひだ、 当寺管領の事、 御存日より譲り与へらるべき由、 秋ごろより連々仰せ下さる。 固辞したてまつりしところ、 身においては当寺を退くべくも、 管領の事においては命に随はずんば、 聖跡をもつて牛馬の蹄に懸くるか、 意にあるべしの由仰せらるるあひだ、 この上固辞するに拠なきかのあひだ、 承諾したてまつる。 よりて*十二月二十五日、 これを請ひ取る。 その時絹一疋・*用途百疋これを賜る。
大上連々御所労之間、当寺管領ノ事、自↢御存日↡可↠被↢譲与↡之由、自↢秋比↡連々被↢仰下↡。奉↢固辞↡之処、於↠身者可↠退↢当寺↡、於↢管領事↡不ンバ↠随↠命者、以↢聖跡↡可↠懸↢牛馬之蹄ニ↡歟、可↠在↠意ニ之由被↠仰之間、此上固辞スルニ無↠拠歟之間、奉↢承諾シ↡。仍十二月廿五日、請↢取之↡。其時絹一疋・用途百疋賜↠之。
年内上洛すべき人なく、 越年已下周章せしむるところに、 法智当年灯明遅引す、 よりて二十八日、 五百疋到来のあひだ、 冥慮に叶ふ由御感なり。 これをもつて形のごとく越年等の沙汰を致しおはりぬ。 御渡世の料足上下四人の衣食員数を定めおはりぬ。
年内無↧可↢上洛↡之人↥、越年已下令↢周章↡之処ニ、法智当年灯明遅引ス、仍廿八日、五百疋到来之間、叶↢冥慮↡之由御感也。以↠之如↠形致↢越年等之沙汰ヲ↡了。御渡世之料足上下四人之衣食被↠定↢員数↡了。
二十六歳 *正和四、
廿六歳 正和四、
春ごろ、 大上借りて窪の坊に住せしめたまひおはりぬ。
春比、大上令↣借住↢窪坊ニ↡給了ヌ。
二1411十七歳 *同五、
廿七歳 同五、
十二月、 奈有これを迎ふ。 大上の御計なり。
十二月、奈有迎↠之。大上ノ御計也。
二十八歳 *文保元、
廿八歳 文保元、
八月下旬のころ、 大上御夫婦と予と奈有と密々に天王寺・住吉等に参詣。 今年御領殿御離別なり。
八月下旬之比、大上御夫婦ト豫ト奈有ト密々ニ参↢詣天王寺・住吉等ニ↡。今年御領殿御離別也。
二十九歳 *同二、
廿九歳 同二、
二月のころ、 善照房を迎へらる、 十九才。
二月之比、被↠迎↢善照房ヲ↡、十九才。
三十歳 *元応元、
歳 元応元、
二月二十八日、 光女誕生す 円興寺の長老なり。
二月廿八日、光女誕生ス 円興寺ノ長老也。
五月のころ、 大上参州に御下向、 伴したてまつりおはりぬ。 参州より信州へ越えしめたまひ、 飯田の寂円が許に入御したまふ。 御帰洛の時、 予瘧病、 横吹の険路馬に乗りながら打在しおはりぬ。 善教扈従したてまつりて後、 師匠を捨てて寂円直参。 寂円御*勘気に預りおはりぬ。
五月之比、大上御↢下向参州↡、奉↠伴シ了。自↢参州↡令↠越↢信州↡給、入↢御タマフ飯田ノ寂円ガ許ニ↡。御帰洛之時、豫瘧病、横吹之険路乍↠乗↠馬打在シ了ヌ。善教奉↢扈従↡之後、捨↢師匠↡寂円直参。寂円預↢御勘気↡了。
三十一才 *同二、
一才 同二、
仏光寺の空性はじめて参る 俗体弥三郎。 六波羅南方 越後守維貞 の家人比留の左衛門大郎維広が*中間なり。 初参の時申していはく、 関東においてこの御流を承く。 念仏の知識は甘縄の了円、 これ阿佐布の門人なり。 しかるに門徒の名字を懸くるといへども、 法門已下御門流の事、 さらに存知せず。 たまたま在洛せしむるあひだ、 参詣するところなり、 毎事御諷誦に預るべしと 云々。 その時大上窪に御対向、 この由を申し入るるによりて、 御対面ありといへども、 しかるごとき扶持においては、 一向に予が沙汰すべき由仰せ付けられし上、 ぢかにこの旨をかの男に仰せ含めらるるあ1412ひだ、 その後連々入来す。 所望によりて、 数十帖の聖教あるいは新草しあるいは書写して、 その功を入れおはりぬ。
仏光寺ノ空性初テ参ル 俗体弥三郎。六波羅南方 越後守維貞ノ 家人比留ノ左衛門大郎維広ガ之中間也。初参ノ之時申云、於↢関東↡承↢此御流↡。念仏ノ知識者甘縄ノ了円、是阿佐布ノ門人也。而雖↠懸↢門徒之名字↡、法門已下御門流ノ事、更不↢存知↡。適令↢在洛↡之間、所↢参詣↡也、毎事可↠預↢御諷誦↡ 云々。其時大上御↢対向窪ニ↡、依↣申↢入此由ヲ↡、雖↠有↢御対面↡、於↢如然之扶持ニ↡者、一向ニ可↠為↢豫ガ沙汰↡之由被↢仰付↡之上、直ニ此旨ヲ被↣仰↢含彼男ニ↡之間、其ノ後連々入来ス。依↢所望↡、数十帖聖教或ハ新草或書写シテ、入↢其ノ功↡了ヌ。
九月のころ、 光星丸生ず、 柏の庭なり。
九月之比、光星丸生ズ、柏庭也。
三十三才 *元亨二、
三才 元亨二、
五月、 最勝講行はる。 先皇御治天の始なり。 よりてことに清撰の御沙汰あり。 錦の小路の僧正はじめて*証義に召さる 講師を兼ぬ。 よりて初座の表白の事、 相続のために招引せらるるあひだ、 かの坊に罷り向ひ、 終夜これを草す。 翌日光勝法印同車せしめて帰坊しおはりぬ。
五月、最勝講被↠行ハ。先皇御治天之始也。仍テ殊有リ↢清撰之御沙汰↡。錦ノ小路僧正始テ被↠召↢証義ニ↡ 兼↢講師ヲ↡。仍初座表白ノ事、為↢相続↡被↢招引↡之間、罷リ↢向彼ノ坊↡、終夜草ス↠之。翌日光勝法印令↢同車↡帰坊シ了。
この両年、 口舌の事相続して、 つひに御勘気に預るあひだ、 *六月二十五日、 退出せしむ。 牛王子が辻子に寄宿す。 七月二十日、 出京、 江州瓜生津に著く。 この年奥州において越年す。 これは東国の同行等和睦の口入のためなり。 来秋かならず申すべしと 云々。
此ノ両年、口舌ノ事相続シテ、遂ニ預↢御勘気↡之間、六月廿五日、令↢退出↡、寄↢宿ス牛王子ガ辻子ニ↡。七月廿日、出京、著ク↢江州瓜生津ニ↡。是ノ年於↢奥州ニ↡越年ス。是者東国ノ同行等和睦口入之為也。来秋必可↠申 云々。
三十四才 *元亨三、
四才 元亨三、
三月晦日、 奥州より江州瓜生津に著く。
三月晦日、自↢奥州↡著↢江州瓜生津ニ↡。
*五月、 帰路に赴く。 *了源が建立するところの寺は山科なり。
五月、赴↢帰路↡。了源ガ所ノ↢建立↡寺ハ山科也。
奥州の人々上洛し、 連署をもつて申せらる。 長井の明源 道信・鹿嶋の順慶・成田の信性以下なり。 この後数年信海の門流参詣に及ばず、 近年上洛す。 この後来らるるところの同行達に対して、 かくのごとく連署あり、 後の証のために署を載せらるるかの由申せしめ候ふあひだ、 四十余輩の上足加判す。 しかして進覧に及ばず、 世上の擾乱の時焼失しおはりぬ。 無念におはりぬ。
奥州ノ人々上洛シ、以↢連署ヲ↡被↠申。長井ノ明源 道信・鹿嶋ノ順慶・成田ノ信性以下也。此後数年信海ノ門流不↠及↢参詣↡、近年上洛ス。此後対シテ↢所↠被↠来之同行達↡、如↠此有↢連署↡、為↢後ノ証↡被↠載↠署哉之由令↠申候間、四十余輩ノ上足加判ス。然シテ者不↠及↢進覧↡、世上擾乱之時焼失シ了。無念了。
三1413十五才 *正中元、
五才 正中元、
七月二十四日、 愛光誕生す 在所は仏光寺なり。
七月廿四日、愛光誕生ス 在所ハ仏光寺也。
八月*時正の中日、 山科の興正寺 空性建立の寺 寺号は大上付けらるるなり にて、 予供養を致しおはりぬ。 装束は鈍色、 甲の袈裟なり。
八月時正ノ中日、山科ノ興正寺 空性建立ノ之寺寺号大上被↠付也、豫致↢供養↡了。装束ハ鈍色、甲ノ袈裟也。
三十六才 *同二、
六才 同二、
八月晦日、 光徳丸誕生す。
八月晦日、光徳丸誕生ス。
三十七才 *嘉暦元。
七才 嘉暦元。
三十八才 *嘉暦二、
八才 嘉暦二、
秋のころ、 立住坊を取る、 空性が沙汰なり。 この時今出川の上臘随分の助成を致し菩提を訪ねらるるための由示さるるなり。
秋ノ比、取↢立住坊ヲ↡、為リ↢空性ガ沙汰↡。此ノ時今出川ノ上臘被↠致↢随分助成↡為↠被↠訪↢菩提↡之由被↠示也。
四十一才 *元徳二、
四十一才 元徳二、
二月時正の中日、 仏光寺を供養す 本寺は興正寺と号す、 一両年以前、 山科よりこれを移す、 予仏光寺と改む、 導師は予なり。 聖道出仕の儀式なり。
二月時正ノ中日、供↢養ス仏光寺ヲ↡ 本寺ハ号興正寺、一両年以前、自↢山科↡移↠之、豫改↢仏光寺ト↡、導師ハ豫也。聖道出仕ノ儀式也。
夏のころ、 武蔵の守貞将管領を辞す。
夏ノ比、武蔵守貞将辞ス↢管領ヲ↡。
四十二才 *元弘元、
四十二才 元弘元、
正月二十二日、 関東に進発す 汁谷炎えて以後窮困の故なり。 まづ瓜生津に著き、 奈有・光御前・光徳同道せしめ、 かの所に預け置きおはりぬ。 柏の庭は無住和尚同宿のところ、 塔主仁和寺を辞して篭居の刻、 東福寺の普門院に住す。
正月廿二日、進↢発関東↡ 汁谷炎テ以後窮困之故也。先著↢瓜生津ニ↡、奈有・光御前・光徳令↢同道↡、預↢置キ彼ノ所ニ↡了ヌ。柏庭ハ者無住和尚同宿之処、塔主辞シテ↢仁和寺↡篭居之刻、住ス↢東福寺ノ普門院↡。
二月十一日、 甘縄の願念 誓海 の宿所に著す。
二月十一日、著ス↢甘縄ノ願念 誓海 宿所ニ↡。
三月八日、 江州において瑠璃光女生ず。
三月八日、於↢江州↡瑠璃光女生ズ。
十二月のころ、 倉柄が沙汰のため江州に留め置き、 大晦日、 倉柄が宿所に著す。
十二月ノ比、為↢倉柄ガ沙汰↡留↢置江州ニ↡、大晦日、著↢倉柄ガ宿所ニ↡。
伝え聞くに、 *今年大上東国に御下向。 *如信上人の三十三年の御忌たるのあひだ、 かの御遺跡に詣でらるるためと 云々。
伝聞、今年大上御↢下向東国ニ↡。為ルノ↢如信上人ノ三年ノ御忌↡之間、為↠被↠詣↢彼ノ御遺跡↡ 云々。
その御留主の時、 慈法1414梅之に嫁せらると 云々 十三才。
其ノ御留主之時、慈法被↠嫁セ↢梅之ニ↡ 云々 十三才。
四十三歳 *正慶元、
四十三歳 正慶元、
今春真俗に付きて御用あり、 大上関東を御経回の由これを伝え聞く。大仏陸奥の守貞有の亭において、 禅尼 長楽寺殿 これかの息女の介戚なり、 父は花山院師藤卿なり。 仁和寺妙光寺の塔主無住禅師関東に下向のあひだ、 予に就きて申し承く。 かの禅尼と坊主と親服のあひだ、 その引導によりて、 光女長楽寺の禅尼の養子として同宿す。
今春付↢真俗↡有↢御用↡、大上御↢経廻ノ関東↡之由伝↢聞ヲ之。於↢大仏陸奥ノ守貞有ノ亭ニ↡、禅尼 長楽寺殿 是彼ノ息女ノ介戚也、父者花山院師藤卿也。仁和寺妙光寺ノ塔主無住禅師下↢向関東↡之間、就↠豫申承。彼ノ禅尼ト与↢坊主↡親服之間、依↢其ノ引導ニ↡、光女為↢長楽寺禅尼ノ養子↡同宿ス。
四十四歳 *同二、
四十四歳 同二、
関東没落の後、 予が党大倉谷に住す。 これ静昭法印関東に下向のあひだ、 申し通ずによりてなり。 光徳丸においてはかの法印預りて、 予両人京に上る時、 念性一人召し具しおはりぬ。 これ空性が同朋なり、 後日にこれを聞きて、 念性阿護を沼戸に預り置く。 上洛して長途痢病のあひだ、 遠江の国麻田において逝す 仏光寺の下。 また定専奈有をかの所に預り置きて一身上洛す。
関東没落後、豫ガ党住↢大倉谷↡。是静昭法印下↢向関東↡之間、依↢申通↡也。於↢光徳丸↡者預テ↢彼ノ法印↡、豫両人京上之時、念性一人召具シ了ヌ。是空性ガ同朋也、後日ニ聞テ↠之、念性預↢置ク阿護ヲ於沼戸ニ。上洛シテ而長途痢病之間、於↢遠江ノ国麻田ニ↡逝ス 仏光寺下。又定専預↢置テ奈有ヲ於彼ノ所ニ↡一身上洛ス。
六月九日、 鎌倉を立ちて、 四十九院に至る、 四十余日なり。 瓜生津より仏光寺に著く。
六月九日、立テ↢鎌倉↡、至↢四十九院ニ↡四十余日也。自↢瓜生津↡著↢仏光寺↡。
愛光女、 去年十一月十五日他界の由始てこれを聞く、 九才。
愛光女、去年十一月十五日他界之由始テ聞↠之、九才。
霜月のころ、 刑部の禅門 時に右京大夫予と同道せしむ 万里小路の一品 宣坊 の亭に向ふ、 光徳丸に恩賞を申すためなり、 右少辨有正の子息と称す、 建立の子細あり。 二条の大閤 南方前殿師基 の御書1415を帯しおはりぬ。
霜月之比、刑部禅門 于時右京大夫与↠豫令↢同道↡ 向↢万里小路一品 宣坊ノ 亭ニ↡、光徳丸ニ為也↠申↢恩賞↡、称ス↢右少辨有正子息ト↡、有↢建立之子細↡。帯↢二条ノ大閤ノ 南方前殿師基 御書ヲ↡了ヌ。
四十五歳 *建武元、
四十五歳 建武元、
仏光寺の本尊開眼す、 夜陰に内々の儀なり。
仏光寺ノ本尊開眼ス、夜陰ニ内々ノ之儀也。
春のころ、 光女上洛す。 *同七日、 かの寺において光威丸生ず。
春比、光女上洛ス。同七日、於↢彼寺↡光威丸生ズ。
四十六歳 *建武二、
四十六歳 建武二、
光徳丸上洛す。 二月時正、 光女みづから髪を切る 永禅坊と号す。
光徳丸上洛ス。二月時正、光女自切ル↠髪 号永禅坊。
四十七歳 *同三、
四十七歳 同三、
夏のころ、 大上溝杭辺に御下向と 云々。 坂本への行幸、 大谷殿上下数十人をあひ具して、 瓜生津に御没落ありて、 御越年と 云々。
夏ノ比、大上御↢下向溝杭辺↡ 云々。行幸坂本、大谷殿上下相↢具シテ数十人↡、御↢没落アリテ瓜生津↡、御越年ト 云々。
この御留主に大谷の御堂かくのごとく、 留主の御影堂 ならびに御影 等回録しおはりぬ。 予・光徳丸塩の小路烏丸の興国寺に住す。
此ノ御留主ニ大谷ノ御堂如之、留主ノ御影堂 并御影 等回録シ了ヌ。豫・光徳丸住↢塩ノ小路烏丸ノ興国寺ニ↡。
四十八歳 *同四、
四十八歳 同四、
春のころ、 大上御帰洛にて西山 久遠寺 に御居住。 上臘 十六歳 前の源中納言同宿のあひだ、 大上等かの亭に御同宿しおはりぬ。
春ノ比、大上御帰洛ニテ御↢居住西山ニ↡ 久遠寺。上臘 十六歳 前ノ源中納言同宿之間、大上等御↢同宿彼ノ亭ニ↡了。
四十九歳 *暦応元、
四十九歳 暦応元、
*三月、 備後の国府守護の前において、 法花宗と対決しおはりぬ。 御門弟望み申すによりて、 その憚を忘れ、 名字を改め悟一と号して出て対へおはりぬ。 法花宗屈す、 よりて当方いよいよ繁昌す。
三月、於↢備後ノ国府守護ノ前↡、与↢法花宗↡対決了ヌ。御門弟依↢望申↡、忘↢其ノ憚ヲ↡、改↢名字ヲ↡号↢悟一ト↡出テ対ヘ了ヌ。法花宗屈ス、仍当方弥繁昌ス。
*その次に ¬決智抄¼ を作りおはりぬ、 ¬仮名報恩記¼・¬至道抄¼ 各一帖、 ¬選択註解抄¼ 五帖 等なり。 ¬願名抄¼ は、 明光京都において所望のあひだ、 かの境において草し遣しおはりぬ。
其次ニ作↢¬決智抄ヲ¼↡了ヌ、¬仮名報恩記¼・¬至道抄¼ 各一帖、¬選択註解抄¼ 五帖 等也。¬願名抄¼者、明光於↢京都↡所望之間、於↢彼ノ境↡草シ遣了ヌ。
*閏七月、 帰京す。
閏七月、帰京ス。
九月、 *愚咄坊の口入によりて、 大上の御免に預る。 *同十八日、 愚咄坊に相伴して参じお1416はりぬ。 その時八条の源中納言雅康卿の亭に御在京なり。 同宿すべき由仰せらるるあひだ、 参住しおはりぬ。
九月、依↢愚咄坊口入↡、預↢大上ノ御免ニ↡。同十八日、相↢伴愚咄坊ニ↡参ジ了。其時御↢在京八条源中納言雅康卿ノ亭ニ↡也。可↢同宿↡之由被↠仰之間、参住了。
十月のころ、 御影反座の事、 唯善房の遺跡承諾せしむる由その説あるによりて、 高田の*専空等御迎のためにかの境へ下向。 この上はいかでか動坐せざらん由仰せられ、 すなはち御下向なり。 予扈従したてまつりおはりぬ。 しかるにその実なきによりて、 専公むなしく帰洛す、 尾州において参会のあひだ、 御上洛なり。 予また同前なり。 御下向の時は、 まづ瓜生津に著く。 かの房主伴したてまつり、 大和の性空同道。
十月之比、御影反座之事、唯善房ノ遺跡令↢承諾↡之由依↠有ニ↢其説↡、高田ノ専空等為↢御迎↡下↢向彼境↡。此上ハ者争不↢動坐↡之由被↠仰、則御下向也。豫奉↢扈従↡了。而依↠無↢其ノ実↡、専公空帰洛、於↢尾州↡参会之間、御上洛也。豫又同前也。御下向之時者、先著ク↢瓜生津↡。彼房主奉↠伴シ、大和ノ性空同道。
十一月 日、 専空の沙汰にして、 今の御堂を買得して 本願寺三十六貫 建立しおはりぬ。 その時和田の寂静上洛せしめて、 同くその沙汰を致しおはりぬ。
十一月 日、為↢専空ノ沙汰↡、買↢得テ今御堂↡ 本願寺六貫 建立シ了。其ノ時和田ノ寂静令テ↢上洛↡、同ク致↢其沙汰↡了ヌ。
五十歳 *暦応二、
五十歳 暦応二、
三月のころ、 光徳丸新熊野滝尻の智蓮光院 教空 に入室す。
三月之比、光徳丸入↢室ス新熊野滝尻ノ智蓮光院 教空ニ↡。
*四月十二日、 大々上三十三回忌の辰なり。 よりて一条の亭において法事讃を行ぜらる。 無足のあひだ、 名僧等はこれなし。 慈法・光徳 十五才 共に行ず。 予は病悩のあひだ、 出現に及ばず。
四月十二日、大々上三廻忌ノ辰也。仍於↢一条ノ亭ニ↡被↠行↢法事讃ヲ↡。無足之間、名僧等ハ無↠之。慈法・光徳 十五才 共行ズ。豫ハ病悩之間、不↠及↢出現↡。
その後奈有病悩するを、 亭主 中納言 恐怖せしむるかの由推量のあひだ、 大谷に移住す。 その時いまだ房舎造立の沙汰に及ばず、 よりて御堂の北の局に寄宿。
其後奈有病悩スルヲ、而亭主 中納言 令↢恐怖↡歟ノ之由推量之間、移↢住大谷ニ↡。其ノ時未↠及↢房舎造立之沙汰↡、仍寄↢宿御堂ノ北ノ局ニ↡。
秋のころ、 大上南の局に御入寺、 慈法後戸の挻に居住す。
秋ノ比、大上御↢入寺南ノ局ニ↡、慈法居↢住ス後戸挻ニ↡了。
五十二歳 *同四、
五十二歳 同四、
正月 日、 光威丸粟津より上洛す。 八月二十八日、 温泉1417に下向。 手療治のためなり。 九月三日、 帰京して大谷に住す。
正月 日、光威丸自↢粟津↡上洛ス。八月廿八日、下↢向温泉ニ↡。為↢手療治↡也。九月三日、帰京シテ住↢大谷ニ↡。
五十三歳 *康永元、
五十三歳 康永元、
湯治のために五条坊門室町の旅所に宿す。 その最中御義絶の由仰せらるるあひだ、 大谷に帰参するに及ばず、 塩の小路油小路の顕性が宿所に宿して越年しおはりぬ。
為↢湯治ノ↡宿↢五条坊門室町ノ旅所↡。其最中御義絶之由被↠仰之間、不↠及↠帰↢参スルニ大谷ニ↡、宿↢塩ノ小路油小路顕性ガ宿所ニ↡越年了。
五十四歳 *同二、
五十四歳 同二、
五月 日、 光威丸毘沙門堂に向ひ、 証門院に住す。 九月のころ、 随心院の前の大僧正の坊の命によりて、 かの門跡に参住す。 その時俊覚僧正に遣はせらるる御書にいはく、 「光玄法印真弟の小童御同宿の由承り及び候ふ。 召し給ひて候ひて出家羯磨沙弥を遂ぐは、 随はしむべき由に候ふなり」 と。 僧正この御書を賜ひて左右なく領状す。 その時は予和州に居住、 よりて談合に及ばず。 その子細をかつ中納言の公 房宋 に談じて遣せり。 その時勘解由の小路の大納言 兼綱卿、 時に蔵人学士 猶子の約を成る。 よりて綱の字はかの卿の字なり、 厳は門主経厳の厳の字なり。 かの卿猶子の儀は、 俊覚僧正の媒介なり。 十月十七日、 出家す、 戒師は門主僧正の房なり。 十月二十日、 禅師の御房通厳に付弟す、 *南都東大寺において受戒の時、 羯磨沙弥として同く登壇して受戒し、 度縁を取りおはりぬ。
五月 日、光威丸向↢毘沙門堂↡、住↢証門院↡。九月ノ比、依↢随心院前ノ大僧正ノ坊ノ命ニ↡、参↢住ス彼ノ門跡ニ↡。其ノ時被↠遣↢俊覚僧正ニ↡御書云、「光玄法印真弟ノ小童御同宿之由承及候。召シ給テ候而遂ハ↢出家羯磨沙弥↡、可↠令↠随之由ニ候也。」僧正賜テ↢此御書↡無↢左右↡領状ス。其ノ時ハ豫居↢住和州↡、仍不↠及↢談合↡。其ノ子細ヲ且談ジテ↢遣セリ中納言公 房宋↡。其ノ時勘解由ノ小路大納言 兼綱卿、于時蔵人学士 成↢猶子之約↡。仍綱ノ字ハ彼ノ卿ノ字也、厳ハ者門主経厳之厳ノ字也。彼ノ卿猶子儀ハ、俊覚僧正ノ媒介也。十月十七日、出家ス、戒師ハ門主僧正ノ房也。十月廿日、付弟ス禅師御房通厳、於↢南都東大寺ニ↡受戒之時、為↢羯磨沙弥↡同ク登壇シテ受戒シ、取↢度縁↡了。
五十五歳 *同三、
五十五歳 同三、
二月 日、 和州に下向して居住す。 十二月のころ、 上洛して大宮寺に居住す。 上洛の後いくばくせずして、 鹿嶋の順慶・長井の道空・飯田の頓妙寺上洛す。
二月 日、下↢向シテ和州↡居住ス。十二月ノ比、上洛シテ居↢住ス大宮寺ニ↡。上洛之後不シテ↠幾、鹿嶋ノ順慶・長井ノ道空・飯田ノ頓妙寺上洛ス。
五1418十七歳 *貞和二、
五十七歳 貞和二、
六月二十七日、 ひそかに六条を退して、 綾の小路町 道性が宿所 に寄宿す。 その時の目の所労もってのほかなるあひだ、 数日休息して柏木の願西等種々に申す旨あるによりて、 七月二十五日に、 帰住す。 その後和談の事面々これを申すといへども、 つひに許容せず。
六月廿七日、窃ニ退テ↢六条↡、寄↢宿ス綾ノ小路町 道性ガ宿所ニ↡。其ノ時ノ目ノ所労以外ナル之間、数日休息シテ而柏木ノ願西等種々ニ依↠有↢申旨↡、七月廿五日ニ、帰住ス。其後和談ノ事面々雖↠申↠之、遂ニ不↢許容セ↡。
*九月のころ、 済々上洛せしめ、 和睦の事しきりにこれを申すといへども許されず。 同十一月、 御報恩別時の時、 またかさねて願西等なほこれを申すといへども、 不忠の子細を再往宣説の時、 理を伏して承諾す。 すなはち面々下国の刻、 磯嶋において別時を修すべき由、 教願申せしめ候ふあひだ、 ことごとくもつて下向す。
九月之比、済々令メ↢上洛↡、和睦之事頻ニ雖↠申↠之不↠許サレ。同十一月、御報恩別時之時、又重願西等尚雖↠申↠之、不忠之子細ヲ再往宣説之時、伏シテ↠理承諾ス。則面々下国之刻、於↢磯嶋ニ↡可↠修↢別時↡之由、教願令↠申候間、悉以下向ス。
五十八歳 *貞和三、
五十八歳 貞和三、
二月上旬のころ、 *綱厳随心院を退出し帰参すべき由仰せらるるといへども、 固辞し申す、 今に同宿。 和州・摂州の輩、 柏木に来るに至りて、 当方の族今年治定しおはりぬ。 錦織寺の慈空房、 当宗において学問の懇志ある由示されしあひだ、 安養寺に遣挙す。 かの引導のために、 円福寺に寄宿す。 十二月のころ、 皆ことごとく和州に下向して越年しおはりぬ。
二月上旬之比、綱厳退↢出随心院↡可↢帰参↡之由雖↠被↠仰、固辞シ申ス、于↠今ニ同宿。和州・摂州之輩、至↢柏木ニ来ルニ、当方之族今年治定シ了ヌ。錦織寺慈空房、於↢当宗↡有↢学問之懇志↡之由令↠示之間、遣↢挙ス於安養寺ニ↡。為↢彼ノ引導ノ↡、寄↢宿ス円福寺ニ↡。十二月之比、皆悉下↢向シテ和州ニ↡越年シ了ヌ。
五十九歳 *同四、
五十九歳 同四、
*夏のころ、 慈空房口入、 宝塔院の叡憲律師 ¬信貴鎮守の講式¼ を誂へたるあひだ、 草し遣はしおはりぬ。
夏ノ比、慈空房口入、宝塔院ノ叡憲律師誂ヘタル¬信貴鎮守ノ講式¼↡之間、草シ遣了ヌ。
六十歳 *同五、
六十歳 同五、
*五月二十一日、 善照の御房御往生、 御悲歎の最中なり、 御免の事種1419々にこれを申すといへども叶はず。 同きころ、 善照の御房を訪ねたてまつるために、 慈公・寂公上洛す。 この由申し入るるところに、 慈公は大宮方の縁者なり、 叶ふべからず。 寂公は参入するに子細あるべからずと 云々。 よりて慈公面目を失ひてむなしく下向す、 寂公は入りて見参しおはりぬ。
五月廿一日、善照御房御往生、御悲歎之最中也、御免事種々雖↠申↠之不↠叶。同キ比、為↠奉↠訪↢善照御房↡、慈公・寂公上洛ス。此由申入之処ニ、慈公者大宮方ノ縁者也、不↠可↠叶。寂公者参入不↠可↠有↢子細↡ 云々。仍慈公失↢面目↡空ク下向ス、寂公者入テ見参シ了。
九月七日、 和州より上洛して、 六条大宮に著く。 大和の御免の事秘計のためなり。 よりてあひ大理 時光、 時に蔵人の佐 のあひだ、 晦日にかの卿を召請したてまつり、 この事を申すところ、 治しがたき由御返答なり。 無念のあひだ、 十月二日にこれを示す。
九月七日、自↢和州↡上洛シテ、著↢六条大宮ニ↡。大和御免之事為↢秘計ノ↡也。仍テ相大理 時光、于時蔵人佐 之間、晦日ニ彼ノ卿ヲ奉↢召請↡、申↢此事↡之処ニ、難↠治之由御返答也。無念之間、十月二日ニ示↠之。
また*十月のころ、 学円を三川和田の道場に遣はして門徒口入の事これを談ず。 領状して、 便宜を伺ふべしと 云々。 *同十一日、 蔵人の佐の西大路の亭に向ひて、 終日この事を談ず、 なほ便宜をもつて意得らるべき由これを懇望す。
又十月比、遣シテ↢学円ヲ三川和田ノ道場ニ↡門徒口入事談↠之。領状シテ、可↠伺↢便宜↡ 云々。同十一日、向テ↢蔵人佐西大路ノ亭ニ↡、終日談↢此ノ事↡、猶以↢便宜↡可↠被↠得↠意之由懇↢望ス之ヲ↡。
六十一歳 *観応元、
六十一歳 観応元、
*五月のころ、 一行を書写して教願を使者となして西大路に遣はす。 大谷御義絶の事、 なほ口入あるべき由を申してこれを驚かす。 申し試すべき由領状す。 よりて教願六条大宮より連日催促に往反す。
五月之比、書↢写シテ一行ヲ↡於↢教願↡為シテ↢使者ト↡遣↢西大路ニ↡。大谷御義絶ノ事、猶可↠有↢口入↡之由ヲ申シテ驚ス↠之。可↢申試↡之由領状ス。仍教願自↢六条大宮↡連日催促往反ス。
今月二日、 先親*亜相 資名卿 の十三回忌なり。 同十三日は、 亡祖亜相 俊光 の忌日なり。 かたはら人の憂を休めらるるは、 追善の潤色なるべきか。 大谷また故の禅尼 善照房 の一回なり。 この時に当りて赦免せば、 慈悲の最詮たるべき由、 口入もとも便宜を得られ候ふ由、 詞を尽し種々の述懐に及ぶ、 慇懃の贔屓あるに就きて、 よ1420りて本人においてはあながちに子細なし。 これ天性の理なるか。 しかれども*讒口絶ざるあひだ、 左右なく許諾に及ばず日月を送る。
今月二日、先親亜相 資名卿ノ 十三廻忌也。同十三日ハ、亡祖亜相 俊光ノ 忌日也。旁被↠休↢人ノ憂ヲ↡者、可↠為↢追善之潤色↡歟。大谷又故ノ禅尼 善照房 一廻也。当↢此時↡赦免セバ、可↠為↢慈悲之最詮↡之由、口入尤被↠得↢便宜↡候由、就テ↧尽↠詞及↢種々ノ之述懐↡、有ニ↦慇懃之贔屓↥、仍於↢本人↡者強ニ無↢子細↡。是天性之理ナル歟。然ドモ而讒口不↠絶之間、無↢左右↡不↠及↢許諾ニ↡送↢日月ヲ↡。
まさにまた旧冬、 示し遣る趣、 和田忘却せず、 専使を差はし連署を勤してこれを申す、 三人加署してこれを送る。
将亦旧冬、示シ遣之趣、和田不↢忘却↡、差シ↢専使↡勤シテ↢連署↡申↠之、三人加署シテ送↠之。
真俗かくのごとく扶助の上、 性円禅尼内々に随逐して和談のあひだ、 機感純熟して、 時節到来なり。 つひに御許諾にて、 *七月五日、 免許の御状を出さる。 蔵人の佐の*廷尉自筆をもつて銘を書き、 喜悦きはまりなき由予に状を送らる。
真俗如↠此扶助之上、性円禅尼内々随逐シテ和談之間、機感純熟シテ、時節到来也。遂ニ御許諾ニテ、七月五日、被↠出↢免許ノ御状↡。蔵人佐廷尉以↢自筆ヲ↡書↠銘、喜悦無↠極之由送ラル↢豫ニ之状ヲ↡。
六日に、 教願また催促のために参向の時これを与へらる。 よりてこれを請ひ取り、 時刻を廻らさずすなはち摂州磯嶋に下り、 その夜一宿す。
六日ニ、教願又為ニ↢催促↡参向之時与ラル↠之ヲ。仍請↢取之↡、不↠廻↢時刻↡即下↢摂州磯嶋ニ↡、其夜一宿ス。
*同七日、 かの所より使者を発して、 大和これにあひ触るる。 同日、 自身はかの状を帯して、 午の刻ばかりに豊島に来著す。 披閲するところ、 喜悦千回なり。 乃至
同七日、自↢彼ノ所↡発シテ↢使者ヲ↡、大和相ヒ触ル之。同日、自身ハ者帯↢彼ノ状ヲ、午ノ刻許ニ来↢著ス豊島↡。披閲スル之処、喜悦千廻也。 乃至
八日に、 上洛す。 予、 奈有と綱厳僧都と、 酉の刻に大宮に著く。
八日ニ、上洛ス。豫、奈有ト綱厳僧都ト、酉刻ニ大宮著ク。
同九日の早旦に、 まづ西大路に向ひて、 かつ入眼を賀し、 かつ相伴して大谷に向ふべき由これを示す、 同道領状のあひだ、 乗るところの輿をば大宮に返す。 奈有をこれに駕せしめ、 まづ僧都に向へられて同道す。 一献のために二百疋これを用意す。 両国の同朋おのおの含笑歓呼のあまり、 この所に参集しおはりぬ。
同九日ノ早旦ニ、先向テ↢西大路↡、且賀シ↢入眼ヲ↡、且相伴テ可↠向↢大谷↡之由示↠之、同道領状之間、所↠乗之輿ヲバ返↢大宮ニ↡。奈有ヲ駕シメ↠之、先被テ↠向ヘ↢僧都↡同道ス。為ニ↢一献ノ↡二百疋用↢意ス之↡。両国ノ同朋各含笑歓呼之余、参↢集シ此所↡了ヌ。
同十日、 樋口の大宮の法事讃の時、 予ならびに僧都参向し、 *慈俊法印・*俊玄律師供奉せり。
同十日、樋口ノ大宮ノ法事讃之時、豫并僧都参向、慈俊法印・俊玄律師供奉セリ。
十一日、 参入して伴ひたてまつり、 かの宿所に向ひて詠吟す、 人々は亭主の先人信光朝臣・予・慈法・光養なり。 また明日は恒例の御報恩の行法なり。 もとも法延に接1421すべき由厳命のあひだ、 件の日参行す。
十一日、参入シテ奉↠伴ヒ、向↢彼ノ宿所ニ↡詠吟ス、人々ハ亭主ノ先人信光朝臣・豫・慈法・光養。又明日ハ恒例ノ御報恩ノ行法也。尤可↠接↢法延↡之由厳命之間、件日参行ス。
九月十四日は、 故光長丸往事等をこれ仰せられ、 御詠等取り出さるるあひだこれに和して、 一献の後帰京す。
九月十四日ハ、故光長丸往事等ヲ被↠仰↠之、御詠等被↢取出↡之間和シテ↠之、一献ノ後帰京ス。
以下十一月、 恒例の七箇日御報恩に参篭す。 二十八日、 結願しおはりぬ。 後の晩に及びて大宮に帰る。 しかるに世上の動乱興盛のあひだ、 河州より大枝の妙光以下参洛す。 招引の刻、 子細を申ししところ、 かくのごときの時、 一所に居住せばもとも本意とすべし。 しかれども自他階はざるによりて、 互にあひ扶けざること、 本意に背きおはりぬ。 しかればおのおの身命を全せば、 これに過ぐべからず。 ただし老齢の今においては*後会を期すべからず。 今生の今を限しかの由これ仰せられ、 すなはち御落涙千行なり。 愚朦また離憂に堪へず、 すこぶる双袖を湿せり。 翌年御入滅の後、 この事を思ひ出し、 まことにもつて最後なり。 もともこれを悲しむべし。
以下十一月、恒例ノ七箇日御報恩ニ参篭ス。廿八日、結願シ了。後ノ及↠晩帰テ↢大宮↡。而世上動乱興盛之間、自↢河州↡大枝ノ妙光以下参洛ス。招引刻、申↢子細↡之処、如↠此之時、一所ニ居住セバ尤可↠為↢本意↡。然モ而自他依テ↠不↠階、互ニ不↢相扶ルコト↡、背↢本意↡了ヌ。然者各全バ↢身命↡者、不↠可↠過↠之。但シ老齢於↠今者不↠可↠期↢後会↡。今生ノ限↠今歟之由被↠仰↠之、則御落涙千行ナリ。愚朦又不↠堪↢離憂↡、頗ル湿セリ↢双袖ヲ↡。翌年御入滅之後、思↢出此事ヲ↡、誠以最後也。尤モ可↠悲↠之。
二十九日、 すなはち下国して、 まづ妙性が宿所に著きてしばらく逗留す、 後妙光が宿所に移りおはりぬ。
廿九日、則下国シテ、先著↢妙性ガ宿所ニ↡暫ク逗留ス、後移↢妙光ガ宿所ニ↡了。
六十二歳 *観応二、
六十二歳 観応二、
妙光が宿所において越年す。 都鄙動乱して耳目を驚かすといへども、 郷内の近辺の輩参集して、 時々の念仏懈らず、 連々の法談廃ることなし。
於↢妙光ガ宿所ニ↡越年ス。都鄙動乱雖↠驚↢耳目↡、郷内ノ近辺ノ輩参集シテ、時々ノ念仏不↠懈、連々ノ法談無↠廃。
正月八日、 尊老の御札を法心これを持ち下る。 あらたに祝言を拝しことに喜悦を含む。 ただし天下騒動して河西・河北静ならず。 よりて御房中、 窮困至極の由これ仰せらる。 まことに察し申すあひだ、 志を表す条においてはその力なしといへども、 動静の式朝夕重ならざるあひだ、 愚報を申さんと欲するところに、 路次ことごとく塞がるあひだ、 行人の往反1422叶はざる由、 謳歌せしむるによりて日数を送る。 しかれども愁吟のあまり、 ただ天運に任せ、 冥助を憑みて、 帰洛すべき由法心に勧むる刻、 同十三日、 帰京す。 法心がその体とする、 帷一つの下に*紙衣を著す。 予ひそかに思案を廻して、 *鵝眼十疋あまりを紙衣の中に入れ、 予みづから*続飯をもつて一々にこれを押し付けてこれを進入す、 一提を召し寄せられて、 一旦御心労を慰めらるべき由を申すなり。
正月八日、尊老ノ御札ヲ法心持↢下ル之。新ニ拝↢祝言↡殊含↢喜悦↡。但シ天下騒動シテ河西・河北不↠静。仍御房中、窮困至極之由被↠仰↠之。誠ニ察シ申之間、於↢表↠志之条↡者雖↠無↢其力↡、動静之式朝夕不↠重之間、欲↠申ント↢愚報↡之処ニ、路次悉塞ル之間、行人ノ往反不↠叶之由、依↠令↢謳歌↡送↢日数↡。然ドモ而愁吟之余、只任↢天運↡、憑↢冥助↡、可↢帰洛↡之由勧↢法心↡之刻、同十三日、帰京ス。法心ガ其ノ為↠体、帷一ツ之下ニ著↢紙衣↡。豫偸ニ廻シテ↢思案↡、入レ↢鵝眼十疋余 於 紙衣ノ中ニ↡、豫自以↢続飯↡一々ニ押↢付テ之↡進↢入ス之↡、被テ↣召↢寄一提↡、一旦可↠被↠慰↢御心労ヲ↡之由ヲ申也。
また来る二十一日、 光長丸が一回たるあひだ、 追修の刻かくのごとくして一灯を加へんがために、 五十疋を母堂に送る、 同くこれを押せり。 そのほか袈裟綃のために粥*麞牙をもつとも少分尼衆に送る。 しかるに山崎において軍勢かの小米を奪ふ。 また著たるところの帷を剥ぐといへども、 紙衣においては手を懸けず、 存内なり。 よりて無為に京に著す。 しかりといへども京都の路次なほたやすからざるあひだ、 法心六条大宮においてしばらく休息すと 云々。
又来廿一日、為↢光長丸ガ一廻↡之間、追修之刻如シテ↠此為ニ↠加ガ↢一灯↡、五十疋ヲ送↢母堂↡、同押セリ之。其外為↢袈裟綃↡粥麞牙ヲ最モ少分送↢尼衆↡。而ニ於↢山崎↡軍勢奪↢彼小米↡。又雖↠剥↢所↠著之帷↡、於↢紙衣↡者不↠懸↠手、存内也。仍無為ニ京著ス。雖↠然京都ノ路次猶不↠輒之間、法心於↢六条大宮↡暫ク休息ス 云々。
日を移りて後、 十七日に持参するところに仰せられていはく、 この芳志もとももつて有りがたし。 すなはち御房の人を召され、 事の由を述べられて一滴を省らると 云々。 しかるにその*晩頭より御違例の気あり。 後日これを聞く、 かの一渧最後の御受用なりと 云々。
移↠日之後、十七日ニ持参スル之処ニ被↠仰云、此ノ芳志尤以難↠有。即被↠召↢御房ノ人↡、被↠述↢事ノ由ヲ↡被↠省↢一滴↡ 云々。而ニ自↢其ノ晩頭↡有↢御違例之気↡。後日ニ聞↠之、彼ノ一渧為↢最後之御受用↡ 云々。
同十九日の夕、 大谷より専使 宝寿丸 下著。 照心房状を送り、 その趣は、 大上一昨日より御不予なり、 *白地の御風の気かの由に思ひ給ふといへども、 御老体たるあひだ、 用意のため告示の旨なり。 よりて翌日 *二十日 に上洛す。 当時将軍方陣を山崎に卜む、 錦の小路の禅門八幡をもつて城とするあひだ、 上下往反の路難義1423にしてたやすく通じがたき由面々申えしむといへども、 大千の火を凌ぐ思ひを成し、 身命を忘れ進発して、 河内の地を経て鞭を揚ぐ。 近日の余寒もつてのほかの上、 今朝の烈風袖を払ひ、 すこぶる面を向けがたく、 馬蹄河を渡る処に、 湿尾の滴、 すなはち氷を結す*式なり。 人馬共もつて疲極し、 上下退屈に及ぶといへども、 処々に馬足を休め、 時々人の息を続けて、 西斜して希有に六条大宮に著く。 休息するに及ばず、 すなはち馳せ参るところに、 *去る夕御往生と。 縡の*楚忽、 すこぶるもつて*迷惑す。 ただ平日の恩顔を拝まず最後の刹那逢はざることを恨む。
同十九日ノ夕、自↢大谷↡専使 宝寿丸 下著。照心房送リ↠状ヲ、其趣ハ、大上自↢一昨日↡御不予也、白地ノ御風気歟之由ニ雖↢思給ト↡、為ル↢御老体↡之間、為↢用意↡告示之旨也。仍テ翌日 廿日ニ 上洛ス。当時将軍方卜シム↢陣ヲ山崎ニ↡、錦ノ小路禅門以↢八幡↡為ル↠城之間、上下往反之路難義ニシテ難↢輒ク通↡之由面々雖↠令↠申、成↧凌グ↢大千ノ火↡之思↥、忘レ↢身命↡進発シテ、経テ↢河内地↡揚グ↠鞭。近日ノ余寒以外之上、今朝ノ烈風払↠袖、頗難↠向ケ↠面ヲ、馬蹄渡↠河之処ニ、湿尾之滴リ、即結↠氷之式也。人馬共以疲極シ、上下雖↠及↢退屈ニ↡、処々ニ休↢馬足↡、時々続テ↢人ノ息↡、西斜シテ希有ニ著↢六条大宮↡。不↠及↢休息スルニ↡、即馳参ル之処ニ、去夕御往生ト。縡ノ之楚忽、頗ル以迷惑ス。唯恨↧不↠拝↢平日ノ恩顔↡不↞逢↢最後ノ刹那ニ↡。
*二十三日に葬礼し、 *二十四日に骨を収む。 予・慈俊法印・光養丸おのおの供奉せり。 二十五日は初七日なれば、 御修善に遇ひて後、 二十六日、 また大枝に下る。
廿三日ニ葬礼シ、廿四日ニ収ム↠骨。豫・慈俊法印・光養丸各供奉リ。廿五日ハ初七日ナレバ、遇↢御修善↡後、廿六日、又下↢大枝↡。
*二月二十二日、 五七日に当らしめ給ふあひだ、 二十一日より上洛して、 法事讃、 予が沙汰にいして勤修しおはりぬ。 予・奈有已下なり。
二月廿二日、令↠当↢五七日↡給之間、自↢廿一日↡上洛シテ、法事讃、為↢豫ガ沙汰↡勤修シ了。豫・奈有已下也。
*四月七日、 円寂を仰ぎて父祖両所の御影を図しおのおの賛を作る。
四月七日、仰↢円寂↡図シ↢父祖両所之御影↡各作↠賛。
六月二十三日、 香園院の姫宮の御文を帯し、 浄花院の長老に謁し向はる。 これ綱厳僧都の住寺聞法を望むためなり。 すなはち領状す。 よりて七月七日、 本人かの寺に向ひて向顔す、 後門弟に列して指授を得おはりぬ。
六月廿三日、帯↢香園院ノ姫宮ノ御文↡、向ハル↣浄花院ノ謁↢長老ニ↡。是為↠望↢綱厳僧都ノ住寺聞法↡也。即領状ス。仍七月七日、本人向テ↢彼寺↡向顔ス、後列テ↢門弟ニ↡得↢指授↡了。
七月七日、 江州の錦織寺の主席慈空大徳入滅す。 同十三日、 奈有訪のために先に下向せらる。 同十五日、 帰路す。
七月七日、江州ノ錦織寺ノ主席慈空大徳入滅ス。同十三日、奈有為ニ↠訪ノ先被↠下向セ。同十五日、帰路ス。
八月十八日、 予、 澄禅尼の元に下向、 みづから居住す。 愚咄大徳、 二十日に来臨して同宿す。 *この時かつは亡者の素意のため、 かつは自身の1424安立のため、 この遺跡一向に管領致し、 法命を継ぐべき由両人これを命ぜらる。 ここに予が余命いくばくもあるべからず、 綱厳僧都の相続よろしかるべき由これを示すに就きて、 慇懃の約諾あり。 その儀今に相違なし。 宿縁の追ふところか。 大谷に参篭し、 七箇日の御報恩に逢ふ。 かの報恩の結願より、 上臘病臥して、 十二日に早世したまふ。 また二十日、 かの境に下向す。
八月十八日、豫下↢向澄禅尼ノ元ニ↡、自居住ス。愚咄大徳、廿日ニ来臨シテ同宿ス。此時且ハ為↢亡者之素意ノ、且ハ為↢自身之安立ノ↡、此ノ遺跡一向ニ致↢管領↡、可↠継↢法命↡之由両人命ラル↠之。爰ニ豫ガ余命不↠可↠有↠幾、綱厳僧都ノ相続可↠宜之由就↠示↠之、有↢慇懃之約諾↡。其儀今無↢相違↡。宿縁之所↠追歟。参↢篭大谷↡、逢↢七箇日ノ御報恩↡。自↢彼ノ報恩ノ結願↡、上臘病臥シテ、十二日ニ早世シタマフ。又廿日、下↢向ス彼ノ境↡。
六十三歳 *文和元正月か、
六十三歳 文和元正月歟、
*十八日に上洛して、 一回の御仏事に逢ひて後、 また下国す。 十月のころ、 性覚・明光等、 御廟参詣のところにおいて申していはく、 大宮は経回遼遠にして甘心せず。 枉げてただ大谷の四壁の内に住すべしと 云々。 固辞すといへども面々異見のあひだ約諾しおはりぬ。 十一月は大谷恒例の御報恩念仏あり、 予また参篭す。 十二月一日、 また木部に下向す。
十八日ニ上洛シテ、逢↢一廻ノ御仏事↡之後、又下国ス。十月之比、性覚・明光等、於↢御廟参詣之所↡申云、大宮ハ経廻遼遠ニシテ不↢甘心↡。枉テ只可↠住↢大谷四壁ノ内↡ 云々。雖↢固辞↡面々異見之間約諾シ了。十一月ハ大谷恒例ノ御報恩念仏アリ、豫又参篭ス。十二月一日、又下↢向ス木部↡。
六十四歳 *文和二、
六十四歳 文和二、
年始の勤行等例のごとし。 *正月十七日に上洛して、 第三回の御追修に逢ふ。 三日、 六条より和州に下向、 奈于同道せり。 木部の開山の大徳第三回のあひだ招引せり。 六月二十七日、 柳原の前の大納言資明卿逝去す。 今小路の地の事、 孟夏のころより問答して、 大略承諾の後、 この事治定のため、 八月十八日に上洛して、 これを買得、 大宮の半作の堂これを沽却、 運んで樋口油の小路の道場の焼跡に渡すと 云々。 房 ならびに 北の房等これを渡してこれを造る。 運送の車等は大略出雲路の*乗専の助成なり。 地1425を引き壁を塗る以下の事、 教願奉行のあひだ、 桂の里の輩ことに力を尽して懃厚をいたしおはりぬ。 十一月二十七日の御報恩に参篭すること、 前々のごとし。
年始ノ勤行等如↠例。正月十七日ニ上洛シテ、逢フ↢第三廻ノ御追修↡。三日、自↢六条↡下↢向和州↡、奈于同道セリ。木部ノ開山大徳第三廻之間招引セリ。六月廿七日、柳原ノ前ノ大納言資明卿逝去ス。今小路ノ地ノ之事、自↢孟夏之比↡問答シテ、大略承諾之後、為↢此事治定ノ↡。八月十八日ニ上洛シテ、買↢得之↡、於↢大宮ノ半作ノ堂↡沽↢却之↡、運渡↢樋口油ノ小路ノ道場ノ焼跡↡ 云々。房 并 北ノ房等渡シテ之造↠之。運送ノ車等ハ大略出雲路ノ乗専助成也。引↠地塗ル↠壁以下ノ事、教願奉行之間、桂ノ里ノ輩殊尽シテ↠力致↢懃厚↡了。十一月廿七日ノ御報恩ニ参篭スルコト、如↢前々ノ。
六十五歳 *同三、
六十五歳 同三、
新居において春を迎ふ、 毎事*祝著せり。 朔に御廟へ参る。 二日に坊主を召請す。
於↢新居↡迎↠春、毎事祝著セリ。朔ニ参↢御廟↡。二日ニ坊主ヲ召請ス。
六十七歳 *延文元、
六十七歳 延文元、
正月一日、 御廟に詣ず。 十四日、 綱厳阿闍梨権律師に任ぜらる。 三月十八日、 宮参仕の事、 御本意の由御返事。 八月十七日、 光誦丸生ず。 十二月二十五日、 *光助権律師に任ぜらる。
正月一日、詣↢御廟↡。十四日、綱厳阿闍梨任ラル↢権律師↡。三月十八日、宮参仕之事、御本意之由御返事。八月十七日、光誦丸生ズ。十二月廿五日、光助任ル↢権律師ニ↡。
六十八歳 *同二、
六十八歳 同二、
三月七日、 空暹上洛す。 源海が一期の行状 ¬講式¼ を記すべき由、 望み致すあひだ在京、 四、 五日のあひだ草書しおはりぬ。 清書は綱厳僧都なり。 四月十四日より柏の庭違例す。 十六日、 当台へ招引す。 同二十二日、 亥の刻に円寂す。 六月九日、 光助律師峰に来入 第二度 す、 下向の次なり。 同二十二日、 帰国す。 大谷の念仏に参篭往反せず。
三月七日、空暹上洛ス。源海ガ一期ノ行状可↠記↢¬講式¼↡之由、致↠望之間在京。四、五日之間草書シ了ヌ。清書ハ綱厳僧都也。自↢四月十四日↡柏庭違例ス。十六日、招↢引ス当台↡。同廿二日、亥ノ刻ニ円寂ス。六月九日、光助律師来↢入ス峰ニ 第二度、下向之次也。同廿二日、帰国ス。大谷ノ念仏ニ不↢参篭往反↡。
六十九歳 *同三、
六十九歳 同三、
大谷の念仏に参篭往反せず。 十二月十八日、 綱厳 権の少僧都に任ぜらる。
大谷ノ念仏ニ不↢参篭往反↡。十二月十八日、綱厳 任ラル↢権少僧都ニ↡。
七十歳 *同四、
七十歳 同四、
正月十四日、 光助権の少僧都に転任。 青蓮院の大王、 四月十九1426日に御入滅 五十八。 二十日の夜、 御葬送あり。 予・綱厳共御輿に随ふといへども、 後に御して荒垣の内に入らず。 二十二日、 御収骨、 老骨退屈のあひだ、 綱厳参じおはりぬ。 霜月の御報恩に今年また旧に復して参篭。
正月十四日、光助転↢任権少僧都ニ↡。青蓮院大王、四月十九日ニ御入滅 五十八。廿日ノ夜、御葬送アリ。豫・綱厳共雖↠随↢御輿ニ↡、御シテ↠後ニ不↠入↢荒垣ノ内ニ↡。廿二日、御収骨、老骨退屈之間、綱厳参ジ了。霜月ノ御報恩ニ今年又復テ↠旧参篭。
七十一歳 *同五、
七十一歳 同五、
*六月二十日、 慈俊法印入滅。 百箇日以後、 真影の賛を俊玄律師これを誂へしむるあひだ、 草書しおはりぬ。 門主御筆を染むると 云々。
六月廿日、慈俊法印入滅。百箇日以後、真影ノ賛ヲ俊玄律師令↠誂↠之間、草書シ了。門主被↠染↢御筆↡ 云々。
七十二歳 *同六、
七十二歳 同六、
元日、 廟へ参る。 近年夜陰の儀を用ふるといへども、 新房主の律師しきりに申し候ふあひだ、 朝喰已後両人参詣す。 その次に祝著例のごとし。 二日、 両人招引す、 これまた前々のごとし。 *四月のころ、 空暹上洛の次に、 予先年草するところの ¬報恩講式¼、 いささか*存分の旨ありて、 条々これを書き改むべき旨趣申さしむるあひだ、 楚忽に添削を加へおはりぬ。 前後両本時によりてこれを用ふべし。 清書は俊玄律師筆を染むるものなり。
元日、参↠廟。近年雖↠用↢夜陰之儀↡、新房主律師頻ニ申候之間、朝喰已後両人参詣ス。其次ニ祝著如↠例。二日、両人招引ス、是又如↢前々↡。四月ノ比、空暹上洛之次ニ、豫先年所↠草之¬報恩講式¼、些カ有テ↢存分旨↡、条々可↢書改↡之旨趣令↠申之間、楚忽ニ加↢添削↡了。前後両本依↠時可ト↠用之。清書ハ俊玄律師染↠筆者也。
八十二歳 *応安四、
八十二歳 応安四、
十二月、 錦織寺に御下向。
十二月、御↢下向錦織寺ニ↡。
八十三歳 *同五、
八十三歳 同五、
*六月、 御影これを図したてまつる。 良円法印の筆。
六月、御影奉↠図↠之。良円法印ノ筆。
八十四歳 *同六、
八十四歳 同六、
*二月二十八日、 御往生。
二月廿八日、御往生。
右この一期記は、 存覚上人御在世の時、 綱厳僧都御前において口筆の旨、 端書を載せられおはりぬ。 ただし七十二歳已後は、 綱厳書き加へ給ふところか。 ここに去る大永のころ、 予参洛の砌、 懃忠法印に謁してこの旨を聞き、 すなはちかの一巻ここに与へ給ふ。 暫時利を須むるあひだ、 要を取りてこれを抄出し、 つとに貴辺に返したてまつる。 しかるところ享禄 晩年 世上の擾乱によりて、 常楽寺炎上の後、 かの上人の御作文御真筆等若干の篋焼失せしむと 云々。 しかるに旧冬参会の刻、 随身の条、 御懇望の旨に応じて、 疎墨の草本清書したてまつるところなり。 辞もつてこれ楚忽、 不審の事等これありといへども、 既に正本紛失の上は重ねて校合に及ばず。 そもそも御在世円城寺御経略、 諸徒の談法、 東関御行化、 万民の懇志肝要とすべしの文段除くところこれ多きか。 しかれども今現形の本書に任せてこれを写す。 ただこの一冊ことごとくはその書の功を終へず、 これによりて千万の言の中、 わずかにその一二を呈するを恨む 矣。 けだしかの中庸を聞くに、 秦皇の焚書に遇ひて、 ただ残れる十余章もって世に行ずる。 これしかしながら達子が思の本心なるものか。 いはんや明師の金言、 あに一句を廃すべきや。 よりて斟酌を顧ず早跡を忘れて愚筆を染めおはりぬ。 かたがた深窓に秘して外見に及ぶべからざるのみ。
右此一期記者、存覚上人御在世之時、綱厳僧都於御前口筆之旨、被載端書畢。但七十二歳已後者、綱厳所書加給歟。爰去大永之比、豫参洛之砌、謁懃忠法印聞此旨、則彼一巻与于給。暫時須利之間、取要抄出之、早奉返貴辺。然処享禄 晩年 依世上擾乱、常楽寺炎上之後、彼上人之御作文御真筆等若干篋令焼失 云々。然旧冬参会之刻、随身之条、応御懇望之旨、疎墨之草本奉清書処也。辞以楚忽之、不審之事等雖有之、既正本紛失之上者重而不及校合。抑御在世円城寺御経略、諸徒之談法、東関御行化、万民之懇志可為肝要之文段所除是多歟。然而今任現形本書写之。唯恨此一冊悉不終其書功、因茲千万言中、纔呈其一二 矣。蓋聞彼中庸、遇秦皇焚書、只残十余章以行于世。是併達子思之本心者乎。況明師金言、豈廃一句乎。仍不顧斟酌忘早跡染愚筆訖。旁秘深窓不可及外見而已。
時に天文二十年睦月五日これを記す
于時天文廿年睦月五日記之
青蓮院三方御相論公事訴諫之事、於園城寺諍論事、
於青蓮院御譲状草書之事、慈恩講式草書之事、写本在之。荒木道空、上野岡野円実、荒木下覚意 一乗院前門主九条禅閤息、堯海 西塔一方学頭、成慶 下野法印始*竪者成澄。
延書は底本の訓点に従って有国が行った(固有名詞の訓は保証できない)。
底本は龍谷大学蔵室町時代末期書写本。