論理 【 思考のかかわること全般】 (2004/07/11)

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「論理」 とは思考の形式、あるいはもう少し踏み込んで推論の規則を指します。

思考の形式というとき、思考の 「内容」 は問題にされていません。論理は、経験的なできごとを離れた純粋で知的な世界に遊ぶのです。では 「純粋で知的な世界」 の身分をどう考えるかというのは論理そのものとは別の問題です。 (もちろん、それをどう考えるかの違いは論理に接する姿勢に反映され、導かれる結論が変わってくることもあります。)

一般に、論理学を含む言語の研究は、構文論 (syntax)、意味論 (semantics)、語用論 (pragmatics) に分けられます。文 (語句のまとまり) の形式的な構造を扱うのが構文論、命題 (真偽を考えることのできる文) とその内容の関係を扱うのが意味論、そして言明 (実際にある意図をもって表現された文) とその発話者とのかかわりを問うのが語用論です。

これらは本来相互に密接に関連しており、他から完全に切り離して扱うことはできません。しかし狭義に論理学というときには、意味論を中心にしているのがふつうです。

有名な三段論法は、「二つの前提命題から一つの結論命題を得る推論」 とまとめることができます。命題のタイプに4種類あり、一つの推論には命題が3つあって、さらに二つの前提命題のつながり方が4つの格に分けられるので、可能な三段論法は全部で (4×4×4)×4 の 256 通りあるのですが、その中で妥当な推論となるものは 24 個しかありません。256 通りの 「形」 の一つ一つを 「真」 あるいは 「偽」 へ対応づけるのが意味論の具体的な例です。

ここで 「妥当な推論」 とは、前提が真であるならば、必ず結論も真となるような推論 (命題間のつながり) を指します。これを、それ以上簡単な命題に分けることのできない 「原始命題」 を組み合わせて 「分子命題」 を作ることと考えて翻訳すると、たとえば対偶法と呼ばれる妥当な推論規則

前提 P⊃Q、 結論 〜Q⊃〜P (「PならばQである」 から 「QでなければPでない」 を推論することができる)

(P⊃Q)⊃(〜Q⊃〜P) (「PならばQである」 ならば 「QでなければPでない」)

という一つの命題にすることができ、これは命題P、Qの真偽にかかわらず常に真となる命題になります。このような命題をトートロジー(恒真命題)といい、逆に、「ならば」 という論理語を中心として組み立てられているトートロジーには必ず妥当な推論規則が対応することになります。

ところで、妥当な推論においては、前提にすで含まれていた以上の情報が結論として出てくることはあり得ません。これでは、新しい知識をもたらす推論としては論理(学)はまったく役にたたないことになってしまいます。ところが、はっきりとした結論として取り出すことは放棄して少し結論をゆるめると、面白いことがいえます。

演繹定理:ある前提の集合狽ノ命題Pを付け加えた場合、妥当な推論により R が導けるならば、狽前提として P⊃R を結論する推論は妥当である。

少しまやかしのような気もしますが、どういうことかというと、明らかになっている前提群(知識体系)の中でなじみのある命題 R を考えたいとき、未知(真偽が確定していない)命題 P を持ち込んでも R が導けるならば、(いきなり P そのものを結論することはできないものの) P⊃R という推論は妥当だ、といっているのです。

これを、論理を「一歩踏み越えて」利用しているのが、自然科学でおなじみの仮説演繹法です。つまり、ある仮説 P を既存の知識体系に持ち込んでなじみのある(つまり、観測可能な)出来事 R が導かれるならば、P も正しいとみなしているのです。

純粋に論理的には、P⊃R と R がともに真であっても P が真とは限らず、このような推論は 「後件肯定の誤謬」 と呼ばれます。しかし現実には、論理とは別の土俵で(つまり経験的に)明らかにできることと組み合わせ、この仮説演繹法は新しい知識を得る強力な道具として利用されており、またそれを裏支えする演繹定理は、いわば語用論を意味論に翻訳して組み込んだ推論のような位置づけになります。というより、厳密な意味論にも、このような形で語用論が取り込めるからこそ、論理が面白いのですが。

新しい知識の獲得、という方面に話を進めると、事実から価値が導けるかという主題もあります。たとえば、「人を殺してはならない」 といった正当と思える主張を、論理的に導き出せるか、という問題です。

ここで、主張は語用論上の概念であり、真偽を形式的に考えることのできる命題のみを直接の対象とする意味論の範疇には入らないことに注意してください。また、前提に価値的な評価を含んだ命題が持ち込まれるならば、結論として価値的な判断を取り出すことはできます。問題は、価値を離れた「事実」に関する命題のみから価値が導けるかということです。

当然予想されるように、倫理学・言語哲学の通説においては、答は 「できない」 となっています。しかしそれでもこのような一見不毛と思えるようなことに挑戦する人が出てくるのも論理(学)の奇妙なところで、また、そこからは思いがけない収穫が得られるのです。

アメリカの言語哲学者ジョン・サールは、事実を時代や社会に依存しない「なまの事実」と、ある制度を前提にして初めて意味を持つ「制度的事実」とに分けました。たとえば、「太郎はホームランを打った」という事実は、野球のルールが前提されない限り意味づけできない(真偽が確定できない)ので、制度的事実になります。そして、制度的事実をうまく取り込むことで、倫理的な結論を導いてみせました。

もちろん、サールの仕事は、ドライに言えば、制度的な事実に隠されていた内容を語用論的によりインパクトのある形に変えて取り出しただけです。しかしそこから、では 「純粋に制度から独立した事実」 などというのはあり得るのかという問題が提起されてきます。「水は摂氏 100 ℃ で沸騰する」 といっても、そのような物理的事実を観測するものがいなくては、「記述された」 事実とはなり得ません。(これを、事実あるいは観測の『理論負荷性』と呼びます。なお、『理論負荷性』とは、本来量子論から提言され始めた考え方です。)

このようにして、形式的な意味論をその主な土俵とする論理においてすら、あるところから先では、それを遂行している 「私(たち)」 が顔を出してくるのです。現在の論理学はそのあたりを問うに十分なところまで成熟しており、人間の営みから出発している社会学系の知以上に、「私」 のかかわりをよりくっきりととらえる可能性さえ持っているのです。

【直接参照した資料:三浦俊彦『論理学入門――推論のセンスとテクニックのために』(NHKブックス)】

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