コンピュータ 【論理、情報、言語、認知科学】 (2003/06/22)

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コンピュータがあまりにも身近になった昨今、あらためてコンピュータとは何なのか整理してみましょう。

一旦、よくされているように、ハードウェアとソフトウェアを切り離して考えます。

ハードウェア的には、コンピュータは CPU・メモリ・入出力装置のセットと理解できます。

CPU (central processing unit、中央演算装置)はいろんな「命令」を解釈・実行する部分で、現在では1個の IC (integrated circuit、集積回路)になっていますが、世界初の電子式コンピュータ ENIAC (エニアック、Electronic Numerical Integrator and Computer、1945 年) では 1 万 8800 本の真空管で構成されていました。ちなみに、私が最初に接したコンピュータの IC はその集積度(内部に作りこまれたトランジスタなどの素子数)から MC68000 という名前でしたが、Pentium 4 の集積度は 1 億! に迫ります。とは言えコアとなる部分の構成は共通で、外部から命令あるいはデータを取り込む部分、命令を解釈する部分、演算を実行する部分から成ります。

メモリは、命令あるいはデータを保存しておく場所です。現行の機種ではハードディスクなどの「外部」記憶装置とメインメモリとが分かれており、外部記憶装置から一旦メインメモリにプログラムなどを読み込んでから動作しますが、単にアクセス速度の制約からくる工学上の問題で、必ずしも区別して考える必要はありません。

入出力装置は、外部とコンピュータの接点となる部分です。人間が直接利用するパソコンなどでは、入力装置はキーボードやマウス、出力装置はディスプレイやプリンタとなりますが、炊飯器や自動車などに組み込まれた制御機構としてのコンピュータでは、入力装置は各種センサやタイマで、出力装置はスイッチング機構やアクチュエーター(作動器)です。

ソフトウェアはいわゆる「プログラム」と呼ばれるものであり、その実体は「コトバ」です。

コンピュータというとハードウェアの方に目をとられがちですが、私はコンピュータの「本体」はソフトウェアであり、ハードウェアはソフトウェアの実現環境にすぎないものとしてとらえています。そうなると、とたんにコンピュータは「目に見えにくく」なりますが、その前提に立てば、コンピュータとは 『対象化され、「道具」となった「コトバ」』 と定義できます。

少し話がそれますが、「道具」の歴史を考えてみましょう。

石器・鉄器などの原始的な道具は、単に作業効率を上げるだけのものです。比喩的には、身体の拡張と言えるでしょうか。次に出現する「変な」道具が、時計と印刷機です。これらは「情報」を生み出す道具です。どちらも、おサルさんには無用の長物でしょう。そして、エネルギー革命の時代に、「動力」を生み出す道具が出現します。その前身を火の利用や火薬の発明にたどることもできるでしょうが、蒸気機関およびその後継の各種内燃機関や電動モーター、果ては原子力機関の登場は、やはり道具史上「画期的」です。そして、私はコンピュータの出現を、動力機関の出現に匹敵する「画期的」な出来事だと考えています。

コンピュータの訳語として、「電子計算機」ではすでに狭すぎ、かといって「電脳」ではとらえどころがない、といった印象があります。私の感覚では、「シンボル装置」くらいが適切ではないかと思うのですが。コンピュータは、それまで人間(あるいは拡大解釈しても生物)にしか扱えなかったコトバ=シンボルを処理できる道具であり、またシンボルを生み出すこともできる、シンボルが実体の道具なのです。

コンピュータの苦手な人がコンピュータを敬遠する理由は、どうもその「汎用性」にあるようです。手動式タイプライタの「キー」は、機械的に各文字の活字とつながっていました。ですから活字が紙をたたく位置をずらす(シフトする)ことで大文字と小文字を打ち分けるくらいが精一杯で、英語用とドイツ語やフランス語用とでさえ、別のタイプライタを作らないことには対応できません。このような道具ならば、直感的に理解できる。

ところが、コンピュータのキーは単なるスイッチです。特定のキーが押されたという信号をどのように解釈するかによって、英語・ドイツ語はおろか、日本語であろうとサンスクリット語であろうと入力できます。この「どのように解釈するか」の部分がシンボルの介在です。「ロジック(論理)」のように呼ばれることもあります。物理的な実体を離れた、言語的な約束の世界ですから、「わからない」と感じてしまう人には不気味なのが当然です。

物理的でダイレクトなつながりの間にシンボルが介在することで、コンピュータは汎用性を手に入れています。もう少し踏み込んでそのからくりを考えるならば、「間接参照」という出来事が関係します。

犬に何かを指差して示しても、犬は指を見るばかりで、指差されたものに気を向けることはありません。間接参照とはこの「指差し」と同じです。特定の状況下では、あるキーが押された信号は「A」の文字を指差している。ところが状況(文脈)が変れば「あ」の文字を指差すこともある。さらには、「全選択」という機能を指差すことさえある(ワープロなどをお使いの際、Ctrl キーを押しながら 'A' のキーを押してみてください)。私の機械では、Arial というフォントを指定するキーにも設定してあります。

実は、この「指差し=間接参照」とは、日本語などの言語にとっても本質的な一側面です。このような意味で、コンピュータ(のソフトウェア)を、「対象化され、道具となったコトバ」ととらえることができるのです。

コンピュータを使えるようになりたいならば、実は人間を理解するのが一番の早道です。私は個人的に、コンピュータを「人間の業(あるいは我執)がそのまま形になった機械」ととらえています。そう理解してしまうと、資料とヒマさえあれば、たいていのことはできます。逆に言えば、「自分はこんなことがしたい、同じようなことを考えている人は多いに違いない、だからきっとできるはずだ、ならばそこにはどんなルールがあるのだろう、(私ならこうするが……)」のように、自らの、そして周囲の人間の「業」においてものごとを考え慣れていない方には、いつまでたっても使えない道具かもしれません。

最後に、コンピュータと人間の脳がどのくらい似ていて、どのくらい違うのかに少しだけ触れてみましょう。「電脳」という訳語のイメージでとらえればかなり近いようにも感じますが、「シンボル装置」と理解すれば、類似点がくっきりすると同時に、違いも明確になります。確かに脳は、言語をはじめシンボル(=情報)を処理することに特化した臓器ではありますが、シンボルとくくったのでは漏れてしまう多くの側面――感情や直感、あるいは「こころ」や「意識」――とのつながりも無視できない「言葉だけではとらえにくい」臓器でもあります。一方、少なくとも現在のコンピュータは、「シンボル」としてデジタルに切り出されていないものに対しては本当に「何もできない」、徹底的に融通の利かない道具なのです。

【直接参照した資料:茂木健一郎・田谷文彦『脳とコンピュータはどう違うか』(ブルーバックス)】

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