人間になるとき
いよいよ本題の始まり~、始まり~。ついに主役、人間の登場! みんなは、いつ人間になったか覚えている? 生れたときからだって? 実はそうじゃないんだよ。
ある動物学者が、自分の子どもが生れたときに、同じころに生れたチンパンジーの赤ん坊をさがしてきて、いっしょに育ててみたんだって。そろって三つになるまでは何も違わなかった。お乳を飲むとき以外ただ寝ているだけだったのがだんだん起きている時間が長くなり、やがて動き回るようになって、そして遊びはじめる。双子の赤ちゃんのように仲良く大きくなっていった。
ところがあるとき、人間の子どもは突然ふわりと宙に浮いて、それまでとはまったく違う何かとして現れたんだ。チンパンジーにはそんなことは起こらず、それまでと同じように、からだが大きくなって動きがしっかりしていくというだけだったのに。
それはことばを使い始めたとき。人間は、ことばによって人間になる。ここでのことばとは、かたことの「んまんま」とかではなくて、「ちぃちゃん食べない」とか「それちょうだい」のようなちゃんとした文のこと。むつかしく言うと、きちんと文法の通っている言い回しを指すんだけどね。
人間の子どもは、まわりの大人のまねをして、つまり大人に習ってことばが話せるようになるんじゃないんだよ。小さい子どもたちってほんとうに追いかけっこが好きで、元気なときはいつもかけ回っているでしょ? 健康な足があったら、走りたくなってしまうんだ。それと同じように、順調に脳が育ってきたら、ことばを使わずにはいられなくなる。それが日本語になるか英語になっていくかはまわりの環境によるけど、何語にでも合わせることのできるやわらかい大もとのことば(正確には文法)は、生れながらに身につけているんだ。
ただ、ことばといっても「話せ」なくてもいい。手話だって立派なことばだから。その上で、実際に子どもたちが一つの言語を産み出してしまった例さえあるんだよ。
1980年ころ、南米のニカラグアでのこと。言語学者が、ろう学校の生徒たちがかくれて手話を使っているのに気づいたんだ。当時のニカラグアでは耳の聞こえない子どもたちには読唇術と発声法を教えていて、手話は禁止されていた。耳の聞こえない子どもたちのためではなく、まわりのふつうの人の都合が中心だったんだね。だから子どもたちは、だれにも習うことなく自分たちのための手話を作ってしまった。最初はジェスチャー程度のことだったんだろうけれど、最後には(専門家が分析すれば)ととのった文法があって、「あなたのかぶっている帽子はわたしのです」のような複雑な表現もできる一人前の言語になっていたんだ。もちろんだれも文法を意識していたわけじゃなくて、追いかけっこをして遊んでいるのと同じように無邪気におしゃべりをしているうちに、自然にそうなったんだよ。
あなたたち人間は、そんな風に生れついている。生れたときから二本の足で立っては歩けないけれど大きくなると当たり前のような顔をして二足歩行しているように、最初は眠っていても三つくらいから人間はことばを使うようになり、そのときからただの動物とは違う「人間」として生き始めるんだ。
だけど、確かに動物はことばを使わないけれど、ことばだけで人間は犬や猫とどう違うんだろう。人間とただの動物が違うとは、厳しく言うならば住んでいる世界が違うということ。そんなこと、急に言われてもわからないよね。
でも、あなたたち人間はネコやウサギとは違う世界に実際に住んでいるんだ。それを受けいれてもらえないと、今話そうとしているいのちの物語はちゃんと始まらない。だから、もう少ししんぼうして聞いて。
みんなは、たとえば犬って、悩むことがあると思う? もちろん、けがをして痛いのは同じだし、何だか気がのらなくて学校行きたくないというのと似たことは動物にだってある。犬もかぜひくし。しかしそういうのとは違って、「どうしてあんなことしてしまったんだろう」と落ち込んだり、「わたしなんて生れてこない方がよかった」などと思いつめてしまうような悩み方を、動物はできるのかなぁ。
確かに、しかられたときの犬って申し訳なさそうなしょぼんとした顔をしている。反省しているのかどうかはわからないにしても、楽しくないのは間違いなさそう。けれどね。犬は、あなたたち人間が悩むように悩むことはないんだ。ことばが使えないから。だから反対に言えば、もしことばを使うようにならなかったら、痛かったりしんどかったりすることはあっても悩むことはないってこと。ことばを使えるって、いいんだか悪いんだか。
じゃあ、あらためて、ことばを使うことで人間になっているあなたたち(昔のぼくもそうだったんだけど)って、どんな世界に住んでいるんだろう。二本足で歩きはじめたらハイハイしていたときやだっこされてオッパイ飲んでいたときのことなんかきれいさっぱり忘れてしまっているように、ことばが使えるようになってからはことばを知らなかったときのことなど思い出せなくなっているだろうけれど、ことばのない世界は、何も悩むことなく今起こっていることにはりついて心地いいか悪いかだけで行動していればすむ、ある意味では気楽な世界だったんだ。
犬でも猫でも、おなかが足りてさえいればいくらでも寝ているでしょ? 養鶏所のニワトリにしても、せっせとごはんを食べて、別に苦にもせずひたすら卵を産み続けている。もちろん、ニワトリたちが不快に感じないよう最低限の広さは取ってあるし、雨にぬれることも暑い・寒いもない。そりゃ、散歩に行けたり広いところで動き回れたりすればもっと楽しいかもしれないけれど、それができないからといってふさぎこんだりはしないよね。人間が思うよりも、彼らは自由なんだ。というか、自由ということを知らないから、不自由だと感じることはない、というよりできない。
(ぼくは人間でまだ赤ん坊だったとき、ハイハイが得意だったんだよ。元気な大人でも途中で休まなくては息切れするくらいの長~い石段をハイハイだけで登ったこともある。それにことばを使い始める前のあの平和な感じも覚えていて、けっして嫌いじゃなかった。今はもっと違う意味ではるかに平和だから、あのころに戻りたいとは思わないけれど。)
みんなは、ただ何もせずに寝てばっかりいられる? 寝てるばかりじゃむつかしいなら、好きなだけゲームをしているというのでもいいよ。(ゲームが楽しいというのにも実は人間であることがからむんだけど、まぁそれは無視して、要するに心地いいことだけしていればいいということ。)ついでに、おいしいものも食べたいだけ食べられるということにしておこう。養鶏所のニワトリのように。
試したことはないからほんとうのところはわからないにしても、おそらくというよりは間違いなく、しばらくは楽しくてもだんだん不安になってくるんじゃないかな。「こんなことばかりしていていいんだろうか」と。つまり、悩み始めるんだね。
ことばを使い始めたときから、あなたは、目の前で今起こっていることから離れて、宙に浮かび上がっているんだ。だから、今ではない明日のことが考えられる。昨日のことを反省できる。そこではじめて、自由と出会う。夢も希望も、目の前の現実とは違うところにひろがっているよね? でもそれと同時に、悩みも目の前の今が自分の思いとはどこかずれていることから生れてくる。希望も自由も悩みも、実はほとんど同じできごとなんだ。みんな、今という現実にとけ込んでだけはいられずに、そこから蒸発してしまっている「人間」という事実の中にあるんだから。そのため、あなたが人間である限り、どうしようもない心細さを離れることができない。だって文字通り足が地に着いていないんだもの。
人間って、そんな宙ぶらりんなありさまのことなんだよ。でもだからこそそれがそのまま、いのちのほんとうのありように重なることができるんだ。何だか恐ろしそうだけど、その向こうにおおきなよろこびがひろがっているのが今始まったばかりのいのちの物語。
楽しみでしょ? でも、いつも少しだけ覚悟はしていてね。もともとなかったはずの足元が、もう一度抜けてしまうときがあるはずだから。
ことばの力
ことばを使っているということが、よくわからないけど大変なことみたいだとは気づいてもらえた? とりあえず、すっきりしないモヤモヤとした気分になってくれたらそれで十分なんだけど(ぼくも意地が悪いなぁ)。その、はっきりしないモヤモヤ感こそが宙に浮いているということなんだから。
それに、あなたがもし中学生だとしたら、どうしてもわかったような気にならないというのには理由があるんだ。先にそれを説明してあげよう。
三つくらいから先、人間はみんな宙に浮いている。子どもも大人もお年寄りも。それはいっしょ。でも、「宙に浮いている」ということがわかるには、その「宙に浮いている様子」を
蟪蛄とは夏のセミのこと。朱陽の節はお日様が真っ赤なとき、つまり真夏。「あに~や」は
あなたたちはみんな人間として宙に浮いているんだけど、宙に浮いていることしか知らなかったら宙に浮いていることはわからないんだよ。
ところが思春期という時期が過ぎて大人になると、子どものころはまだ穴が開いていてやわらかかった頭のてっぺんの骨が固まって閉じるように、しっかりした二階がひとりでにできる。それでやっと、宙に浮いているというできごとを眺めおろして、なるほどと納得することもできるようになるんだ。
ただ、中学生くらいの方が実ははるかにリアルに感じていることもあるから喜んで。大人になって二階にのぼると、ほとんどの人はその二階を地面と勘違いし、自分が宙に浮いていることを忘れてしまう。宙に浮いていることが人間として生きていることなんだから、実は大多数の大人は生きるのをやめてしまっているんだ。百人に九十九人、千人に九百九十九人くらいがそう。(これは大変な秘密なんだけど。)でも思春期まっただ中だったら、ほかに逃げ場がないから
さて、これで少しは楽に、わけがわからないままでいられるようになってもらえた? ほんとうは、じょうずにつきあえるようになったら、わけがわからないというのはすごく素敵で楽しいことなんだよ。きっと、いちばんすごいことはわけがわからないことの中にある。でも本物のわけのわからないことにきちんと出会うためにも、わかればわかることは片付けてしまっておいた方がいい。だから、ことばを使うということがどんなことなのかもう少し説明してあげよう。
実は、ことばのはたらきの秘密を明かすヒントが、これまでの話の中にもう出てきているんだ。「眺める」というのがそれ。眺めるためには、距離が必要でしょ?
どこかの街へ向かって車で走っていると、「どこどこ 90km」といった標識があるよね。近づくにつれて「どこどこ 43km」みたいにだんだん距離が小さくなっていく。昔、面白いおじさんがいて、90km と目にすると「時速 90km で走ったらあと一時間だ」。ほんとだ。そして 43km になったら「時速 43km で走ったらあと一時間だ」。そうだけど……。いつまでたってもあと一時間だった。2km くらいまでは見かけるけれど、その街へ入ってしまうともう標識はない。距離がないから示せなくなるんだ。
ことばのはたらきの一番根っこにあるのが、この離れてさし示すこと。盲導犬とかはちゃんと命令を理解するけれど、犬が人間のようにはことばを使えない証拠に、犬には指さして教えても通じないよ。えさを投げてやったのに気づきそこねてトンチンカンなところばかり探しているとき、「違う、あそこ!」と指さしても、指を見るばっかりで指がさしている先には気が向かず、ものすごくもどかしい気分になることってない?
ことばが間に入ることで、直接のつながりが切り離される。その力は実はすごいんだよ。
昔の、機械式のタイプライターを見たことのある人っているかなぁ。ほんとうに、Aのキーは a と A の活字がついたバーにつながっているんだ。大文字の A は a の活字の少し上にあって、ふつうに打ったときにははずれて当たらず a が印字される。A を打つには「シフト」キーを押さえてどっこいしょと機械的に用紙ごと当たる位置を持ち上げるんだ。(シフトするとはずらすという意味。)するとずれていた A の方が当たって A と印字される。かなり力のいる操作で、それを小指でするんだから大変だった。機械式タイプライターでは a と A を一つのキーで実現するくらいが精一杯で、少し違う文字や記号があるだけでもドイツ語・フランス語・スペイン語……用には別のタイプライターを作るしかない。日本語なんて文字が多すぎて同じような仕掛けでははじめっから無理。
ところが、コンピュータのキーボードはタイプライターのようにはコンピュータの本体とつながっていないんだ。「この位置にあるキーが押された」という信号が送られるだけ。その位置のキーが押されたことをどのように解釈するかは、コンピュータの中にある対応表によるんだよ。だから対応表を入れ替えれば、一つのキーが事実上何だって表せるわけ。たとえばAのキーはかな入力なら「ち」だし、Ctrl(コントロール)キーといっしょに押さえれば「全選択」という機能になるし(all とのつながりだね)、文字であろうと機能であろうと自分で好きなものを割り当てることだってできる。劇的に便利になるでしょ? もっともそれが、苦手な人にとっては恐ろしい理由でもあるけれど。ダイレクトにつながっていないから、へたに触ったらどんなことが起こるか想像すらできないんだ。ノートパソコンには NumLk(ナムロック、number lock の略)という機能があって、I を中心に周囲のキー(7~9 は共通)を数字入力に使うことができるようになっている。知らずに NumLk キーに触れてしまっていることがあるんだ。そうすると「とつぜん」とローマ字入力するつもりが「t6t4ぜん」になる。突然そんなことが起こったらパニック!
このように、ことばを使うことであなたたち人間は現実の地面から離れ宙に浮く。それをくり返せば、どこまででものぼっていけるんだ。三階にのぼって二階を眺め、四階から三階を……という風に。
昔、たくさんのお坊さんたちが、中国にまだ届いていない仏教の経典を求めてインドへ行った。西遊記の三蔵法師が有名だね。そのころの中国からインドへの旅は命がけだった。途中、絶壁で道がないところがあるんだって。崖に点々と穴が掘ってあって(どうやって掘ったんだろう)、そこを通るときには一人ひとりが丸太を二本かかえていく。一本目の丸太を一つの穴に差し込んで足場にし、その上に乗る。そして次の穴に二本目の丸太を差し込んで乗り移ると、最初の丸太を抜いて三つ目の穴に差し込み……。そりゃ理屈では通れるけれど・・・。実際、中国を出発したときには数百人の大部隊が、往復して無事に帰って来たのは数人のこともあったんだとか。
でもそれと同じくらいの曲芸を、人間たちはことばに乗ってしているんだよ。
ことばの力の二つ目に、ことばを使うことで、人間は現実ばかりか時間からも離れているんだ。
日本語では身近すぎてわかりにくいから、外国語を学習するときのことを考えてみるね。何語を習うにしても、最初は現在時制から始めて、そのあとで過去とか未来とか、場合によっては日本語にない完了とかに進む。でも現在時制って、実はかなりむつかしいって知ってた?
次の英文は、意味の取れないナンセンスな表現だってわかるかな。
×I eat an apple.
どこが変かというと、現在時制の eat が要求するひろがりと、リンゴが一つなのとがぶつかってしまうこと。過去形や未来形なら問題ないんだ。
○I ate an apple. (リンゴを食べた。〔一個でつじつまは合う〕)
○I’ll eat an apple. (リンゴを食べよう。〔一個でつじつまは合う〕
もし現在実際に起きていることを表現したいのなら、現在進行形にする必要がある。
○I’m eating an apple. (リンゴを食べている。〔ふつう一度に食べるのは一個だろう〕)
そしてどうしても現在形を使いたいなら、リンゴを複数にすればいいんだけど。
○I eat apples. (わたしはリンゴを食べる。〔いろんな場面でを引っくるめた話なので、一個では困る〕)
最後の正しい現在時制の文の表している内容は、「(嫌いじゃないよ、)リンゴは食べる」か、あるいは「(毎日ってほどじゃないにしても、当たり前によく)リンゴは食べる」といった、一般的な事実なんだ。だから現在時制は今より広い。というより、一般的な事実なんて、毎回毎回時間の中で現実に起きた・起きている・起きるであろうことからは離れて、時間にとらわれないどこか別な世界でのことのように眺めないと見えてこないよ。現実に起きることを全部包んだもっと大きな別のことなんだから。
ね? いわれてみると確かに、あなたたち人間は時間を離れたそのような広々とした世界にも頭を突っ込んでいるでしょ? だから、おとぎ話も読めるしSFもついて行けるしゲームの世界にだって入っていけるんだ。それがことばの力。
でも、いいことだけじゃない。頭はことばの世界に入っていけるにしても、からだは動物たちと同じ現実の中をはい回っているんだから。おなかもすくし眠くもなる。ことばの力(それは人間が持って生れたものなんだけど)で、あなたたち人間は頭とからだに引き裂かれてしまっている。それとどう付き合っていくかは、実は大変な問題なんだよ。
ことばのおしえ
せっかくだから、もうひと踏んばりことばを見つめてみよう。でも、これからしばらくの話はかなりむつかしくなると思う。二階ができていない子どもにわからないだけじゃなくて、おそらく日本で生れて日本ですごしているだけの大人にもわかりにくいんじゃないかな。
どういうことかというと、日本という国はものすごく豊かでしかも激しすぎない自然に恵まれ、その上まわりの国とは海でへだてられて、平気で安心しきっていられるところだということ。真冬の北海道とかでない限り、不用意に寝込んでしまっても凍死することはまずない。逆に一年中夏だったら自然の方が猛威をふるってか弱い人間なんか入り込めないジャングルになってしまうけど、冬があるおかげで夏の間茂っていた草木もおとなしくなってくれる。それに理解できない言葉を話して何を考えているのかわからない人たちとでっくわすこともそんなに多くない。そんな国は南の海の小さな国くらいで、世界中でもめずらしいんだ。
電車とかバスとかに乗って遠くへ出かけるとき、荷物を置いて順番取りをして飲み物を買いに行ったりすることってあるよね。同じことをニューヨークの駅でしたらどうなると思う? 当然、帰ってきたら荷物がなくなっている。じゃあ、イスラエルの空港だったら? 答は、爆弾処理班が飛んでくる。もちろんブラックなジョーク(毒のきいた笑い話)だけど、日本にいたら平和すぎて気づけずにいることってたくさんあるんだよ。
面白くなかったらここは飛ばしてくれてもいい。今、ほんとうに話したいのはいのちの物語なんだ。でもいのちとは違う何かに触れて初めてくっきりするいのちのすがたもあるから、できればつき合ってもらえると嬉しいけど。蟪蛄春秋を識らず、だものね。
あなたたち人間は、ことばによって
宙ぶらりであること、引き裂かれたままでいることはつらいので、人間はそれを解決しようとする。しかしそのときどっちへ向かって解決のための一歩を踏み出すかによって、微妙だけれど決定的な違いが生れるんだ。大ざっぱにいえば、徹底的に頭についていくか、頭についていくのは放棄するかで。
ぼくが話したいのは(というより話すことができるのは)頭についていくのをやめたところにひろがるいのちの話なんだけど、頭について行くふりをしてみたらどんなところへたどり着くのか、少しだけ
日本人は、無理に頭について行って離れる必要がないくらい快適な環境の中にいるんだから、ふつう最初からそんなことはしない。少しでも気を抜いたら生きていけない砂漠の中だったり、暗くて長い冬のあるところだったり(日本は、北海道の北の端さえ緯度でいうとスペインからあまりはずれない。ドイツもイギリスも丸々日本よりはるか北にある。本州の南はアフリカ大陸側に入るんだよ。北海道の北のサハリンのさらに北半分くらいになるイギリスでは、冬の間はまだ夜が明けない暗い中を学校や会社へ出かけるのが毎日。もっと北の北欧はもうアラスカといっしょで、オーロラが見られるんだから)、あるいはまわりはみんな自分たちとは言葉も見かけも違う人たちの国で、いつ攻めてこられるかわからないとなったら話は変るよ。
のほほん、のんびりと生きているだけじゃすまなくて、「オレたちは間違っていない、われらこそ正しいんだ」と何かにしがみつかなくてはならないときだってある。そこに正義という考え方が生れる。そしてそれを支えているのもことばなんだ。
ことばを使うと、「山の向こうの池のまわりにはおいしい
何でもいいんだけど、そうだなぁ、たとえば「わたしは光だ」と考えてみてごらん。何もなかったところに突然新しい世界がひらける感じ、を少しは味わってもらえるんじゃないかな。(それが役に立つか立たないか、まわりの人にも賛成してもらえるか相手にされないかは別問題だよ。)
何かと何かをつなげて新しい世界をひらくはたらき。これがことばの力の中では一番大きいんだ。何語かによってくっきり現れることもあいまいなこともあって、日本語では少しぼんやりしているけれど、英語では
そして、be 動詞が何かと何かをつなぐのではなくてつなぐものがないままに裸で使われると、「
God is. (神は存在する。)
のように。あるいは、デカルトという人はこんなことも言ってるよ。
I think, therefore I am. (我思う、ゆえに我
さてここが一番むつかしいところなんだけど、「存在」とはただ何かが「ある」というだけのことじゃなくて、むしろ「新しい世界がひらかれる」ことの方が大切なんだ。新たにひらかれた秩序だった世界の中にきちんと置かれること、それが存在するということ。そんな感じ。だからただ石ころがころがっているだけなら、厳密には「存在する」には届いていないんだ。だれかがそれを見て「石だ」と認めたとき、はじめてきちんと存在することになる。少し極端かなとも思うけど、そのくらいに言っていいだろう。つまり、存在ってことばの世界の中ではじめて成り立つできごとなんだ。
日本では、こんなにガチガチに
キリスト教、イスラム教、そしてユダヤ教をまとめて一神教と呼ぶ。教義は少しずつ違っていても、みんな同じ唯一の
それがどういう意味なのか、ちゃんとわかっていない日本人がほとんどだろうなぁ。日本の神話にも、イザナギ、イザナミという二
念のために整理しておこうか。「人間は、そして人間のみが、ことばを使うことによってただの現実という動物たちと同じ地平から離れ、高みにのぼることができている。そこでかすかに
ぼくはそのままそちらへ進んだわけじゃなくて覗き見しているだけだから、少し違っているかもしれない。でも、おそらくそういうことのはず。この話をぼくは、すごいと思う。
最初、頭についていくふりをしてみたらなんて言ったけれど、ここでの話に頭ではちょっと失礼だし、一神教のことばで理性と言いかえておくね。人間は理性を持って生れてきた。それがことばを使うということに現れているんだ。それはあなたたち人間にとってはだれにも同じ。その理性に信頼して、そのまま完全な正しさにつながれるとすれば、宙ぶらりであることはみごとに解決される。しかも同時に、不十分に正しいことしかできない自分の実状も、理性をもって生れてきた人間として果たすべき責任も、つねにごまかせずに目の前に突きつけられる! まさに、人間として生きることへの、みごとな答でしょう?
だから、不用意に「わたしは無神論です」なんて言わないで(「無宗教です」と言っても同じこと)。こんな笑い話があるんだよ。舞台はアメリカ。
ある小学校の先生が、子どもたちの前で、「わたしは無神論者です」と表明した。
(深く考えずに自分は無神論だなどと口にすると、わたしは人間以下の動物ですと言っているのと同じように受け止められると覚悟して。でも特定の場面では、わたしは古い考え方にとらわれず、自分できちんと考えて行動するという決意表明にもなり得るんだ。)
続いて子どもたちに、「あなたたちは無神論者ですか?」と問いかけた。子どもたちは無神論者などという言葉は知らず、でも先生のきっぱりとした態度につられて、その方がいいんだろうと「はい!」と答えた。ただ一人の女の子を除いて。それに気がついた先生が、その子に尋ねる。「あなたは何なの?」その女の子は答えた。「わたしはキリスト教徒です。」先生はさらに聞く。「あなたは、どうしてキリスト教徒なの?」女の子はなぜそんなこと聞かれるんだろうと不思議に思いながら、「それは、わたしのお父さんがキリスト教徒で、お母さんもキリスト教徒だからです。」先生は少しいら立って、「じゃあ、あなたのお父さんがあほで、お母さんもあほだったら、あなたは何になるの?」女の子はしばらく考えて、「そのときは・・・わたしは無神論者になると思います。」
ことばが使えることつまり理性に信頼して、そのまま上へと突き抜け、宙ぶらりであることに解決を与える考え方。それを、「ことばのおしえ」と呼んでおくね。それは「存在(秩序の中に、
でもぼくはそのおしえの中にいない。なぜかっていうと、ことばのおしえにはいのちの居場所がないから。ぼくはかぎりないいのちの国を選んだ。「ことばのおしえ」に対して言うなら、ぼくは「いのちのおしえ」の中にいて、今いのちの物語を語ろうとしているんだ。話をフェアにするために言っておくと、実は「いのちのおしえ」には存在という発想がない。正義も意味を持たない。秩序も、ことばのおしえでのような響きではないと言っていい。調和というか、もっと違う響きでならばもちろんあるけれど。
ひょっとして、今の話を変だと感じた人がいるかな? 「存在」はないと言いつつ、そもそも「いる」とか「いない」とか「ある」とか「ない」とか、それって「存在」に関わる話じゃないの? う~ん、そう思われてもとりあえずは仕方がないなぁ。とにかく話を続けてみるしかなさそうだ。
ということで、つ・づ・き。
こころのひろがり
いのちの物語なのにしばらくことばの話ばかり続いて、頭に汗をかかせちゃったね。やっといのちに戻れる。でもそうすると、今度はどこに汗をかいてもらうことになるのかしら。
いのちの物語の本題は、あなたたち人間はことばによって人間になっている、ことばを使うことで宙に浮いているのが人間なんだということから始まった。そのままことば(理性)にすがってのぼっていくと、最後には存在に行き着いて完結する、ということだったよね。それがことばのおしえ。でも、そこで気がついてみるといつの間にかいのちが見えなくなっている。それはぼくには困る。
どこかで違う道を探さなくちゃいけない。人間が、宙に浮いているというのははずせないんだ。それがことばの力によるというのも、間違ってはいない。しかしことばに寄っかかりすぎるとそのまま上へのぼっていってしまう。だから、宙に浮いてしまう原因のことばのはたらきを、違う方向から
とらえどころなくぽわんとひろがっているといったら・・・こころ。
あはは。そうなんです。いのちの物語は、実はこころが舞台なの。なら、最初からこころから始めてくれたらいいのにと言われちゃいそうだけど、こころってほわほわすぎて(一面では
ことばからこころへ乗りかえると、あなたたち人間の位置づけも少し変るね。ことばだと動物との間に線が引かれるけど、こころだったら動物と人間の区別はあいまいになるから。でも、植物は入らない。「生きとし生けるもの」というと植物も入っているように感じるだろうけれど、「一切衆生」は(人間も含めた)動物たちのことなんだ。(正確には動物だけじゃなくて、鬼や天神などもいっしょ。)衆生というのは
実は、衆生(有情)の原語の sattva は、英語の be 動詞に相当する
衆生(有情)はこころのはたらきをもつもののことだけれど、それはそのまま、迷っているものという響きも持っている。つまり、こころのはたらきと迷いとはほとんどぴったり重なるんだ。ところで今のぼくは、衆生に入るの入らないの? 入ることも入らないこともある。こころのはたらきをもつことで迷っているもの、の意味でなら、入らない。ぼくはもう迷いを離れているから。でも純粋にこころのはたらきをもつものの意味でなら、入る。その証拠にこうやって話しているでしょ。
こころのはたらきとは、求心力をもつこと、だとしておくね。「こころ」ということばの語源は、
でもここで立ち止まるわけにはいかないから、ことばと遊んだときのことをふり返ってみよう。ことばの力で、人間は宙に浮くんだった。宙に浮いているから悩むし何より心細いわけで、宙に浮いていることは迷っていることと
(啓示とは
それにならって、こころをひろげてみよう。こころの本質は求心力だから、求心力がはたらいているモデル(参考にしていろいろと考えたり試してみたりする簡単な例)として、渦をイメージしておくことにするね。たとえば台風のような。
どうせ始めるのなら小さいところからの方があっさりしていいから、まず原子を考えてみようか。原子は、原子核というプラスの電気を
(必要なら、原子核もそれだけで取り出すことができるかたまりだからそこから始めてもよかった。でもそうすると「強い力〔物理学の専門用語なんだよ〕」などなどとりつく島のないものがたくさん出てきて、実はぼくもうまく説明できない。いのちの感覚とはずいぶん違うんだ。逆にいえば、原子は多少〔でもなくてかなりだけど〕無理すれば渦のイメージでもとらえられるということで、それって「原子にはこころがある」と解釈できる可能性があるということ。もちろんその場合のこころとは、渦のイメージの重ねられるような、同じ形をとどめていられる原動力としての求心力の意味。でもその求心力は我執に通じるものだった。原子もすでに迷っている?)
続いて、いきなり大きさで七
細胞の内と外は細胞膜で仕切られている。細胞膜の外から、栄養のもとや、細胞の各部分を作る材料になるもの、酸素、水など、たくさんの物質が絶えず細胞の中へ流れ込んでいる。流れ込むだけだったらいずれ細胞はどんどんふくらんでいって最後は風船みたいにはじけてしまうはずだけど、そうならないのは同じだけの量の物質が細胞の外へと流れ出しているから。老廃物、その細胞が作り出した生産物、二酸化炭素、水などなどが細胞膜を通して細胞の外へせっせと送り出されている。
顕微鏡で覗いただけだと、全体として大きさも変らず静かにじっとしているように見えるかもしれない。でも物質の出入り、流れに耳をすますなら、周囲から大量の水蒸気を含んだ空気が流れ込み、中心部で行き場がなくなって上昇気流になって、空気は上にのぼると冷える性質があるから水蒸気が水になり雨となってはき出され、かわいた空気が上空からまた周囲へ帰っていくのと似た、激しいけれども全体としては調和してどこか静かでもある台風の渦と、イメージ的に重なることが起こっているんだ。
デタラメにいろんな物質が行きかっている環境にさらされながら、許せる物質のみを選択的に取り込み、同様に特定の物質を外へはき出して、安定した流れを維持し、そのさ中で平和によどんでいるのが細胞。そのときの求心力を、
その細胞が数十兆個集まって、人間くらいの大きさの動物のからだになる。生命活動だけで言ったら、はるかに複雑になっているにはしても細胞の保身と基本的に変らないかな。だからそこに行動を重ねよう。動物なんだし。行動が現れると、思いが生れる。思い、意志がまずあってそれで行動するというより、ほんとうは行動の方が先なんだよ。ただ水が流れたりリンゴが落ちたりという自然法則にそっただけの運動ではなく、動物的な行動を見ると、そこにみんなは目的(
そのようないろんな思いが入りまじる中、心地のよい、なじみやすい感触の思いが集まり重なってまとまりをもってくる。それが「自分」。だから、自分って確かなものとして最初からドーンとあるんじゃなく、周囲との関わりの中で生れ、常に揺れ動いているものなんだよ。もしだれとも関わらずにずっとひとりでいたら、だんだん自分は弱く薄くなっていってしまう。
紀元前十世紀のギリシア人には意識がなかった、という研究があるんだ。ここでの意識とは自己意識、つまり今いった自分のこと。ギリシア人が取り上げられているのはたまたまギリシア神話などの研究材料があったからのことで、事情はどこの何人でも変らないはず。紀元前十世紀ごろ、ギリシア人は百人程度の小さい部族でまとまって暮らしていたんだって。ほかの部族との交流はそんなに多くなかったらしい。そうすると、周囲にいるのはものごころついたときから見知っている人たちばかり。同じ環境の中で現代のようには変化の多くない同じ暮らしをしていれば、それこそ顔を見るだけでどんな気分でいるのか何を考えているのかみんなわかるよね。そんなあいだは、自分と他人との区別はぼんやりしていて、自分を自分と意識する必要がなかったということ。
ところが時が進んで少しずつ人口が増えてくると、次第に周囲の他の部族とぶつかることが増えてきた。あいつら、顔つきも似ているし同じような言葉を話してもいるんだが、どうも感じが違う。いったい何を考えているんだろう? そういう違和感に出会ってはじめて、照らし返されるように自分が現れたんだ。その自分も、最初は個人としての自分ではなく、ほとんど部族全体にひろがった自分たちという意識だったはずだけど。
つまり、あなたたち動物のからだの外で成り立っているいろんな思いの中の特定の感触のもの、心地よいものだけが、ちょうど自分のからだとかぶるくらいのひろがりでよどんで渦を巻いているさま、それがこころだということ。もともとからだにとっての保身の求心力がはたらいていた上にそれが重なると、動物にとってのこころの求心力は
一度整理しておこう。ことばのおしえとは独立にたどってみると、衆生はこころのはたらきにより我執にとらわれて迷っているんだね。その迷いの解決は、迷いの原因であるこころのはたらきそのものをひろげていったところにみつかるはずだ。そういう見通しで、ここからいきなり一切衆生へ話をひろげる。個々の衆生はそれぞれの排他の我執でしこっているんだけれど、一切衆生にひろがってこころが現れるとすれば、それはどんなすがたになるんだろう。
個々の衆生、つまりあなたの側から受け止める限り、ひろがったこころのはたらきは囲い込んでいる「自分」にとっての「他(排除しているもの)」なんだ。だからあなたには
一切衆生には、その外がない。だから一切衆生にひろがったこころは、求心力としてのしこる力というよりはふくらんだ風船のようなみなぎる力として現れるんだ。あなたの側からはそのはたらきは「他」で、排他のこころのはたらきで自分の内から閉め出している。でも一切衆生のこころには「他」がないから、そのこころは何かに背を向けてしこることなんかできなくて、一切衆生としての一人ひとりをしっかりひとつに結びつけとけ合わすはたらきとしてピンとはっているんだ。
一切衆生は、つまりあなたは、自分のこころのはたらきで小さくしこっている。あなたがあなたとして生きている限り、あなたにそれをどうすることもできないよ。あなたが何をしても、それはあなたのしこりの内だから。でも、あなた自身のわからないところで、言うならばあなたのこころのはたらきを裏表ひっくり返したようなかっこうで、あなたのしこりを打ち消してしまう力ががはたらいているんだ。それが一切衆生にひろがったおおきなこころ。
小さいこころは、みんなしこるはたらきとして現れる。しかしおおきなこころはしこることができなくて、みなぎるはたらきになるんだね。しかもおおきなこころは、小さいこころと別にはたらいているんじゃない。そこに迷いの解決、救いが実現しているんだ。
おおきないのち
やっといのちの物語らしくなってきた。しかしいのちがいのちとしてほんとうにひとり立ちするには、さけて通れないことがあるね。ことばのおしえとの関係をはっきりさせること。やっとそれに取り組めるところまで話が進んできたということなんだけど、最後にもうひと踏んばり大きな山にのぼろう。
世界中にはたくさんの素朴ないのちのおしえがある。ことばのおしえが受けいれられている国にでさえあるんだよ。ある自然環境の中で暮らしている人たちが、災害・
そういう素朴ないのちのおしえ(アニミズムというんだよ。アニマは素朴に考えられた生命原理のようなもので、動物のアニマルにも通じる)には、筋道の通った体系がないんだ。神話にたくさんの神様たちが出てくる場合その間に序列があったり、いろんなできごとにもっともらしい説明がつけられたりはしていても、どれもどこのだれでもが納得できるような根拠のあるものじゃない。
特定の自然環境あるいは文化を離れずに暮らしている人にとってならそれはそれでいいんだけれど、ぼくには少しさみしい。日本人なら日本人だけにしか通じない小さなお話になってしまいかねないから。ぼくは、人間(衆生)だったらだれにでもうなづけるようないのちの物語を語りたいんだ。一時期「千の風になって」という歌が
それに、アニミズムはことばのおしえに勝てない。けっして勝ち負けが問題というわけではなくて、アニミズムではことばのおしえが突きつけてくる厳しい問い――人間とは何か、人間はどう生きるべきか――にまっとうに答えられないんだ。もし真剣に答えようとすると、結局ことばのおしえを受けいれるしか道がなくなる。
(簡単に話のつながりだけたどっておこうか。ことばのおしえが投げかけてくる問いに答えるためには、まず正当にその問いを受け止めて踏んばれるだけの根拠や原理が必要でしょ? ところがアニミズムにはちゃんとした体系がないんだから、それから作らなくては対抗できない。しかし存在そのものの君臨〔つまり God による創造〕にまさる原理などあり得なくて、それを自分の出発点にする以外の方法はないんだ。それはことばのおしえを受けいれ、自分を被造物と認めることにほかならない、ということ。)
ざっくりと言い切るならば、ことばのおしえは真理だということ。すべての理性あるものはその内にいる。被造物として。
だから、ほんとうにだれにでも通じる話がしたければことばのおしえを説けばいいんだけど、一つだけ大変な問題がある。何度かちらっと触れたように、ことばのおしえにはいのちの居場所がない……
ことばのおしえの世界に、生きものがいないということじゃないんだよ。ことばのおしえの核心は存在にあって、それは理性によってでしか関わることができないんだ。だから理性なくただ生きているというのは無価値、無意味だということ。理性あるものがその理性を正しい方向(God に義とされる方向)で用いることが課題なんだけど、その
じゃあぼくはどうなるかというと――大丈夫。ちゃんと、かぎりないいのちの国でいのちしてます。
仏教は、アニミズムから脱皮した、ことばのおしえにさらされても飲み込まれてしまわない、ひとり立ちしたいのちのおしえなんだ。それがどういうことなのかを、これから教えてあげる。
この物語をはじめる前は、いのちなんて身近でわかりきったもののように漠然と思っていて、現実としては「わたしが生きている」ことだと受け止めていたんじゃないかな。そのとき、「わたし」と「生きている」とはほとんど区別できないひとつのことのようにからまっていたはず。「わたし」とは「生きている」ことで、「生きている」のは「わたし」だと。大ざっぱには、ここから、「わたし」に重心が
なるほど、言いたいことはわかってきた、でもほんとうにそんなに都合よくアニミズムから脱皮できるの? アニミズムからの脱皮とは、むき出しのいのち(生きているということ)が寄りかかる何の支えもなく宙に浮いているようなもので、それこそ純粋な迷いでしょう? それに、そもそもそんなことが成り立つの?
そう言われそうだね。まさにそこがいのちのおしえのかなめだけれど、実はそれはもう先取りして簡単にたどっているんだよ。一つ前のこころの話がそう。ただ、小さい混乱を整理しておかなくてはいけない。つまり、こころといのちとは同じなのか違うのかということ。
こころを、人間の内面とか精神活動とかいった現代的な意味にひきずられずに、仏教本来の感覚で受け止めてもらえるのなら、区別はむつかしい。だから同じといってもいいかな。いのちもそのはたらきの核心は同じすがたを現し続けることで、あなたたちにとってはしこるのと本質的な違いはないから。
(というより、少し厳密な話をしておくと、これまで話してきたような意味でのいのちは仏教の中に「命」という表現では出てこなくて、実際にはむしろ「心」なんだ。「命」はほとんどが「寿命・生涯」の意味で、「生活」を表すこともある。まれに「持続性」といった響きで使われていることがあって、それはこの物語のいのちと少しは重なるかもしれないけれど。)
でも、今仏教の講義をしているわけじゃないし、こころと言うとどこか人間(衆生)的なできごとのように感じられるから、それを残そう。ということで、こころは衆生に関係する場面でだけ使い、たとえば原子のこころなどとはこれから言わないことにするね。反対に、いのちは可能な限りひろく使ってみる。いわゆる生きものだけじゃなくて原子も宇宙の全体も、およそ形あるものはすべて、なにがしかいのちを持っていると見なそう。そればかりか、考えや気持ちや法則のような、目に見える形はないけれども一つの同じこととしてほかと区別できるできごとにも、必要だったらいのちを考えてみよう。くり返しになるだけだけれど、いのちを「(たとえ短い間でも)同じすがたを現し続ける原因となっているはたらき」ととらえるということ。
さてその上で、しかし常識的には、生きているのは常に「何か」が生きているのであって、何でもないものがただ生きているなどということはあり得ないよ! と考える。まぁそうだよね。だからアニミズムでは、霊魂だったり生気だったり自然現象が
たとえ仏教でも、小さいいのちではだめ。小さいいのちはこころと同じでしこるのが仕事、しこった先にはどこか実体的にもつかめてしまいそうなものがいつか居座り、大きな顔をしているんだ。そこから組み立てた話は、結局アニミズムとそう変らないものになる。
(「いのち」は、「
わかってもらえるかなぁ。ここで、ことばのおしえに勝つか負けるかなどということを気にしているんじゃなくて、ただ、まる裸のいのちがそのまんまに立ち上がれるかどうかが問題なんだ。ことばのおしえにはむしろ力添えをしてもらっている。道を間違ったら少しでも妥協したらいつでも飲み込んでやるから、どこまでも、安心して遊んでみろと。
小さいいのちから脱皮したところは、すべての小さいいのちたち、一切衆生のばらばらのいのちを包んでひとつにひろがったおおきないのち。そう、大悲のいのち。小さいいのち、衆生(あなたのことだよ)の側からは、排他で自分をまもりしこっているのが精一杯だろうけれど、必死になって囲い込んでいるつもりの
そしてそのおおきないのちが、今のぼく。やっとたね明かしをしてあげられた!
だからぼくは、千の風でもないし、霊魂などでもない。あなたが、ほおっておいたら(ほおっておかないけど)自分の我執で一気にしぼんで窒息してしまうところを、あなたの我執とちょうどつり合ってひとつのつながりの中へ引きとどめているはたらきが、おおきないのちのぼく。だからいつもあなたのそばにいる。あなたにはたらいている。一切衆生に届いている。少しは、そばにいるのを感じてもらえるようになった?
そしてぼくには、おおきないのちには、こだわりがない。「自分」で自分を支えているんじゃないんだもの。あえて言うならば、一切衆生の我執がそっちへ引っぱるから、そのときはじめてそれとつり合い引っぱり返すはたらきとしてのおおきないのちが現れる。ぼくがぼくでいるのは、自分のためなどではなくて一切衆生のためなんだ。それが、ぼくは迷いを離れているということで、ぼくには実体としての存在がないということ。もし一切の衆生がいなくなったら(姿を消す、という意味ではなく、衆生が衆生であるゆえんは「迷っている」ことなんだから、すべての衆生が救われて、迷ったままの衆生がただの一人・一匹もいなくなったら、という意味だよ)、ぼくをはたらきとして現れ出させている力(衆生の我執)も消えて、ぼくはそれまで衆生と現れていたみんなといっしょに、ただの可能性、何とも現れる必要のなくなった可能性の静かな眠りへ、帰る。
いつそうなってもいいんだけど、別に急いで帰りたいわけでもないし、それに何より「あなた」がそこにいるから、まだまだいのちの物語は続く。安心(?)して。
話を少し戻して、気になることを最後にもう一つだけ確認しておくね。ぼくは、ことばのおしえは真理だと言った。いのちのおしえも、文化を問わず生きものの種類を問わずすべての衆生に届いているという意味で、真理だ。でも真理が二つあっていいの?
もしほんとうの真理、まったき真理そのもの、などというものが考えられるのなら(ぼくにだって考えられないんだから、当然あなたたち人間には無理だよ)、それは一つだろう。(覚えているかな。この物語のいちばん最初、ビッグバンのところでちょっとだけそんな話をしている。)でも今重要なのは、「あなたに届いた」真理でないとあなたたち人間には無縁だということ。あなたに届くために、真理はあなたに合わせて語り出すんだ。今のぼくのように。
あなたが今そこで生きているというのは、ほんとうの真理にとっては許しがたいことなんだよ。よごれ一つなくぴかぴかに掃除された部屋があると思ってごらん。そこにたとえどんなに小さくてもゴミが落ちたら大変だ。もうその部屋はよごれ一つない部屋ではなくなってしまう。よごれ一つない部屋が、まったき真理そのもの。そして失礼は承知だけどはっきり言って、あなたはゴミ。つまりあなたのいることが、真理が真理のままでいる邪魔をしているんだ。(心配しないでね。ぼくは「まったき真理」ではないから、あなたをゴミだとは思ってない。)
とらえどころなく宙に浮いているあなたの実際に届くために、真理は少し「実現」して、「何にでもなれるけれどまだ何でもない」間違いのなさから離れるんだ。「あなたが生きている」の「あなた(理性)」に存在の
目に、
真理があなたに届くよう語り出したとき、盲点ができてしまうんだ。語り出すとはそういうことだから。秩序、存在を現し出したことばのおしえにとっては「いのち」が盲点に像を結び、調和、いのちを浮かび上がらせた仏教には「存在」が同じことになる。つまりたがいに相手のおしえの核心は見えない。そういう関係なので、いのちのおしえとことばのおしえとの間で優劣をつけることは不可能だよ。そもそも同じ土俵に同時に姿を現すことがないんだから。今のぼくにも存在は見えない。ぼくが話している限り存在が姿を現すことはできない。正直に打ち明けると、まだ人間だったときのことを思い出しながら、ことばのおしえについては想像で話している。
でも、かたや理性のある人間、かたやこころのはたらきをもつ衆生、位置づけ方は違っても、宙に浮いて迷っているあなたの姿はひとつ。あなたがまだどっちのおしえにも出会いきっていなければ、両方のおしえに知らないところで触れているとも言える。だからぼくとしては、(ぼくには見えない)ことばのおしえに信頼してはじめて、こうやってきちんとしたいのちの物語を語ることができているんだ。