無我 (6月29日)

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いのちがわたしを生きている。

最近この表現をいろんな人に紹介してみて、その反応を楽しんで(?)います。「その通り!」と膝を打たんばかりの人から、「日本語ではない」と断言する人まで、思う以上のバリエーションがあっていろいろと考えさせられます。

この表現自体は、真宗大谷派が親鸞聖人750回御遠忌へ向けてのテーマとして掲げているものを、ちょっと変えて使わせてもらっているものです。御遠忌テーマをご参照下さい。あるいは、「いのちがあなたを生きている」で検索すると、この表現をめぐってさまざまな言論の繰り広げられていることがたどれます。

私個人は昨年暮れごろだったかの新聞広告で知り、それこそ膝を打って喜んだ口です。もっとも、しばらくは自分ひとりで喜ぶのみで、人に紹介してなどということは思いつかずにいました。ところがここのところ『いのちの真実』や『いのち・今』といった演題で話をさせてもらう機会が多く、問題提起のきっかけ作りにふと思い出して紹介してみて以後、その絶大の効果に、ほとんど「はまって」います。

私の印象で大雑把に整理すると、子どもたち(小中学生)にはおおむね届くようです。「わかる!」とまで積極的に反応してくれる子は決して多くありませんが、全体として、必ず「こいつら、わかってるんだ」と納得するしかないような空気になります。

一方、時に「強烈に反発する」人と出会えるのがこの表現の不思議なところです。これまでの経験ではほぼ全員が男性で、女性は一人だけでした。(その方とは事後「直接」お話をする機会が持てなかったので私の推測でしかないのですが、男性的といった形容とは一番遠い、いのちもわたしもないところでいのちしているとでもいった土偶の女性像のような雰囲気の方で、「いのちわたし」という表現にではなく、「わたし」という切り取り方そのものに反発なさったのではないかと思っています。)

そんな中、一番驚いたのは、「(いのちがわたしを生きているのならば)わたしはないのですね(有国の記憶に基づく取意)」という反応でした。40代くらいの女性です。どこか底光りする目でそう問い返され、思わぬ展開にゾクゾクしながらも静かに「そういうことです」と返答したとき、私の内でも何かが大きく変わった。

諸法無我(すべての存在物に、固定的な実体はない)とは、仏教の根本命題の一つです。しかしその「無我」を、実存的とでもいうべき私の主体の否定あるいは解体に結びつけるのはまた別の問題意識ですし、その実践法となるとさらに話は広がります。それを心得た上で、実践目標としての無我ではなく、私の本来の姿としての無我に、気づかされたのでした。

わたしには何もない。自分で自分を護る必要がない。正しい側につくこともいらず、間違った側に回る心配もない。すべてがそのままに当たり前で、同時に、新鮮です。

合掌。

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