重さ (1月5日)

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平成 21 年は雪と共に明けました。

大晦日の夜から降り始め、除夜の鐘は雪の落ちてくる中で撞きました。石段の両側にろうそくでイルミネーションをし、境内のあちこちにもろうそくを配置して、ひょっとしたらどなたか鐘を撞きにみえるかなと楽しみにしていたのですが、空振りに終わってしまいました。しかし、ろうそくの灯りのおかげで例年になく暖かく鐘撞きを楽しむことができました。

元旦は 10cm ほどの積雪でした。新年のお勤めを終えた後、参道の除雪にかかったのですが、さほど冷え込んではいなくてすぐに消えそうだったので、年賀状を配達してくださる郵便局の方が困らないよう 1m 弱の一筋だけ道を空けて手を抜きました。除雪用の大きなスコップを押して歩いただけです。

それで山は越えるだろうくらいに思っていたのですが、1日の夜にまた降って、2日の朝には 20cm になりました。この冬初めての除雪車の出動です。コンクリート舗装のしてある参道が正味 100m あるため、寺にはかわいい除雪車があります。家庭菜園用の耕耘機程度の大きさですが、いっぱしにロータリーで、ただ掻いて除けるだけではなく一人前に吹き飛ばしてくれます。3往復すればほぼ参道の全面が除雪できます。

2日で降雪は止みました。降ったといっても 20cm そちこち、雪国のことを思えばお遊びくらいのことでしょう。実際このあたりでは根雪になることはなく、2~3日もして寒波がゆるめば後はほおっておいても消えてくれます。その程度にたかをくくってのんびりしていたのですが。

2日、3日と夜の冷え込みが思いのほかひどく、日中に融けて流れた水が凍ってしまって、予想外の大変なことになりました。雪には慣れているはずの母もすべってこけてしまい、幸い骨折などの大事には至りませんでしたが、新年の挨拶に見えたご門徒の方が難儀されないよう除雪に追われています。雪そのものというより、融けて流れる水の方を主に意識して、排水路を掘ったり流れの向きを変えて人の踏むところから水を逃がしたりと、これまでしなかったことに振り回されました。

そんな中、気がついてみると、庭木がずいぶん傷んでいます。積雪量は大したことはないのに、もともとがべた雪で重かった上に日中一度ゆるんだものが明け方の冷えで凍り直しているため、枝先をくわえ込んだまま重りのようにぶら下がっていたりあるいは鎧のようにがっしり押さえ込んでいたりと、庭中のつつじが剪定をしたときの形をとどめていないのです。枝が折れてさえいなければ思うよりは簡単に元に戻るのですが、庭全体が寒々しく痛々しい姿になってしまいました。

その様を目にして、なぜか、これまであまり感じたことのない重さを意識しました。屋根を押しつぶしてしまいそうな絶対的・総量的な重さとは違います。むしろ、個々のつつじが、自分で自分を縛りつけ痛めつけているような、個々ばらばらで局所的な重さが、いたるところで目につくのです。

みんないっしょに雪の下に眠るのであれば、さほどのことはないに違いない。私にとってもっとも辛いのは、私の個別、私独りが勝手に抱え込んでいる重さなのだ。

昨日(4日)、不用意なところを水が流れないよう(つまりそれが凍って歩きにくくならないよう)手は打ち終わりました。今日は、重い雪にのしかかられている庭木を助け出してやろうと思っていたのですが、冷たい雨が降り始め、あっさり逃げて帰ってしまいました。

衆生の全体を衆生として救うことは、如来にとって、ひょっとしたら案外簡単なのかも知れない。一番の難題は、この私を救うことであったのか。

雪に変わらなければよいがと心配した空も今は明るくなり、西の方では雲が切れています。心なしか、気温も上がり始めているようです。お浄土の暖かさを思います。

合掌。

文頭


人格 (1月9日)

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人格とは何なのだろう。

いささか突飛に思われるかもしれませんが、ここしばらくそこに引っ掛かっています。ただ、「人格者」といった言葉に見られるような「人柄」や「品性」の意味ではなく、倫理道徳的な行為の主体者としての人格、あるいは一神教の神を「人格神」と呼ぶときの人格を問題にしているのですが。

ですから、直接には11月27日付けの「倫理」、さらにはその前の「」に連なる問題意識です。

問いの向きを変えるならば、阿弥陀如来は「人格」的なのか、ということであり、さらに意地悪く言えば人格を前提視する考え方には人間中心主義が根深く埋め込まれているのではないか、という意識です。

おわかりのように、この問題意識の中には(おそらく)大きな否定がはらまれています。そのためなのでしょう、考えていて楽しくありません。しかし避けて通るわけにいきそうもなく、踏み出してみることにします。

一応希望も含めた見通しを先に言っておくと、人格主義的な考え方全般に対して感じる違和感ないし抵抗感をもとに自分の立ち位置を一旦はっきりさせたあと(この段階では「人格」にネガティヴに接することになります)、最終的にはその抵抗感を消していきたいのですが、そこまでたどりつけるかどうか、たどりつけたとしてもどれだけの時間がかかるのか、現時点ではまったく予測がたちません。悪しからずご理解ください。

(さらに今の気持ちをもう少し正確にたどっておくと、自分を正当化するためにというのではなく、反対に自分の内の何かを壊す(?)ために考えようとしている気配があります。)

さて、とにかく「人格」を問うてみるにあたって、「人格的とは意志的である」ことだととらえてみます。というより、人格的とは意志的であることかと気がついたのが、書けるところまで書いてみようと思い立ったそもそものきっかけなのです。

ほんとうは、意志的だけでなく感情的であることも添えなくてはならないだろうと思うものの、あえてそれは無視します。いきなりそこまで拡げるとかえって焦点がぼやけてしまい、何かを「擬人化」して理解するときのように、何だか後先が逆になってしまいそうな気がするためです。

(私がこれまで「感情」というものをきちんと考えてみたことがないせいかも知れません。ここでは、一般的な語感として、〔「理性」に重なる部分を持つ〕意志と感情とが時にぶつかるようにとらえられていることに引きずられています。)

意志的であることには、どこか、はっきりとした原点と、直線的な方向性とが内在されているのではないか。少なくともそのような「ベクトル」的なイメージと、親和性が高いのではないか。

そう考えてみると、キリスト教世界において時間が直線的にとらえられるようになったことがうなづけます。そしてその時間、あるいは「歴史」には、始まりがある。唯一神によるこの世の創造という出来事が。

「唯一神によるこの世の創造」という表現が、どれだけの方(ここでは漠然と「日本人」を想定しています)に内面化されているのか、率直に言って、心許ありません。少なくとも、「神話的なお話」とは(私が言うと変なのを承知で)受け止めて欲しくないのですけれど。

(これまで公式にはほとんど触れたことのない、ということはあまり言いたくないことであり、かつものすごく天下り的で高飛車な言い方になるのが避けられないのですが、私は(日本という環境における)僧侶すなわち仏教信者となる前に、本気で洗礼を受けようと考えたことがあるのです。詳細は省略するにしても、要は「無からの(ex nihilo)創造」という事実! に脳天をぶち割られたような衝撃を覚えたことがあり、「唯一神によるこの世の創造」を、今でも(必要であれば)真に受けることができます。)

しかし、原点=神による創造の部分は別にしても、「直線的な時間感覚」はかなりの人に共有されていると思われます。自然科学ないし科学技術の影響もあるでしょうが、というよりむしろ科学的なものの見方そのものも含めて、時間を直線のようにイメージする姿勢の中には、「意志的」なあり方に対する信頼が織り込まれている。そう考えてみることにします。

ところで、私は少し違う時間感覚を生きています。

仏教で言う「縁起」の説明に、網の目の比喩というものがあります。「私」を含め、どのような存在物もあるいは出来事も、複雑に絡み合った網の目の一つのようなものだという話です。仏教では、私たちの認識するあらゆるものは、直接的・間接的なさまざまな原因(因と縁)が関わる中、現在たまたまそのような姿を取り、生起しているに過ぎないと考えるのです。

ということは、「私」という仮の(=迷いの内の)現れと、「今」とが切り離せないということです。しかもその「今」には始まりも終わりもありません。ただ無常なるのみ。さらに、その「今という現れにおける私」から振り返って眺めた「過去」も、縁起的なつながりにおいて孕んでいる「未来」も、一本の糸などというイメージではなくまさに三次元的な網の目として、それこそ宇宙の全体を覆い尽くしているのです。ですからそんな時間感覚の中に入り込んでいると、「時が流れる」という感じはなくなります。

さて、私に時間がそのように実感されるとするならば、この「私」は意志的なあり方、そして詰るところ「人格的」なるものとはなじみが悪いということになります。

私は私自身に「人格」を認めない。自分に対して積極的に言い直すとすれば、私は自分を見つめるに当たって「人格」を出発点に据える必要を持たない。

そこからすぐに納得されることですが、阿弥陀如来も(人格神ならぬ)人格仏ではありません。意志的でないどころか、能動的ですらない。

このように「否定形」で表現を終えるのは避けようと心掛けていることなのですが、今回はここまでで精一杯でしょう。

合掌。

文頭