(1月11日)

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「殺す」とはどういう出来事なのか。「死」について考えているなか、それも吟味しなくてはならなくなってきました。

もう少し具体的に説明しておくと、今思いをまとめてみようとしているのは、実は「自殺(自死)」についてなのです。ところがこれがむつかしい。というより、わたしがほんとうに語りたいことは単純なはずなのですが、裾野があまりにも広くて、ぽんと一言投げかけたいところを浮かび上がらせることができずにいます。

あれこれぼんやり考えているうち、いきなり自殺ではなくて、とりあえず「殺」全般について吟味をしてみておこうというところでやっときっかけをつかみました。

「死」と「殺」では、一見随分響きが違います。ところが漢字の原意を確かめてみたところ、「死」は人が死んで骨がばらばらになったさま、「殺」は(穀物の穂を)刃物で刈り取って実をばらばらにするさまと、どちらも現代風の「主体」などといった感覚とは無縁のものでした。「いのち」と感じられるような勢い・統一感がまずあって、それが自然にばらばらに「なる」か、それを人為的にばらばらに「する」かの差異のようです。

それで言うと、「目が死んでいる」「利き腕を殺す」のように日本語の日常語の中で使われる「死ぬ」と「殺す」も、生気や効果を中心に、きれいに裏表になっています。「一人息子を肺炎で殺した」のように、「殺す」が不可抗力的に「死なせる」の意味で使われている例もありました。

この感覚を、とりあえず出発点にします。「死(ぬ)」という出来事を、「生-死」と対にするだけでなく、「死-殺」と奥行きを持たせて眺めてみたい。

わたしは「いのち」を、生物的、社会的、宗教的の三つの側面に分けてとらえています(参考:→いのちの位相)。いきる・いのち、つながる・いのち、よろこぶ・いのち、の三面です。話のきっかけに「いのちにとって一番大切なものは何でしょうか――食べ物? 愛情? 希望?」のように聞くことがあるのですが、どれもみんな欠かせない、ということです。その三面に重ねると、「殺」はどう見えるのだろう。

生物的側面における「殺」は、端的に言って、他の生体の生理現象を不可逆的に止めることです。この立場に留まる限り、相手が人間であろうと動物であろうと、あるいは植物や細菌であろうと変わりません。生き物が生きていくにはエネルギーの代謝が不可欠ですから、太陽光から直接光合成できる植物か、非生命物質からの化学反応だけで生命を維持できる細菌類などを除けば、「殺」は「生命」の内に前提として織り込まれています。

細菌や植物にしても、「殺」のイメージを広げて、複雑で高エネルギーの化学物質を「分解」することも「殺」、ないし高品位の電磁エネルギーを有機物の化学結合エネルギーへと品位を下げる(エントロピーを増す≒ばらばらにする)ことも「殺」と見てしまえば、「殺」と無縁の生命現象などあり得ないことになります。

(ここでは、食物連鎖ないしエネルギー連鎖的に「下位」のものに対する「殺」のみを考えています。ある生物種の繁栄が、ニッチを奪うという形で他の生物種の繁殖を抑えたり、あるいは細菌の感染が感染した生体を死に至らしめたりということもありますが、それは間接的・結果的な出来事であって、今問題にしている「殺」には当たらないと見なします。)

というより、直接他の生命現象の中に繰り込まれない「死」よりも、「殺」の方が積極的で有意義なことかもしれません。ただ、ここで「有意義」というとき、食物・エネルギー連鎖の総体としての「生命」に照らして有効であるというだけの話で、人間的な次元における価値判断ではありません。それを混線してしまわないために、わたしは「いのち」を三側面に分けているのです。

続いて、いのちの社会的側面にける「殺」はどう定位できるでしょうか。極限的な現われ方として殺人の是非にも関わることですので、きちんと考えてみなくてはなりません。ただ、いきなり殺人のみを問題にしているわけでもありませんから、慎重に整理する必要があります。

何より、他人の「生理現象を壊すこと」がそのもので問題なのではない。

そもそも「社会的ないのち」の体(ボディー)は何なのでしょうか。家庭、コミュニティー、行政単位、国家、国際社会、といった階層が考えられますが、そのような差異にとらわれず、そこに共通するものを見出せないか。

実は、わたしは「社会科学」が大の苦手なのです。大学生のときも社会科学と人文科学の区別がきちんとできず、社会科学系の単位と思って履修した授業が実は人文科学系で、結局社会科学の単位が足らずに留年したという前科まで持っています。簡単に言って、社会科学において求められるような問題意識というか感性を欠いており、知識以前に語感からして乏しく、考えようにも何とも身動きができません。

それを断った上で、情けなくなるくらいに幼稚と心得つつ、まず社会的ないのちの体を「帰属感の受け皿」ととらえます。その上で、社会的な側面における「殺」を「帰属感を不可逆的に弱めること」と見ます。

ここで大切なことは、今言う「帰属感」は個人の内面に回収できるようなものではない、ということです。最低限相互的なものであり、むしろその総体としての、全体的・統一的な広がりを持つ帰属感です。連帯感と言ってもよいかもしれませんし、あるいは(無意識にでも)共有されている隠喩・神話と言った響きで、文化とか伝統とかに近いような帰属感です。

ですから、殺人とは単に殺す人と殺される/殺された人との間の出来事ではなく、社会にとっての帰属感が弱められる限りにおいて「殺」なのです。ある集団にとっての帰属感が強められると思われるような「殺人」は、たとえば日本文化における切腹や戦争末期の集団自決、あるいは仇討ちや刑法上の死刑、ないし戦争そのものにおける敵国民に対する戦闘行為のように、少なくとも「その」集団にとっては「殺」ではありません。

逆に、たとえ具体的に人を殺してはいなくても、ある集団の帰属感を弱める行為全般は、「殺」です。いじめなどがまさにその具体的な例でしょう。

ということは、たとえば「戦争をなくそう」といった運動は、国家を超えた全人類といったスケールでの帰属感、ないし全人類というリアリティが涵養されない限り、(社会的ないのちの側面の問題としては)具体性を持ち得ないことになります。社会の「単位」をその成員である個々人に求め、各個人の(社会道徳的な)良心に訴えるというのでは、たとえばアメリカが「悪の枢軸国」に対して主張する「正義」を正当に批判することは原理的にできないのではないかという気がします。

もう一度確認しておくと、生物的ないのちの側面における「殺」と社会的なそれとを区別している以上、同じ「殺」でも階層の違いを意識しなくてはなりません。生物的な「殺」は、食物連鎖的に上位のものから下位のものに対しての出来事です。しかし社会的な「殺」において、殺し・殺されるのは対等である「人」同士であり、しかもその影響をこうむるのはその双方の「人」を含む「集団」です。というより、「集団」において「帰属感を弱めると解釈される行為」こそを、社会的ないのちの側面における「殺」ととらえようとしているのでした。

もっと言うと、たとえばある動物同士が、縄張り争いなどで「殺し合って」いるとしても(実際には、ほとんどの動物は実際に殺してしまうまでは争わないはずです)、彼らを「共に」含む集団が彼ら自身にリアリティを持っていない限り、社会的側面における「殺」にはなりません。

結局、ある集団内において「殺人」が禁忌されるとすれば、それがいつ「わたし」に降りかかってくるかもしれないという意味で無差別なもので、その危険性から集団の帰属感が弱められるようなものに限定されることになります。そこでは「正当防衛」は免責され、また「過失」による偶発的・結果的な殺人も、故意で計画的なものとは区別されるはずです。人は、他の人が殺されることを無条件・全面的に嫌っているのではなかった。

では、社会的ないのちの側面における「死」はどう見えるのでしょうか。皮肉なことに、無名の一般人の個々の死は、労働人口減などの形でその集団の弱体化につながるものでない限り、無視されることになるでしょう。むしろ、社会(ここでは事実上行政システムの総体)は、その社会の帰属感を担保するために、生の質を問題にし始めるのではないか。

表向き「生」と見えるように隠されているとは言え、その本体は陰を消された「死」であるはずです。というか、一般大衆は死をすらも取り上げられるとでも言えばよいのか。

専門外のことでもあり、どのような「結論」が導かれてきたのか、自分で評価できなくなってきました。しかし、今回考えてみたいと思っていたことについては、得たいものは手に入ったような感触です。そして、疲れてきました。

まだ、宗教的ないのちの側面における「殺」には触れていません。が、そこでたどり着くであろう「結論」は見えていますので、またの機会にまわします。わたしにとっては大きな課題であるとしても、差し当たり、多くの人にとってさほど緊急の関心事でもなさそうな気がしますし、ここは一旦上の社会的側面における「殺」の吟味がわたしにとって何を語るのかをもう少し味わい、その上で続きを考えましょう。

今回は合法は見送ります。やっと少し動き出せたかなというところで。

文頭