わがこと (8月22日)
出会う一切のことがらを、わごことと受け止めること。仏法に照らされて生きるとは、そういうことなのでした。
わたしたちは普段、自分が生きていることを当たり前のことと思い、明日もそしてこれからずっと、そのまま生きていることを知らず知らず前提として、ものごとを見ています。確かに、平穏無事であるときはそれでかまわないというか、そうでなければ回りません。しかしそれに慣れてしまうと、いつの間にか反対に、自分が生きていることを忘れてしまうようです。
最近、いろいろな場で、ある質問をさせてもらい、それを話のきっかけにすることがあります。その質問とは、
Q1:あなたががんになった。状況はかなり厳しいと思われる。それを告知して欲しいか、欲しくないか。
Q2:あなたにとって大切な人が上と同じ状況になった。それを告知するか、したくないか。
の2つです。
着目したいのは、「自分は告知して欲しいけれども、大切な人には告げたくない」という人が必ず――少なくない割合で――いらっしゃることです。
気持ちとしては、よくわかります。そうだろうなあと思うし、そういう人がいることにどこか安心しさえします。が、それをあえて踏み込んで考えてみたいのです。自分は教えて欲しいのに人には言えないという気持ちは、いったい何なのだろう。
あるいは、たとえばわが子が「不幸」な立場に置かれたとき、もっていきようのない「やましさ」に似た感情を味わう方がたくさんあります。「かわいそう」という気持ちも、突き詰めるとこのやましさにつながってくるかもしれません。
自分ががんになってしまったとしたら、それは逃げようなく「わがこと」です。ところが、たとえそれがどれほど大切で身近な人であろうと、自分ではない者ががんになったということは、そのままではまだ「人ごと」なのです。ここに秘密がありました。自分が生きていること、あるいは「ふつうに」過ごしていることが無自覚に基準になっていて、相手を自分と同じところに引き戻すことこそが一番重要なこととなってしまっているのではないでしょうか。
してみると、「自分は告知して欲しいけれども大切な人には告げたくない」というのは、一見相手に対する思いやりに見えて、実際には自分を守る――自分が立っている「当たり前さ」をおびやかして欲しくないという――感情なのかもしれません。その自己中心性がうすうす気づかれているとき、漠然としたやましさが感じられるのでしょう。
では、自分が当たり前に生き、わが大切な者が死にゆかんとしているとき、どうしたら「同じところ」に立って互いに寄り添うことができるのか。どうしたら大切な者の不幸をわがこととできるのか。
独生独死独去独来(独り生れ独り死し独り去り独り来る)である以上、わが子といえども、代わって死んでやることはできません。その限りにおいて、どんな大切な者であろうと、その不幸をそのままわがこととする術はない。しかし、同じ「死すべき身」であったと気づかされるならば、つまり大切な者が「わがこと」として直面している死を、われとわが身も死すべき身であったと教えてくれるご縁といただくならば、そのとき同じ迷いの凡夫同士、如来の大悲に抱かれて、寄り添うことができるのです。
みな死ぬる者と思えばなつかしき (山本仏骨)
そうやって寄り添えたとき、いえ出会う一切のことがらがそうやって寄り添ってきてくれたとき、すべてはおかげさまです。死すべきこのわたしが今生かされているというただごとでなさ。ご本願の内に安心して死んでいけるかたじけなさ。
ようこそ、ようこそ。
合掌。