(6月2日)

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もう随分前になるのですが、ある方から「無」について何か書いてくれと頼まれていました。

いずれまた、と生返事はしていたものの、実はあまり乗り気ではなかったのです。というのが、仏教全般(あるいはもう少し厳密に言えばインド仏教中心)で考えた場合、「無」はそれほど積極的な概念(?)ではなくて、「空」の方が内容が豊かなのです。その方には「無」に漠然と魅かれていらっしゃる様子が見て取れ、お気に召すような記述はしにくいなと思っていました。

その後何かの折にふと思い出しては考えてみているうち、私自身「空」と「無」との違いをきちんと整理しておきたいという気になったことに加えて、ある意味伝統的な解釈とは微妙にずれる「無」のとらえ方をしている面が自分にあることに気づき、次第に興味を覚え始めたのです。ちょうど今日は雨、気持ちが急きませんから、約束を果たしておくことにしましょう。

(依頼のあったときの注文に「簡単に」ともあったのですが、何せ相手が一筋縄ではいかない主題ですから、あっさりと無視させてもらうことにします。)

「無」には、有と対比された無のようにそのまま名詞として用いられるときと、無我、無常のように(主に名詞を否定する)接頭辞として用いられるときがあります。

まず否定の接頭辞としてのはたらきに着目するとして、「無」と「非」はどう違うか。具体的な話、無我と非我、無常と非常ではどう違うかから考えてみます。

補足:ここでは、一般的な語感としての無常・非常をとりあげています。仏教だけに限定して言えば訳された時期の違いによって、同じ内容――「常」という考え方の否定――を古くは無常といい、ある時期以後非常と呼んでいて、区別はありません。

非我(〔哲学用語〕我ではないもの)・非常(世の常でないこと)から推すに、非Aは A の補集合 Ā (Aバーと読みます)を指すようです。A と Ā は合わせて(漠然とした)全体となります。見方を変えれば、A と Ā は同じ土俵に対等な立場で乗っているといってもよい。それに対し、無我(実体的な我の存在の否定)・無常(一切万物の常住性の否定)から考えると、無Aは A の端的な打ち消し A (Aストライクと読んでおきましょう)で、A は A のいわば裏側であり、A と A を「同時に」見ることはできません。あえて言うならば、A は A とは性質の異なる新たな地平を拓いていることになる。

ここで、無A A の身分が問題になります。平たく言って、「論理」が意識にのぼるわけです。「無」の「否定するはたらき」そのものが考察の対象とされているという意味では、「無」の理解が名詞に近づいていると言えるでしょうか。

西洋における論理学では思考の対象(すなわち概念)あるいは思考活動そのものが中心的な主題とされていると言えますが、仏教では「論理(専門的には因明(いんみょう)と言います)」は認識(感覚器官における具体的なそれ)ないし実践から大きく離れることはありませんでした。ですから A は、 A がたとえば「壷(が見えること)」であるとするならば、直接には「壷がない(=見えない)」という認識を指したのです。悪くいえば論理が十分に形式化・抽象化されなかったと言えるでしょうし、良くとらえるならば論理(思考)が身体(実践)から遊離しなかったということです。

さて、そこに「否定」のはたらきに「名辞の否定」と「命題の否定」とが区別されるようになります。前者は「壷が認識されない」を「壷以外のものが(壷が認識されるべき場所に)認識される」と理解するとらえ方ですから、Aに対する非A Ā に近い。対して後者は、そもそもものが「ある」と実体視する見方そのものを打ち壊す方向に向かいます。言わば、判断停止です。

判断停止が前向きな実践の放棄につながってしまうとしたら、非生産的な意味での虚無主義になります。仏教論理学が判断停止を持ち出したのは、縁起観にのっとって諸法の実相に実践的に悟入するのが目的ですから、概念遊戯的にもなりかねない「無」と距離を取って、ここに「空」が打ち出されます。

以上が、印度の仏教を中心に考えたとき、「無」よりも「空」の方が積極的であるということの概略です。

が、中国では事情がやや異なる。何より、思想背景(の一つ)に老荘の伝統がありました。

老荘思想で言う「無」は、無限定の可能性、肯定的にとらえられた混沌、とでもとらえられるでしょうか。中国の初期仏教では、考えにくい縁起-空の仏教思想を老荘を下敷きとして解釈し、それを(原典から離れているという意味でやや否定的なニュアンスを込め)格義仏教と呼びます。その後竜樹の思想が体系的に紹介されるに従い、表向き格義仏教はその役目を終えるのですが、実質的には中国仏教は常に格義仏教的だったと言えるかもしれません。

このように中国を中心に見ると、本来「無」の方が「有」よりも上位に位置づけられていたこともあって、「空」と「無」の上下関係は反転し得ます。現実に、「空」は現実に生起している縁起の法の背景にあるものとして言わば相対的なものとみなされ、絶対的な実在の実相としては「無」の方が好まれるという傾向も出現しました。中国禅はその流れになります。

個人的には、中国系の「無」は食い足りません。老荘にしても、世俗的な生活に対するアンチテーゼとして位置を得ている印象が拭いきれず、本当の意味での絶対には届いていないのではないかと感じられるのです。ただ混沌を振り回すだけでは、たとえその混沌をどのように形容するにせよ、たとえば徹底的に「思考」そのものを抽象し得た西洋の有=存在観と太刀打ちできるとは思えない。東アジアの豊かな自然に支えられた、素朴なレベルの処世法というあたりが妥当な評価ではないか。

上で「本当の意味での絶対」と呼んだものを、私は「全体性の顕れ」と理解しています。その限りにおいて、個人的に「涅槃」を仏教における根本的な絶対性ととらえます。私においては、涅槃を背景に敷かない「空」は中国系の「無」とそれほど選ぶところのない、もやもやと心地よいものといった印象に留まります。

それを断った上で、いよいよ「無」の再評価あるいは拡大解釈です。

2005 を車のナンバーと見れば二、〇、〇、五ですが、西暦と思えば二千五です。0 が、前者では他の数字と同列の一つの記号に過ぎないのに対し、後者では位取り表記においてその位が「空位」であることを表しています。つまり、全体性そのものではないにしても、全体性を支える内的な「構造」を透かし見させているのが 0 と言えるでしょう。

「無」を、位取り表記を前提にした 0 と同様にとらえられないか。

これだけでは、まだ「空」に対する優位性というか、「空」をさし措いてまでも「無」を打ち出す理由が曖昧です。ポイントは、「空」が個別性を支えにくいところにあります。「空」において見る限り、2005 の四つ三種類の数字は同等で、どれも仮の姿であり、2、0、5 といった個別性は隠れてしまう。その点、「無」は 2 や 5 「ではない」 0 としてくっきりと見ることができる。

実は、私は今「浄土」について考えているのです。

7月に、「往生浄土」という項目名のもと、一般の方を対象とした研修会の講義をしなくてはなりません。浄土があるのかないのかといった(予想される一般人の)ひっかかりはいくらでもかわせるのですが、浄土とは一体「何」なのか、あるいはもう少し厳密に言い換えるならば、どのような必然性から「浄土」が導入されなくてはならなかったのかが完全には解決できていません。これはかなりまずいので、ここのところ必死になって浄土のことを考えています。

「無」とのつながりは、浄土への往生が「無生の生」と形容されることにあります。なお、私が浄土を「死後」の世界のようにとらえているわけでは最初からなくて、今の私との関連において理解しようとしていることは(私においては)自明のこととさせてもらいます。

「今」、私は浄土の住人ではない。というより、生身の人間が浄土を見ることはできません。言い換えれば「この世」に浄土を実現しようなどというのはナンセンスでしかなくて、その限りで「神の国」といったキリスト教的な発想と「浄土」とは根源的に相容れないものです。

これまで私は、浄土を、端的な全体性の顕現であるところの涅槃ないしその動態である空性と、限定された個別でしかあり得ない「この私」との間の矛盾を吸収・解消するための宗教的な概念装置のように理解しようとしていました。それはそれでつじつまが合わせられますし、最低限の「必然性(必要性)」も記述できます。が、それでは浄土が「輝かない」のです。

浄土は、普遍的なものではないのではないか。

「無」をてこに、そんなことを考えています。つまり、私にとっての浄土は私の個別性に相即したものであって、私の支える個別性を私においてキャンセル(無化)し、その背後に横たわる「まことのいのち」の全体性を透かし見させる窓のようなものではないだろうかということです。逆に言えば、「浄土」を経由することによって、「まったきいのち」がこの私に流れ込み、この私という限定された姿に実現しているということになります。

浄土に実体はない。この私の個別性の「無」こそが浄土の実際である。

「無」はもちろんのこと「浄土」やあるいは「まことのいのち」といった言葉が各人においてどのように響くのかわからないのでまだためらいながらであるにしても、上のようにとらえた浄土は、輝きます。私が闇であればあるほど、その輝きは強まる理屈です。

合掌。

文頭


茶の木 (6月6日)

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例年のように5月でお茶摘み・お茶揉みが終って、今茶の木の手入れをしています。

寺の周りにはかなりの数の茶の木があり、ある程度まとまってそろっている一角は私の子供の頃から「茶畑」と呼んでいました。しかし、お茶の産地のようにきれいにそろって手入れされている「畑」などではなくて、私の感覚では茶の木が勝手に生えているだけの「山の一部」です。

おそらく、大昔にだれかが意識して植えたものだろうとは思います。また完全にほったらかしと言ったらうそで、年に2度程度とはいえ、母が草刈り機と鎌とで雑草(というよりは、山に生えているのと同じような下草)を刈り払っています。しかし、茶の木がきちんと並んで生えているわけでなし、下は石ころだらけの荒地と、どう見ても「畑」という言葉から連想されるような場所・実態ではありません。

(ちなみに、同じような響きで「こんにゃく畑」「ぜんまい畑」もあります。要するに、単にこんにゃく芋のたくさんあるところ、ぜんまいのたくさんあるところ、という意味です。もっとも、こちらは本来「畑」だったところに意識して増やしていったので、まだ「○○畑」と呼ばれる資格があります。なお、「わさび畑」は、病気が出たのと手間が大変なのとでもうなくなってしまいました。)

私はお茶摘みそのものは手伝わないので実状を知らずにいたのですが、ここ数年、母が茶の木が古くてまともな芽が出ないとぼやいていました。手入れらしい手入れをしていないのですから当然です。このあたりでも一般の方は、古くなった株は枝をはねて新しい枝を出させ、適宜「新陳代謝」していくように手を入れていらっしゃるようです。

2年前、母がとうとうたまりかねて、近所の方に頼んで一部の茶の木の手入れをしてもらっていました。なるほど、そういう株は精気のある芽が出るようになっている。

ということで、その続きを頼まれたのです。私はこれまで茶の木の手入れなどしたことがなく、父がしていた記憶もありません。(摘みやすいように丸く刈りそろえることはしていましたが、それは表面的なもので、ここでいう意味での手入れではありません。もっとも、私は刈りそろえることすらしていませんでしたが。)

最低限のことは人に聞いて習いました。要するに、古くなった枝(と言っても、茶の木は根元が一つではなくて地上に出た時点で分岐しているので、一株分の茶の木の根元のわさわさと込み合った部分です)を、10~20cm 残して厚鎌ではねるだけです。鋸を使うほどではなくて剪定ばさみでは手間がかかるのと、スパッと切った方が新しい芽を出すのによい(草刈り機などで強引に「つぶし」切ってしまうと、その枝は枯れる)のとが理由のようです。

幸い、鎌は研げるようになっているのでそこそこに切れる厚鎌はあります。スギゴケの手入れ、山の下刈りと、やりたいことは山のようにあるので、私からすすんで始めたことではなくて母に頼まれてほとんどやむなくかかったことなのですが、やってみると面白い。

最初は、どの枝を切ってどの枝を残せばよいのかがわからなくて、一々母から「これとこれを切れ、これは残せ」と指示してもらっていました。母は自分で摘んでいるので、どれにいい新芽が出て、どの枝はどうしようもない(摘みたくなるような芽が出ない)かを知っているのです。

しばらく続けていると、次第に枝の「精気」がわかるようになってきました。こりゃ駄目だな。お、いい枝がある。これにはもうしばらく踏ん張ってもらおう。茶の木そのものが「雑草」の中に埋もれているような状態から始めるので、まず周囲を大雑把に刈って茶の木の「根元」を特定するところからかかるのですが、その茶の木の「輪郭」がつかめると、どうはたらきかけどう仕上げるかをイメージして、枝をはねていきます。

茶の木そのものは、おそらく百年~数百年という樹齢です。鳥が運んでいった種から文字通り勝手に芽を出したものか、思いがけず若い株もありますが、古いものはほとんど博物館もので、根元にはコケがびっしりとついて古松か古梅の風情、確かにこれでいい芽の出ようはずがありません。

いきなり全部の茶の木に手を入れると、時間が足らないだけでなく(今の私のペースでは優に半月以上かかる)、来年摘む芽がなくなってしまう(新しい枝が摘めるようになるのに3年はかかると思われる)上に、私自身この手入れの仕方でよいのか自信が持ちきれなくて、1/3 見当だけ手を入れて3年で一巡する方針にしました。

どこに茶の木があったのかまでわからなくなると草刈り機で下草を刈るときいっしょに刈ってしまいかねませんから、極力最低でも1本は元気そうな枝を残すように心掛けるのですが、一株丸々こりゃぁ駄目だわというのがままあって、慣れないうちは一々悩んでいました。しかしそれでは時間がかかるばかり、段々大胆に(いい加減に?)なってきて、そういう株は一枝残らず刈り上げてしまうことにしました。そもそも、ちゃんと手入れしたところで母がいなくなった後引き継いでお茶が摘めるかどうかもわかりませんから、茶の木が少し減ったくらいでもお釣りがくる。それにおそらく、しっかりした根が残っているならばそんなに簡単に枯れるはずもなくて、数年待てば惚れ惚れするような若返りをすることでしょう。

中腰での仕事ですから、午後半日続けるとこたえます。というか、何やかや言ってこの程度の仕事なら半日は続けられるようになったなという方が実感に近いのですが。

3年がかりで一巡する予定の、樹齢百年以上の茶の木の手入れ。しかも相手は、うまくすれば精気を取り戻して若返り、ちゃんと手を入れ続けてやりさえすればこれからも数百年(?)は元気でいると思われる。

百年単位でこせこせしたことを言うのもなあと思いつつも、やっぱり大変な世界です。それに比べれば植林した杉など、30 年でいっぱしの木になるのですからもやしみたようなものです。

やれやれ、そんな中でこの私はいったい何なのか。「個人」などという単位を見つけてしまったことで、人間がいかにみみっちくなってしまったのか痛感します。

合掌。

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適応力 (6月11日)

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つい先日茶の木の手入れをしていた私が、今は大都会の真ん中にいます。

子供の小児がんに転移が見つかり、その手術のために上京しているのです。手術は先月の 25 日で、その際は母親が付き添っていたのですが、今週の火曜日に付き添いを交代しました。今日抜糸も済み、順調に回復しています。

お世話になっているのは癌研有明病院です。それまでは大塚にあったのですが、今年の3月に有明に移転しました。ばりばりの新築で、屋上にはヘリポートがあり、病室のテレビは液晶の薄型、オンラインの採尿器が設置されているトイレが病室ごと。明治末に建てられた旧癌研病院と「同じ」病院とは思えません。

夜を過しているペアレンツハウス(難病の子供に付き添う親のための援護施設)からは、新橋で乗り換えて、「ゆりかもめ」という無人運転の新交通システムを利用して通います。レインボーブリッジを渡り、お台場、国際展示場と、無機質な建物群の間を半分空を飛ぶような視点の高さ(地上3~4階相当)でたどります。

もっと抵抗感があるかと思っていたのですが、そうでもないことにかえって驚いています。ほぼ全区域――ペアレンツハウス内、新交通「システム」内全域、病院の「敷地」内全域――が禁煙なので、たばこに苦労していますが、吸えなければ吸えないように合わせるので、まだ東京に来てから買った一箱がなくなりません。

ネットへは、夜、ペアレンツハウスの資料室にある LAN コネクタを拝借して、提げてきた自分の機械でアクセスしています。(かつての Air H'' によるモバイル環境は娘に回したので使えません。) 病院内も無線 LAN の電波が飛んでいるので、家で使っている無線 LAN カードを持ってきていたら、アクセスポイント情報くらいはすぐ盗めるでしょうから接続は簡単にできそうです。もっともこっちは本当にやってしまうとまずいでしょうが。

息子の手術は前回と同じ右足の膝の裏で(警戒していた血流による肺への転移ではなくてリンパによる転移だったようです)、気が付いたのが早かったせいか組織に余裕があるせいか、皮膚は「切開」で済んで患部を「摘出」するだけ、骨・血管・主要神経などにも影響はなく、理屈上はリハビリなど必要ないと思っていました。

ところが、予想に反して、膝だけでなく足首や股関節、腰の関節まで硬くなっていて、痛みがとれて抜糸が済んだらすぐに歩けるなどといった状況ではありません。

前回は多少とはいえ足首の関節にも影響のあり得る場所の手術だったので、術後、私も慎重になっていました。今回は本人も私も経験を積んで慣れてきており、いろいろと遊んで(直面した現実から積極的に学んで)います。リハビリの先生にも教わって、たとえば硬くなっているのは「筋肉」であって関節そのものではないことは納得できました。

問題はそのほぐし方です。私は、子供のリハビリにも手を出します。「元気」な者の体感や発想を押し付けてしまってはまずいのはわかりますし、筋肉や腱などの解剖学的な知識を持ち合わせているわけでもないので、最初はリハビリの先生から盗みます。まだお若いのですが独特な発想をなさる先生で、私の語彙で言えば決して無理をしないというか徹底的に現実に妥協するというか、要するに「こうあるべき」などという考え方の欠落した方で、その先生が息子の足にしばらく触ってくださっていると、見ていても無駄な力みが消えていくのがわかるのです。

息子も、年齢不相応に「自然体」と形容し得る質です。ですから、心理的に不要な緊張があって筋肉が張っているというのは当らない。不正確を承知で、手術という「外傷」に対して生体が自然に反応するとこうなる、とでもいったイメージにでも頼って始めるしかありません。

目の前の現実として、「歩く」という動作を目標にする限り邪魔になる不必要な筋肉の(持続的な)緊張がある。しかしそれは心因性のものとは考えにくい。解剖学的には障害はないはずである。で、どうはたらきかける?

私が現時点で見つけている(作業仮説的な)解答はこうです。

第一に、「正常」だとか「自然」だとかいう見方を捨てる。もっと尖がった表現をするならば、「平均値」などといった指針には頼らない、ということです。ただ目の前の現実のみを見る(あるいは感じ取る)。できないことはできないし、できそうになくてもやってみればできることもある。

次に、そしてこれが重要なのですが、「自然に戻す」のではなくて「新しい不自然を生み出す」のが課題なのです。もちろん、私および本人が参加でき共犯者となることのできる「心地よい」不自然でなくては無意味なのは言うまでもないとしても。

(移植の必要であった)前回と比較すれば簡単だったとは言え、20cm 以上切開するという外傷があるのですから、傷を治すことを最優先してしまえば、生体の文脈における「自然」にかじかまってしまうおそれがあります。こっちには極力ふつうの生活が送りたいという「不自然」な要求がある。どこかでぶつかるのは避けられません。要するに、ぶつかって当たり前で、ぶつかりながら許せる妥協点を探せばよいということです。

まあ、せめて「肩の力を抜け!」と言って相手の肩をバシンと叩くような野暮くらいは避けようと思っています。実際、無理に(相手の筋肉が反発してくるようなところまで)伸ばそうとせずに、かといってただほぐすことだけを目指すのでなしに、「適度に」かじかもうとする筋肉(腱?)を引っ張ってやると、そこで筋肉そのものが「新しい」くつろぎポイントに向かって「再構築」され始めるバランス点が確実にあります。私では3回に1回くらいしかうまくヒットしないのが愛嬌としても、それがあることを感じた経験があれば、はたらきかけは続けられる。イチローでも4割は打てないのですから、1/3 なら十分でしょう。

人間は、不自然にしか生きられない。それを自然(じねん)と見切ることができるのは独り仏のみ。

しかし、かくも「不自然」を次々と拡大していける人間の適応力には素朴に感動してよいように思います。それが私の生きている実際ということなのでしょうか。

合掌。

文頭


ひっくり返し (6月15日)

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宿から付き添いのための病院への「通勤」中、2度交通機関を乗り換えなくてはならなのですが、どうもまだ迷います。

迷子になるわけではありません。方角や駅の構造が頭に入っていませんので、基本的にまだ案内の標識を見て歩きますし、繰り返すうちに覚えた「風景」もありますから、最終的に行きたいところには着けます。しかし、漠然と思っている方向とは「逆向き」から電車が来たり、風景から「西口はあっち」とわかっていても感覚的には東に向いて歩いているように感じられたりと、180 度反対になっていることが多いのです。

本来極端な方向音痴だとは思わないのですが、あんまり逆になっていることが多くていろいろ理由を考えてみているうち、思い当たることが2つ浮んできました。

一つは他愛のない単純なものです。「自然」の地形が基準にできるところでは迷わない。ですから新交通システム「ゆりかもめ」でお台場へ渡ってしまうと、海が「感じられる」ので、埋立地の形によって海の方角が南になろうと東になろうと大丈夫です。つまり、私は建物ばかりのところ、あるいは建物の「中」に弱い。

しかしもう一つは、気が付いたらがくっと気落ちしてしまうような内容でした。結論に飛んでしまえば「知らない間に歳をとっていた」ということです。ただ、それでは話が飛びすぎて面白くありませんから、間をつなぎます。「歳をとるとはたとえば具体的にどういうことか」という話です。

体感している(そして往々にして間違っている)方角と、実際の方角とのずれが常に 180 度だったのが、「どうして?」と思い始めたきっかけです。ここでひっくり返っていたというところをたどり直してみて、共通しているのは 90 度同方向の回転が2回、しかも比較的短距離の間に重なって 180 度になっていることでした。

直角に曲ったところまでは、無意識にでも、ちゃんと把握しています。ところがこれが心理的に負荷が高い。その負荷に「慣れる」だけの身体時間的な余裕があると、その次の直角もフォローできるのです。ところがまだ高負荷状況に抵抗しているような「遷移」期に次の直角が重なると、無意識に負荷をキャンセルしてしまう向き(つまり、右・左あるいは左・右と曲って元に戻っているような状況)に曲った「もの」と思い込んでしまって、実際に曲った向きを気にとめないような「反応」をからだがしてしまっていました。

愕然としました。楽に流れるとはこういうことだったのか!

楽に流れる「傾向」に、逆らうことはできないと思っています。言い方を変えると、私は「意志」などと呼ばれるものをそんなに信用していません。むしろ、(私における)楽を作り変える(「楽」の定位される位相を再構成する)可能性に賭ける。

今、客観的に言って小さくはない手術(ただし、心臓や脳といった fatal な臓器ではなくて下肢ですが)を終え、まっとうに筋肉が堅くなって膝が真直ぐには伸ばせなくなっている息子の「リハビリ」を(勝手・一方的・強引に)しています。骨などの構造物には手をつけていない手術ですので、基本方針は「必要以上に」かばわずに日常生活上当たり前(と無反省に思ってしまう無理)を(無理のない範囲で!)強制することです。

ここで、二つの「自然」ないし「当たり前」がぶつかっている。

極論すれば、「閉じる」のも自然、「開く」のも自然ということなのですが。

「かばう」という形容は、「閉じる」にはつながりません。必要(ここでの「必要」が何を指すのかは問わないことにします。私自身よくわかっていませんから)以上にかばわないとは、つまり、開く可能性を残す(もう少し正確に言えば、残し「続ける」)ことです。

寝ている間は無防備な身体を守る必要からか、閉じる(こわばる)方向の自然が勝ちます。朝一に触ってみると、昨日の成果は何だったの? と言いたくなるようなところまで縮こまっています。しかし、それを「(私のこの局面における語感として)無理にではなく」伸ばす(伸びる方向で力を抜ける)ように刺激してやると、ズズッ、ズズッといった抵抗を伴いながらも、筋肉(腱?)が勝手に伸びるのです。このとき、緩める(≒開く)向きの自然に重心が移る。

縮むのも楽、伸びるのも楽。ただ、その肌触りは 180 度違います。

伸びるには、やはり、ある局所的・瞬間的な「高負荷状態」を通り過ぎなくてはなりません。ここで急ぐと(手っ取り早く結果を出そうとしてしまうと)、安直に負荷をキャンセルし、そもそも負荷などなかったかのように見なす向きの「楽」が勝ってしまう。ここで時間をかけて踏ん張ると(意思的に押し切るのではなくて、「高負荷状態」は避けられないのだと負けを認めるような「引き」のイメージなのですが)、新しい「楽(というか、心地よさ)」が、ほとんど突然、やってくる。

自然の景色が見えずこれまで体感的な方角と実際の方角がずれてしまっていたところ、そして、ここでは気を抜くとずれてしまうなと感じられたところでは、歩く速さをほんの気持ちだけ緩めるようにしました。みごとに、迷わなく(体感する「リアル」と実証的な現実がずれなく)なりました。

そんな中、今日(15日)、息子の入院先の病院が変わりました。平たく言って、ようやく通い慣れてきた道順が白紙に戻って、明日からまたやり直しということです。新しい方法で試してみよう。まったく同じ響きで、新しい感覚で息子のリハビリをしてみよう。

歳をとるとは、安直に閉じる方向の楽にすがってしまうようになる姿かもしれません。ならば熟するとは、安心して開き続けることのできる楽に触れた姿か。

熟せよと呼びかけてくださるお名号でした。

合掌。

文頭


転院 (6月21日)

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息子の入院先が、癌研有明病院から聖路加病院へ変わりました。

本来、私は環境がくるくる変わることを好みません。さらに、病院や学校などについては「選ぶ」という感覚にも抵抗があって、縁あって「出会えた」ところにそのまま任せていくことこそが、むしろ一番積極的な態度だというふうに考えています。

最初の手術が無事終り、術後の抗がん剤治療も完了して、感覚的には「完治」した、後はしばらく目を離さずに経過を観察しているだけで万事安泰と思ったのも束の間、5月に転移が発見されました。ユーイング肉腫(息子の「小児がん」の正式な診断名)で転移が出た場合、予後が非常に良くないことは知識として知っていました。しかし素人の悲しさ、「目の前」に見えること以上の、全体としての出来事にイメージが届かないのです。

結局、転移が恐れていた肺へではなくて膝の裏だったことで、無意識に「安心」してしまっていたのでしょう。ですから、見つかった腫瘍の外科的な摘出手術が終わると、それで峠は越えたような気でいました。

しかしプロの先生方にとって、本勝負はむしろこれからの抗がん剤治療の方であったようです。

前回の化療にもかかわらず「生き延びて」発症したがん細胞があったということは、端的に言って、これまでの一般的な薬は効いていないということです。より強力な治療を考えないといけない。

癌研病院は、やはり外科的な手術の比重の大きい、もっとべたな言い方をするならば手術が売りの病院です。子供相手の内科的な治療は聖路加病院の方が得手で、転移が見つかった早い時点から、そのような方針――手術を癌研でできるだけ早く済ませ、聖路加に移って術後の化療を進める――が打ち出されていたらしいのです。実際、有明移転後、術前・術後の化療は聖路加で、手術は癌研でという「分業」体制が整備されつつあります。

ところが、そのあたりの事情に当事者が「気持ちの上で」ついて行くのはけっこう大変です。手術が終わって、癌研の方から聖路加への転院を勧められたとき、率直に言って、癌研から「見放された」ような印象をもってしまいました。ベッドがなかなか空かなくて数ヶ月入院を待たされている方なども知っていますから、あながちピンとはずれな邪推とばかり言えない面もありますが、転院を勧める「真意」が理解できなくて、一時期はかなり見苦しい悪あがきもしました。

薄々事情が飲み込めてきても、転院の決意というのは患者にとって独特なものがあります。譬えるならば、離婚して、すぐに再婚するような思いです。離婚相手が、気持ちの上で全面的にすがっていたところだけになおさらです。「見放された」と思いたくない。相手を悪く思いたくない。同時に、再婚相手と始める新しい生活に古いなじみを持ち込みたくない。

転院して一週間が過ぎ、少しずつこちらでの「標準」にも慣れてくる中、上のような感覚ではいかにも実状とかけ離れていたことがわかるのですが、患者とはそんなものでしょう。

もう少しわかりやすい説明がしてもらえていたら、という気がしないではありません。しかし現実問題として、どう工夫したところで出来ない相談と言うべきでしょう。

『あなたの病気は、そもそも発症の時点で最悪であれば3年の覚悟が必要なものです。今「実際に転移が見つかり、それから推して常識的な枠内では最強と考えられる抗がん剤も効いていなかった」ということは、実際にその「最悪」の状態にあるということですから、希望をつなぐにはより踏み込んだ治療が必要です。それを受けるには、経験量や実際の対応のノウハウの豊富さなどから、当癌研よりも聖路加病院の方が適切と思われます。』

と、曖昧な部分をばっさり切り詰めてきっぱり言われていた方が私たちにとってはわかりやすかったとしても、さすがに一般的とは言い得ないでしょうから。

それに、これだけ「冷酷な」表現ですらまだ切り取った「現状」の理解に止まるもので、時間的なことを含めた「全体像」となるとさらに話は広がります。仮に何も治療をしなかったと仮定した場合、どのようなタイミングでどのような症状が現れてくると予想されるのか。逆に、治療が功を奏したとして、具体的な治療はたとえばどのような展開をしどのくらいの時間がかかるのか。

しつこく、本人のいる場で、そのようなことも聞かせてもらいました。ようやく素人なりに「病気とつき合っていく」生活のリアルなイメージが持てるようになってきたところです。

気休めでしかない励ましや実現不可能な夢は、かえって時間の浪費にしかなりません。与えられた情況の中で、達成でき、わくわくできる課題をさがすこと。今を充実して過すとは、そんな泥臭いところに根を張るしかないのです。

聖路加病院では、たとえば点滴の針を刺すにしても、腕の細い血管にではなくて、心臓のそばの太い血管 (central vein) にカテーテルを埋め込み、その一端を体外に出しておくという方法をとります。準備のために全身麻酔下での手術が必要になりますが、毎回の点滴時の負担は随分小さくなりますし、また点滴につながれているときの自由度も上ります。なるほど、子供相手であればこのくらいの対応が必要だと納得させられます。

うちの子も、明日 CV の手術です。

そして、「全体」としては半年程度と予想される入院期間中の「達成課題」に、flash (マクロメディア社のアニメーション作成ソフト)をマスターし、作品を完成させようということになりました。私の方からの提案ではなくて、本人が言い出したことです。私にも使えない、中学生にはややしきいの高いソフトですが、期間を考えるとちょうど手頃そうです。

息子の病気に関して、病状や予測される展開を隠さずに本人に伝えるのがよいのか悪いのか、私も悩んだときがありました。しかし今になって思えば、その大前提があってこそ今回のような取り組みができるわけですし、当たり前のことながら「現実を直視する」ことが最終目標ではなく、現実から離れないところで、具体的で手の届く「夢」を見つけわくわくするためなのですから、子供はこういうことにかけてはやわな大人よりははるかに強い。

その実際を目の当たりにしていて思うのですが、子供だからといって(あるいは大人相手でも)病状を隠そうとするのは、むしろその人自身が想像力をはたらかせることをさぼっていることではないかという気がします。

あちこち、出くわして始めてとまどうこともたくさん残っている状況ながら、ようやく「転院」が何を意味するのか全体像が見わたせるようになりました。

思えば、生きている間もこの生を終った後も、私たちの〈いのち〉の主治医は阿弥陀如来、これは転院の心配がありません。ひたすらすがって、うち任せていられます。

合掌。

文頭


出会い (6月28日)

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今回の入院には、独特な心細さがついて回っています。

一つには、当たり前のことながら、病院が変って細かいことが少しずつ違うせいです。点滴の針の刺し方が違う。薬の確認の仕方が違う。機器の使い方が違う。何も知らなければここでのやり方が「標準」としてそのままに受け入れられるのでしょうが、そこは凡夫の悲しさ、どうしてもこれまでと比べてしまいます。そして、今の方が「よりよく」対応してもらっていると思えることですら、無理にひっくり返してこれまでは「雑に」扱われていたのかと感じてしまうようなあり様です。

何のことはない、これでは自分で自分の首をしめて、わざわざ窮屈に受け止めていることになる。

というか、順番が逆ですね。根っこに心細さがあるから、小さな差異にことごとくびくついているのでしょう。

根っこの心細さとは、言うまでもなく息子の置かれている状況です。安直に「治る」ことだけを前提にしてしまうわけにはいかず、この入院生活が息子の人生の最終章となったとしても後悔しなくてすむように、という配慮(?)を抜きにできない。

極端な話をするならば、今入院してつらい化療に時間を使っていること自体が、残された貴重な時間の浪費になっていると考えることもできるのです。治療を続けるかどうかも、いつか考えなくてはならなくなるかもしれません。

そんな中、何に集中して、というか何を中心において、考えればよいのかもう一つピントがしぼれなくて苦労しています。

本人のやりたいことをことごとくかなえてやる、などというのは、現実的でないだけでなく、かえって違うと思う。「不自由さ」が強調されてしまって、よけいつらくなってしまいそうな気がします。がんを強調しすぎるのもよくない。「がん患者」として見られたいわけではなくて、ただ当たり前に「遊雲(ゆううん、息子の名前)」でいたいのですから。

わが身の置かれた「特殊さ」が尖がって意識されてしまうと、何をされても「違う……」という感覚が残るようになります。淡々と薬の交換などが進んでいると、ふと(誇張すれば)「患者をもののように扱わないでくれ」と叫び出したくなるような感情が湧き上がってくることさえある。

つらつら考えてみるに、問題の核心はこの「わが身の特殊さ」の引き受け方にあるようです。

たまたま見かけて面白そうだったので、詳しい内容は知らないままに佐藤秀峰さんの『ブラックジャックによろしく』という医療ネタのマンガを買ってきました。消灯時間の早い小児病棟で、夜の時間をつぶしやすいようにというつもりだったのですが、中学生向けの内容ではなかった。しかしよく描かれていて、親子二人、はまって読んでいます。

その中に「がん医療篇」というエピソードがあります。がんの告知や抗がん剤の問題などのシリアスな主題が、手加減をせずに描写されている。そこに、いろいろな形で繰り返し出てくる「孤独感」が印象に残りました。自分ひとりが取り残されてしまったような思い。それが孤独感の実体でしょう。

私個人は、職業柄、孤独には親しんでいます。ある意味、社会的な連帯感や一体感以上に、信頼してさえいる。しかしこういう形で「孤独」感を味わい直すことができたのは新鮮でした。

本当は、がんであろうとなかろうと、「わが身の特殊さ」はついて回っていることです。ただ、ふつうに平穏な日常を過しているとそのことに気がつく機会が少なく、ましてや直視するのは難しい。ですから、このような形で嫌でも直視せざるを得ない状況に置かれたという意味では、このたびの子供の病気もありがたいことです。

孤独感、あるいはその薄まった感覚である心細さをほぐしてくれるのは、出会いです。信頼できる主治医の先生、心の通う看護師さん、あるいは家族などの愛する人、形は問いません。ただ、必死で支えなくてはならないはかなものとしてではなく、そこに確かに「ある」ものとして出会うことのできた出会いでなくては、深い孤独は埋められない。

思えば、如来のお慈悲とは、孤独な衆生に片時も離れることなく寄り添ってくださってあることでした。私が出会うのではない、私が気づく前から出会われている出会いなのでした。

心細さのただ中に、こうして現に救われてある自分の姿に気づかされ、涙しています。何があっても大丈夫。その思いを確かめ味わいつつ、今を精一杯支えたいことです。

合掌。

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