念仏 (4月1日)
今、ここで、新たに生まれ出だす。そこに時間の根源もある。最近考えているのはそんなことです。
最初の一歩を踏み出したときはとんでもないことを考えようとしているような気がしていたのですが、そんなことはまったくなくて、気がついてみれば至って身近なことでした。
お念仏です。
「念仏」と言えば一言でも、そこにはたくさんの祖師方の思索と宗教体験とが折りたたまれています。まずは簡単にそれを振り返っておきましょう。
そもそも「南無阿弥陀仏」は音写語です。もっとも、このままの形でサンスクリット語仏典などに出てくるわけではないので、分解してその原義を確かめなくてはなりません。
「南無」はサンスクリット語 namo から来ています。namo は namas の音便形で、「~に帰依する、敬礼(きょうらい)する」という意味です。漢訳では「帰命」がよく使われます。ヒンディー語の「こんにちは」は namas te(ナマステー)ですが、この te は「あなた」で、「あなたに敬礼します」の意なのです。
続いて「阿弥陀」は amita の音写です。a- はギリシャ語で「原子(=それ以上分割できないもの)」を atom と呼ぶときの a- と同じく否定の意味の接頭辞、mita はものさしをメジャー measure と言うのと語源的なつながりのある語根 mā 「量る」の過去受動分詞で、「量られた(もの)」の意です。a-mita で「量ることのできない(もの)」となり、漢訳では「無量」が相当します。
ただ、仏名としては、サンスクリット語仏典の中に amita という表現は出てきません。あるのは amitāyus および amitābha のみです。amitāyus は amita + āyus 「寿命、いのち」で漢訳すれば「無量寿」、amitābha は同じく amita + ābhā 「光明」で「無量光」です。このあたりの事情をどのように解釈するかには諸説あって、amitāyus と amitābha の「共通部分」を取り出したという説や、中国に伝播する過程での中央アジア系の言語ではamitāyus と amitābha はほとんど区別できずともにアミタと聞こえたという説などがあるのですが、個人的にはそんな「安易」なことではなくて、諸仏の「中」の一仏としての無量寿仏ないし無量光仏ではなく、諸仏をまとめさらに抽象した諸仏の「根源」としての唯一仏たる阿弥陀仏を見る、深い洞察があったと考えています。
「仏」もサンスクリット語 buddha の音写語「仏陀」の略です。buddha は語根 budh 「目覚める」の過去受動分詞から来ており、「(真理に)目覚めたもの、覚者」の意味ですが、必ずしも仏教の専門用語ではなく、ジャイナ教なども含めたインド思想全般で共通に用いられます。仏教的には tathāgata (tathā 「如」より gata 「来れる(もの)」、如来)の方がより正確に意図を反映していると言えるでしょう。
以上を一旦整理すれば、音写語「南無阿弥陀仏」の意訳は「帰命無量寿[光]如来」であり、さらに現代語訳すれば「量り知ることのできない光といのちのみほとけに帰依したてまつる」となります。
これまでの話は、きちんとたどっていただけるならば、ご理解いただけると思います。どこにも「論理的に」無理はない。が、これに納得できなかった方がいらっしゃるのです。親鸞聖人です。
聖人はその主著『教行信証』の中で、「南無阿弥陀仏」の六字に六字釈として知られる独自の註釈を加えてくださっています。その核心部分を引用すると、
しかれば、「
一回り小さくなっている字は、聖人の覚書のような意味合いです。いきなりでは解りにくいと思いますが、私なりに虚心に整理してみると、
帰…あふれる思いが(<至)言葉に顕われる(<告、述、宣述) →招喚
命…衆生を済度せずにはおかぬ(<招引、使、教、道、信、召)はたらき(<業、計) →本願
となるでしょうか。何が問題になっているかと言うと、本来「衆生」の側から「帰依する」ものであった「帰命」の方向を、ご本願の側からの「喚び声」と逆転なさっていることなのです。(浄土真宗では古来これを承けて、「帰命」を「帰せよとの命」と味わっています。)
さて、以上でやっと半分、念仏=南無阿弥陀仏の「語義」の確認が終ったところです。
語義を離れて、「念仏」にはある意味重なりえない二つの側面というか「動き」があります。「名号(如来が〈南無阿弥陀仏〉と名乗りあげてくださったこと)」と「称名(私の口から〈なまんだぶ〉の声が出ること)」です。これらが重なるところで、念仏とはどのようなできごとであるのか。
本来「同時」であって前後の順番を考えることは無意味なのですが、説明の都合上、順序づけて味わいます。
何よりも先ず、一切の背景に「真如(ものごとのあるがままの姿)」があった。真如とは法であり、空性であり、縁起です。(個人的には、真如がその「全体性」を露わにした相として「涅槃」をとらえています。涅槃抜きの真如、法、空性、縁起、…では不十分だという意識があるのですが、ここでは触れません。) あるいは、散文的に「まったき真理」のようにとらえていただいてもよいでしょう。
ところがここで問題になるのは、まったき真理(=真如)は迷いの「この私」とは原理的に没交渉であるという点です。この私がここに「我」をはっている限りにおいて、真如は隠れる。あるいは、我を離れた相であり我が解体され尽くしたところにこそ顕現する真如は、「この私」の出現によって壊れるとさえ言ってよい。「私」は、致命的に、真理に逆らっている……
このこと自体をもう一度真如に投げ返して、静寂であるはずの真如が言わばその内的な過剰から「動き」出してしまったとき、その動きの求心点として宙空に産まれ出でたのが「この私」であると見直すことにします。静かなる宇宙はその豊穣のゆえに避けがたく沸き立ち、無数に渦巻くその渦の一つひとつが個々の存在物という仮の姿であって、「私」はその渦の一つである。そんなイメージです。
それを「私」に着目しつつ宇宙的な視点で記述するならば、「私」がこの私という意識において私の「我」に閉じ込められたまさにそのとき、全宇宙は「私」と「私の外」とに二分されるということになります。そしてこの「私の外」がそれ自体の「全体性」をもって立ち顕われてくださった姿が、お名号である!
さらにもう一度、今度は名号に視点をおいて眺め直すと、真如の寂静が過剰とみなぎった様が本願であり、本願が「具体的に」動いたところに名号が現われ、名号のその動きの切っ先に「この私」が立たされていることになります。その意味では、ご本願は汎(ひろ)く一切衆生へと向けられているのですが、お名号と実現してくださった時点で「この私」ご指名のオーダーメイドであった。
ところで、一切の背景に真如を観ている限り、「一方的な」動きはあり得ません。「押す」動きはその裏に「返す」動きを伴い、全体で一巡して真如に摂(おさ)まります。「名号」と現われてくださったご本願のこの私へと押し寄せるはたらきは、同時に、ご本願そのものの内において、この私を真如の全体性へと引き戻し摂め取るはたらきでもあるのです。
ご信心「いただく」とはそういうことでしょう。つまり、名号が「この私」目当てのはたらきかけであることに気づかずもったいなくもやり過ごしてしまっている間は、名号の側からすれば言わばのれんに腕押しで、せっかくのお喚び声も空しく拡散していくしかないのでしょうが、お名号がまさしく私に届いてくださったとき、そのはたらきかけは自然(じねん)に真如へと還っていけるようになる。他力のご信心が成就するとは、お名号が南無阿弥陀仏様として「成仏」なさることなのです。
そのとき、私は、「この私」の親として成仏くださった南無阿弥陀仏様の計らいの中に、抱き取られることとなる。仏子としての誕生です。ほとけ子として産まれ出でた産声が、そして抱いてくださってある親を親と知らされて求め泣く声が、お称名なのでした。
称名念仏の一声ひとこえに、私はまことのいのちに生まれ直し、お浄土への道行きをたどらさせていただくことです。
合掌。
死 (4月4日)
どうして、死ぬのが怖いのだろうか。
実は、私自身は死はまったく怖くありません。(「痛い」のはイヤですが。)考えてみると、ほとんど物心ついた頃から、そんな風に感じていたような気がします。
私が死ぬのにせよ相手が死ぬのにせよ、愛しい人――たとえば我が子――と会えなくなると思うと、やはりつらい。しかし振り返って、今まだ「会える」ときにどこまで実際に「出会って」いるのかを考えると、一種心許ない。
出会えていないと思っているわけではありません。問題は、どこまで出会えているかと「考え始めた」ときに生まれます。どこまで理解できているのだろうか、どれだけ共感できているのだろうか、どのように言い直したところで同じで、考え始めてしまうとどんどん遠ざかるだけです。
私は生きて「いる」。それと同程度に、多くの人と出会い、理解し(あるいは誤解し)、共感して「いる」。愛し、憎み、喜び、悲しみ、浮かれ、沈み、私は生きている。
私が生きているということは、「善」などではありません。より端的に、迷いそのものでしょう。迷わずに生きてなどいけるか。「ひとに迷惑をかけないように」などとフザけたことを言う人もいるのですが、そもそも自分の棺桶のふたを自分で閉めることのできない人間に、周りに迷惑をかけずに生きていけるはずもない。
生きるとは、あたりに害毒を撒き散らすことです。生きることを、(おそらく)地獄と言います。
仏教では、「生きる」ことを問題にしていません。仏典に出てくる「生」は、私が知る限り、「生まれる」の意味です。有名な生老病死の四苦の「生(しょう)苦」も、生きる苦しみではなくて生まれる苦しみです。では、「生きる」と「生まれる」はどう違うのか。つらつら思うに、「生きる」ことを問題にしている間は「生まれて」いないということのようです。
問い直してみたらよい。「何が」生きているのか、と。私? 私とは何? 私の自己意識? それとも私の身体?
生きている「つもり」のとき、それはただの思い込みです。幻想と言ってもよい。幻想の生を生きているから、死が理解不能になり、恐怖となる。
「生きる」ことが幻想でありそれゆえに限りのない怯えであるのに対し、「生まれる」ことは具体的な苦です。具体的な苦とは、実は歓びでもあるのですが。
私たちは、「生まれ」なくてはならない。まさしく生まれるために、幻想の生を死なねばならない。幻想の生を(ということは、幻想の死を)離れるほとんど唯一の機縁として見たとき、死はめぐみになります。
合掌。
自己実現 (4月12日)
4月8日――釈尊のお生まれの日であり、JPⅡのご葬儀の日でもありました――に書き始めたのですが、まとまらずに遅くなりました。
私は自己実現という言葉が嫌いです。というか、どうもうさん臭い。
おそらく、純粋に意味されているもの(そんなものがあるとしてですが)に問題があるわけではない。現代という時代背景において使われている「自己実現」という表現に、どこか引っかかるのです。
常々そんなことを考えていたら、社会学者の宮台真司さんがヒントになることを発言なさっていました。
→「仕事での自己実現」と「消費での自己実現」しかないという思い込みをやめよ
なるほど。やっぱり「自己実現」そのものではなく、「~しかないという思い込み」が問題なのだった。それならば、ついでに尻馬に乗らせてもらって、自分の考えを整理してみることにします。
「仕事での自己実現」と「消費での自己実現」にしぼって問題点をくっきりさせたのは宮台さんの炯眼でしょうが、そもそもふつうに自己実現というとき、現代では暗黙のうちに「競争」が前提にされていることが多いように思います。そして、勝った・負けたと白黒はっきりすることは実際にはまれで、勝ち組に置いてきぼりを食わないように一生懸命背伸びをしているというのが実状でしょう。
これでは、「勝った(あるいは、納得できる形で『負けた』でもよいのですが)」という充足感、あるいは少なくともきちんと「終わった」という完了感・達成感とはいつまでたっても無縁です。飲めば飲むほどのどの渇く、塩水を飲み続けているようなものです。
今、自己実現という言葉は肯定的な響きのままに残し、それがはらむ問題の方をキャンセルしようとしているので、競争をいきなり否定しません。むしろ、競争をてこに次のステップへ進むことにします。
もし、絶対に負けたくないというのであれば、あるいはより簡単に必ず一等になりたいというのであるならば、方法はあります。一人で走ればよい。冗談のようで、ここには一つの真理がある。ふつうに競争を問題にしているとき、通常の人の日常の枠内では(オリンピックで金メダル、などというのは宝くじに当る以上に私たちには縁のない世界です)、相対的な話になっているということです。
相対的とは、確定できる形でベスト(あるいはワースト)と判明することなく、漠然と「よりよい」か「より悪い」かだけが前景に見えている状態です。このとき、「可能性」というやっかいなものが一人歩きしている。
うちの息子は小児がん(専門的にはユーイング肉腫)に罹患しました。今、手術が無事終り、転移を警戒しての術後の化学療法も完了して、経過観察のフェーズに移ったところです。が、そのような個別の事情を無視して「ユーイング肉腫」そのものの「5年生存率」という確率(=可能性を数値化したもの)を考えると、資料によって大きなばらつきはあるものの、30%~80%となります。(0%でも 100%でもない。当たり前ですが。)
これをどう考えればよいのか。これには実際、悩みました。今、息子は(最悪で)1/3 だけ生きている?
考えに考えに考えて、ようやくわかったことは、これは解決できない(答えは出せない)ということでした。根っこに相対と絶対の混線がある。あるいは、可能性という宙に浮いたものと、現実という取替えのきかないものとのニアミスがある。本来同じ土俵に乗っていないのですから、折り合いのつけようがない。
もう少し整理すると、こういうことです。私たち人間は、常に二重の世界に住んでいる。取り返しのつかない目の前の現実(およびそれが堆積したものとしての過去)と、未だ現実になっていない(あるいは、ひょっとしたら決して実現することのない)可能性とです。今どき風に対応をつけるなら、身体と脳の二重性といえばわかりやすいかもしれません。
ちょっと(といっても数百年?)前であるならば、あるいは現在たった今であっても地域が地域であるならば、身体と脳とが別々の世界に生きるほどの余裕はありません。「生存し続けること」が至上課題であり、脳にしても宙に浮いた可能性の世界に頭を突っ込んでいる暇などなくて、生存するための戦略で手一杯でしょう。
(絶滅したネアンデルタール人の脳容積は現生人類の直系の祖先であるクロマニョン人よりも大きかったのですが、その大部分は身体運動のコントロールに振り向けられていたそうです。身体機能は私たちよりもネアンデルタール人の方が「圧倒的に」高かった。しかし、ネアンデルタール人は絶滅し、私たちは生き残っている。「戦略」というニッチを見出したことが主要因であるはずです。)
以下、問題発言を承知で書きますので、気の弱い方は読まないでください。私はヒューマニズムなど微塵も信頼していませんので悪しからず。
アトピーなどの自己免疫疾患は、より緊急な事態に直面すると――たとえば回虫をお腹の中で飼うとか――ウソのようにおさまるそうです。同様に、ひきこもりだとか自己喪失感だとかいった精神的自己免疫疾患は、もし根本的に治そうと思うのであれば、危機的な事態に遭遇する以外に方法はないでしょう。
実際、戸塚ヨットスクール(昭和58年、生徒に暴行を加えて死亡させた事件で知られる。告訴された校長は、今も獄中にいるはずです。)は現在でも存続しており、むしろ必要性を増していると聞きます。もし、今目の前で戦争が起こったならば――相手を殺さなければ自分が殺されるという状況に直面したならば――、かなりの精神疾患は快癒するでしょう。自己の生存にまで問題を致すような状態であれば、あっさり殺され淘汰されるだけです。生物の残酷さ、あるいは健全性は、そのようなレベルにおいて適応・進化してきているのです。(事実、阪神大震災などの大きな天災の直後には精神疾患が激減するという報告があります。もっとも、長期的にはPTSD(Post-Traumatic Stress Disorder)などの問題を生んでいるようですが。)
現在、先進諸国において、生存の危機に直面することは少ない。ある意味、それが根本的な問題なのです。そのような状況を実現できたのはひとえに脳によるわけですが、その当然の代償として、「行過ぎた脳化」による「実体のない苦悩」を抱え込まざるを得なくなっているのです。
私は社会学者ではありませんので、このような事態を「近代」に特有のものとは考えません。人間が人間となったとき、その根っこに織り込まれていたものであった。そう理解します。
その上で、問題を一挙にキャンセルし、原点に立ち戻る術を模索しています。問題の立て方から、社会改善などの方向性は持ちえず、徹底的に内面的な試行錯誤になるのはご理解ください。
そのような問いの立て方からする限り、問題の根源は、相対と絶対が分離していること――比喩的には身体と脳がそれぞれ独自の世界に住み着いていること――にある。それを吹き飛ばし、白紙に戻す術はあるか。問い方を変えるならば、「絶対」を回復する簡便な方法はないか。
あります。周囲の不特定多数と比べるから、相対に落ち込み、可能性という化け物が一人歩きを始める。競走を放棄して、独りで走ればよい。他と比べなければよい。「私自身」に徹底すればよい。
要するに、自身の「死」に照らしてものごとを考えればよいということです。基準点を中途半端な高さにおかず、徹底的に低くしてみるだけのことです。
そこから振り返ったとき、いかに迷いの内であろうと、いかにカッコ悪かろうと、私が現実に「生きている」ことが、まさに自己実現のこれ以上ない具体的な姿に他ならないことがうなづける。いかに惨めで悲惨に思えても、私の預かっている生が、めぐみと、ご恩と、輝いてくるのです。
合掌。
つむじ (4月17日)
今年最初の、庭の手入れが一巡しました。15~16 日がうちの寺の永代経法要で、そのための掃除の一貫です。
丸3日かかりました。最初は、去年はこんなに時間がかからなかったはずとはかどらないのにあせったのですが、途中でこれまではしていなかったところにまできちんと手を入れていることに気づき、納得できました。春先でまだ生えている草が少ないことを込みにしても、3日で庭と呼びうるところ全部に手を入れ、上辺の掃除ではなく草まですべてとれたので、少し感慨深いものがあります。
兼業をやめて住職に徹してほぼ2年、ひたすら庭の掃除をしていました。目につくところから始めて、次第に植木のつつじの下などに手を広げ、今ではあそこには手が入っていないというところがなくなりました。簡単にはきれいにできないうるさい草の類が一度徹底的に引いてあり、下の土から手入れがしやすいように作りかえてあるため、短い時間で全体に目が届くようになったのです。
(もっとも1箇所だけは作業をしたのが去年の夏で、春草の根が残っていて大変だったところがありますが。また、笹はほぼ引いて除けたもののスギナは根までは取り切れず、どうしても次々と出てきます。芽が出ているのを見かけたら引いているので大分弱ってはいるものの、完全になくなるまではまだ根くらべが続きます。)
一番好きなスギゴケの世話も、これからは定期巡回のみで済みます。
スギゴケで気を使うのは、倒れてしまわないようにすることです。ちゃんと立って密生している限り、草や他のコケが生えてくることも少なく、裸地よりむしろ手入れは楽です。しかし冬に何度か降る雪で、どうしても倒れてしまう。冬、庭の手入れをしない間の落ち葉もスギゴケを寝かせてしまう元凶です。
雪や落ち葉で倒れただけならば、雪が消え上の落ち葉を取り除いてやればまた自分で起き上がるのですが、倒れたスギゴケにほかのコケがからみつくと、倒れたままになってしまいます。ですから春先には、上を覆っている落ち葉や枯れ枝などを拾って除けながら、倒れたスギゴケを起こして、根元にからんでいるコケを取り、ついでにスギゴケに混じって芽を出した草を引くといった手入れが中心です。
ドライバーを上手に使って、一本一本といっては大げさにしても倒れたスギゴケを起こしていくのですが、倒れ方がそろっていないところがやっかいです。斜面などで上から下へという風にそろって倒れている(あるいはなびいている)ところは、根元にほかのコケがからんでいない限りそのままにしておいても大勢に影響ありません。しかし、平らなところではどうしても倒れ方のぶつかる「境界線」ができる。両方をそれぞれの向きに起こしてみると、ここは一種の空白地帯のようになっていて、地面が空きます。空いているから草も生えやすく落ち葉などもたまりやすい。また、一つのスギゴケのかたまりから見れば縁に当るので倒れ方も一番ひどく、それをからめているほかのコケも多い。
去年大分工夫して、うまく「境界線」が消せたところもあります。が、原理的にというか見た印象での感覚的にというか、どうしても境界線ができてしまう、あるいは境界線を無理に消してしまうとかえって不自然になると思えるところがある。そこをどのようにしてやればよいのか、まだきれいにイメージできません。
消せない(消さないほうがいい?)境界線ができるスギゴケの群落どうしのぶつかり合いを眺めていると、我執と我執のせめぎあいに見えてきます。実際、こういう倒れ方をする群落はある中心から放射状に外に向かって倒れるかっこうになっており、どこかにつむじがあって、全体で渦を巻いています。そして、渦の中心となる「つむじ」のところは、実はスギゴケが一番真直ぐに生えているところになる。
何となく不思議です。そもそも我執って「どこ」なのだろう? ぶつかり合っている縁の境界線以上に、真ん中で真直ぐに立っているスギゴケの方が、より我執に近いものであるように思えてきます。
境界線を作らず、しかも自然に、庭全体を仕上げる方法がないことはありません。部分部分ではなくて、庭の全体で大きな渦を巻くように、作り上げてしまえばよい。まあ、最初がそのような造りになっていないうちの庭をそのように仕上げるのは事実上無理なのですが。
私たちの個々の迷いの生を、宇宙大の大きな一つのいのちの渦に巻き込み、小さい我執を消し去ってくださるのが、如来の大悲なのかもしれません。
合掌。
相続 (4月21日)
前回の「一巡」の掃除で、少し手が入りきっていないなと気になっていたところに、やっぱりはまってしまいました。
本当はほかに片付けておかなくてはならないことがあり、ここは当座目をつむって、二巡目の手入れのときにきちんとするつもりでいたのですが、どうも気持ちがひっかかってほかに腰が上がりにくいので、あっさり(安直に?)作業の優先順位を入れ替えてしまいました。
本堂の真裏です。山肌との間に2m(もありませんね。正確には1m強?)ほどの幅で細長くスギゴケが植わっています。もともと、春はほったらかし、夏は草が茂るので草刈機で刈りはらって掃除に代えていたようなところで、一般の方はもとより、家族でもほとんど見ることはありません。
去年、暇に任せて思い切って草を丁寧に引いてみたら、ほとんど残っていないだろうと思っていたスギゴケが思いのほかしっかり残っていて、どこか無視してしまっていたスギゴケに対するすまなさのようなものを感じています。本堂の屋根の雪が落ち、日当たりが悪いこともあって、庭中で一番長く雪の下に埋もれているところでもあります。
去年の草取りでは、スギゴケの下を縫って細い茎で広がっている草(チドメグサ)が埋め尽くしていたような有り様でしたから、最初は確か一月近くかかりました。その後定期巡回で数回にわたって草はとってあるので、今では草の類は一本も目につきません。
しかし、スギゴケの中を横にはい、倒しこんでしまうコケ(家族内の通称でヒョロヒョロゴケ、正式にはハイゴケ)がかなり残っているのです。草がなくなった分、スギゴケだけでなくヒョロヒョロゴケの方も勢いをつけていて、ほおってもおけない状況になってきています。
もちろん、草を引く手入れのときに目につくヒョロヒョロゴケもとりますから、ぱっと見に気になるほどではありません。倒れたスギゴケを起こそうとドライバーでかき分けたときはじめて、増えているなあとわかる程度のことです。が、禍根を断っておかないと延々同じ作業を繰り返すことになるので、「増える」勢いを止めてしまいたい。そうすれば今年の梅雨でスギゴケがうわっと茂るとき、完全にスギゴケ優位になります。
2日かかって(といってもあき時間を使ってですから正味は8時間くらい)、半分終りました。ドライバーを片手に、とった草やごみをバケツに入れていくのが私の草取りスタイルですが、1時間しゃがみ込んでいてばけつの底に数センチ分くらいたまる程度の地味な作業です。
のん気を自認している私にしても、さすがに「こんなことをしていていいのだろうか?」という気になります。ほぼ、誰の役にも立たない作業。効果とか効率とかいうこととも限りなく遠い仕事。ひょっとしたら、私は単に自己満足のためだけに無駄なことをしているのかもしれない。一種恐怖感に近いようなあせりを感じてしまうこともあります。
何のためにこんなことをしているのか、と自問したとき、最終的な答えはみつかりません。スギゴケがかわいそうという気持ちはある。でも、そのためにヒョロヒョロゴケの方を退治しようとかかっているのですから何とも一方的で強引な話です。庭を隅々まできれいにしたいという「完成」を目指す思いもある。が、いささか行きすぎているような気もする。
そもそも、人に手伝ってもらおうという気がまったくありません。忙しくなるなり他の理由でなり、私が目を配れなくなったとき、今のようにきれいにしておけと要求する気もない。そのときはまた静かに、ゆっくりと荒れていくだけのことだと思っている。
小学校時分、春には「五万堂(ごまんどう)」へわらび採りの遠足に行くのが恒例でした。山の奥懐に小さく開けた明るいところで、寄り添って建っていたであろう屋敷の跡が残っています。昔は、この屋敷の周りでも庭の草取りを丁寧にしていた人があったかもしれない。今は崩れかけた石垣を残すのみで、庭はすでに山肌の一部になっている。
徹底的に無駄で私のこだわりのみしか残らないような作業の中、かえって「どうしてもこれをしたい」といった衝動のようなものを覚えます。ほとんど私のこだわりを超えて、「これをせよ」という呼びかけに応えているだけのようにすら感じられる。何を目指す衝動なのか自分でもはかりかねるのですが、庭の手入れをしているといつも、あの五万堂の風景が身近で懐かしいものとして想い出されるのです。
私は、庭をきれいにしたいと思っているのではない。
浄土真宗で、お念仏が引き継がれ受け継がれていく様を、相続と呼びます。引き継がれているお念仏に焦点を当てた言い方ではなくて、おそらく自然(じねん)に確かに続いていく大きなはたらきの方を指しているのだと思います。一種形容しにくい、独特な言い回しの中で使われる。ある方のお念仏の姿に、ふと亡くなったおばあちゃんの面影が重なったとき、ああ、相続されているなあ、といった風に。
私はきっと、五万堂の屋敷で庭をきれいにしていた人を、相続しているのでしょう。そうやって私は時間に埋もれ、時間に埋もれることで、かつてこの地で生活した一切の人々の歴史を呼び覚まし、再現している。時に感じる恐怖感は、時間に飲み込まれてしまうことに対する私の小さな我の悲鳴なのかもしれません。
合掌。
勢い (4月26日)
気になっていたスギゴケの手入れが一段落しました。
実は、私のスギゴケの手入れの仕方には、一つ致命的な問題があります。それは早くから意識していたのですが、どうもそれが抜き差しならなく、いやそんな大げさなことではなくて、今度ばかりはしっかり直面せざるを得ないことに、なりそうです。
「問題」というのは、私がスギゴケそのものには手を出さないというスタンスをとっていることです。そもそも、自分では一本のスギゴケも植えず、父が造った庭(もちろん、直接造ってくださったのは庭師さんです)のスギゴケを、極力絶やさぬように、そして勝手に拡がっているところはそれを後追いするような形で、スギゴケの間の草や他のコケをとり、必要に応じて土を作り直してやっているだけです。
それがうまくいっているところは、まあ、よい。一番楽? なのは、スギゴケが自分で広がっていっているところです。高さが1cm 程度のかわいい スギゴケ が生えてきて、後追いで土に砂を足してスギゴケに合わせて仕向けてやると、けっこう調子よく勢いをつけてきます。何にせよ、拡大・発展という方向は気持ちがよい。
未だに理由がわからず、当然対応策の見つかっていないのが、それまで調子のよかったところにできてしまった空白です。下にモグラがトンネルを掘って根が上ってしまったり、上の「つむじ」で触れたような理由でなど、周囲はスギゴケが元気に茂っているのに、ぽかっと空白――小さなものはテニスボール大、大きくてもノート程度――ができてしまって、原因を取り除いて土をしっかり準備してやっても、なぜか若いスギゴケが生えてこないところがあるのです。補植して修復すれば話は簡単ですが、それはしない方針なので、途方に暮れながら見守っています。
が、それ以上にやっかいなのが、かつては調子がよかったのにどんどん勢いが枯れていくところです。
今回手を入れたところではないのですが、風呂の裏に、かつては素晴らしくきれいにスギゴケが茂っていた一角がありました。ところがここ数年ばったりと勢いが陰っていて、手入れをしても悲しくなるような有り様です。優に 20cm 近くあるような立派なスギゴケがみんな情けなく倒れ、起こしても起こしても、どうもシャンとしてきそうな気配がありません。何より、下に若い芽がほとんど出ていないのです。
この度作業の優先順位を入れ替えてまで対応しようとしたのは、スギゴケの側から見て敵(かたき)になってくるような、ヒョロヒョロゴケの勢いを削ぐことでした。これは放っておくと爆発的に増えてきそうだ、といった気配を感じて取り掛かったのですが、勢いと一言でいっても、実際には幅広いグラデーションがあります。
一見して勢いがあるように見えるものが、実はもろい。ヒョロヒョロゴケにしても、一番長く立派になるのは単独で生えているものです。定期巡回の際に見つけてとるのもこれですが、垂直に立っているスギゴケの中を、うねうねと 30cm 近く伸びているのもままあります。が、とってしまえばそれで終りで、また放っておいたとしてもいきなりスギゴケを圧倒してしまうことはありません。
今回ヒョロヒョロゴケに不気味な勢いを感じたのは、指ではつまめない糸ミミズのようなヒョロヒョロゴケがいっぱいあるところでした。感覚的には、ヒョロヒョロゴケの「巣」です。この巣が、一つ二つならまだいいのですが、あっちにもこっちにも一杯できていた。一本いっぽんとる、などということはできないので、スギゴケは残しながら土ごと削り取って、後を目土しました。全部取り切るのは無理で多少は残るものの、こうしておけば確実に勢いは止められるでしょう。
つまり、現実に一番強く「勢い」が感じられるは、見かけの、あるいは実現した威勢などではなくて、次々と新しいものが生れて来るときだということです。もう少し正確に言うならば、単に新しく若いもの「だけ」が出現するのではなくて、数代にわたる積み重ねの中に錯綜して若いものがどんどんと出てくるところにこそ、ねちっこくしたたかな「勢い」が実現している。
実際にやっていること(ヒョロヒョロゴケを取り除いていること)と食い違っているのは承知の上で、なぜか、ずっと「間引き」という言葉を連想していました。野菜の芽生えを対象とした間引きや植林の間伐でならば表には出にくいものの、かつて人間に対しても使われたことのある「間引き」という言葉には、耳を覆いたくなるような響きがあります。
私は、スギゴケを間引いたことがない。あるいは、もう少し現実に即して言うならば、若い芽を育てるために成長した立派なスギゴケを引くなどということもした覚えがない。(こちらは、「姥捨て」とでも呼ぶべきでしょうか。)
が、たとえば、どういう理由にせよ「枝を切ることのできない」剪定屋さんがいらしたとしたら、致命的にまずいはずです。
今あるものをすべてそのまま残して、なおかつその上、というのは虫が良すぎる話でしょう。新天地開拓という局面ならいざ知らず、全体としては「安定」した状態の中に「勢い」を保つこと。本気でそれを目指すには、「間引き」にせよ「姥捨て」にせよ、身を切る覚悟がいるはずだ。
私は、間引きに選抜されて生き残る側(いわゆる勝ち組?)や、ましてや「間引く」側に身を置いてものを言っているのではありません。間引かれる側(これが「負け組」だとは思わないにしても)に立ってなお、それを「よし」と信頼する術を、捜したいと思います。
合掌。