大乗
では、大乗仏教とは何か。
それこそ、それだけで本が一冊どころか何冊でも書けるくらいの主題ですから簡単に説明するのははじめから無理ですが、一応『広辞苑』を参照しておきましょう。なお、「乗」はそのまま乗物で、衆生をさとりに向かわせる教法、法門を意味します。
紀元前後頃からインドに起った改革派の仏教。従来の部派仏教が出家者中心・自利中心であったのを小乗仏教として批判し、それに対し、自分たちを菩薩と呼び利他中心の立場をとった。東アジアやチベットなどの北伝仏教はいずれも大乗仏教の流れを受けている。
最低限の補足説明をしておくと、部派仏教とは釈尊*滅後百年くらいたって、教義の解釈をめぐり仏教教団が分派して後の仏教の呼称です。それまでの仏教は原始仏教と呼ばれます。部派仏教は大乗の登場で消えたわけではなく現代にまで伝わっており、大乗仏教を中央アジアから中国および周辺諸国へ伝播していったことから北伝仏教と呼ぶのに対し、東南アジア・セイロンへ伝わったという意味で南伝仏教と言うことがあります。現在では長老派仏教あるいはその原語でテーラヴァーダと呼ぶのが一般です。
* 釈尊の没年には前483年、前383年、前543年などの諸説があって確定されていない。ただ80歳で入滅されたことは定説とされている。
その上で、大乗仏教のキーワードは、菩薩と利他です。
菩薩とは
* 釈尊滅後五十六億七千万年の後にこの世に下生し、竜華樹の下でさとりをひらいて、衆生を救済するために三回説法するとされる。
菩薩の姿が際立つのは利他と重なったときです。出家して世俗を離れ、修行・学問に励む仏教者のあり方を自利(自分ひとりのさとりを求めること)として批判し、利他(一切衆生を救済すること、あるいは他の一切衆生とともに救済されること)を掲げたことから、「さとりをそなえて現実世界におり立つ人」「さとりに至らず救済活動を続ける人」という方向に大きく意味を転じることになりました。大乗仏教以後のインドの高僧を、龍樹菩薩、天親菩薩のように尊称するのもこの用例に連なるものでしょう。
自利の否定が利他ではなく、自分が泳げなければおぼれている人を助けることはできないように、自利と利他は車の両輪のようなものです。そこから究極的には「一切衆生の救済(利他)をもってさとりの完成(自利)とする」といった菩薩像も現れます。ですから、利他といってもヒューマニズム的な「困っている人を助ける」といったスケールの話ではありません。
しかしそうすると、いったいだれが菩薩なのかということが見えにくくなります。一方で、*如来と事実上の区別がなくなりますし、他方、一切衆生も「一切衆生を救わん」という如来の救済行の内にあるとすれば、すでに何らかの度合いにおいて菩薩的だと言い得ます。
* 仏の別称。tathāgata(タターガタ)の漢訳で、如 tathā(タター、仏教的な真理の別名)から来た āgata(アーガタ)人の意。実際の救済活動に重点が置かれている響きがある。
わたしは菩薩なのか?
この問いはその後の仏教の展開にも関わるので、保留させてもらって大乗仏教に戻ります。大乗仏教は、仏の位置づけも大きく変えました。
釈尊の直弟子たちを*1
*1 śrāvaka(シュラーヴァカ)。文字通り「声を聞く者」の意。
*2 仏陀(buddha、ブッダの音写語。覚者の意)は仏教のみで使われた尊称ではなく、広く「(真理を)覚ったもの」の意味でバラモン教やジャイナ教でも用いられた。声聞も同様で、ジャイナ教では後の仏教と逆に在俗の信者を指す。
*3 arhat(アルハット)の音写。「供養されるにあたう者」の意で、「応供」と訳される。
*4 sahā(サハー)の音写で、この現実世界のこと。この土の衆生は、内にはもろもろの苦悩を忍んで受け、外には寒・暑・風・雨などの苦を受けて、これを堪え忍ばねばならないことから、忍土・忍界などと漢訳される。また聖者も、疲労や倦怠を堪え忍んで教化しなければならないため、堪忍土と訳される場合もある。
ところが大乗仏教では、釈迦仏以前にも多くの過去仏を認め、そればかりか十方に数えきれないほどの諸仏があると主張するようになります。まさに曼荼羅です。しかしそれは、一つ間違うとアニミズム的な世界観に逆行しかねない内容でもあります。それをなぜ釈迦一仏でなく多仏なのか。
「仏」が、釈尊という一人格において達成された平安の境地であり個々の修行者の目指す目的としてではなく、全宇宙的な「仏である」というはたらきにおいて受けとめられるようになったためです。仏の救済行ははるか昔から今に至るまで現にさまざまな形ではたらいているとされ、それを反映した多仏なのです。そしてそれは、勢至菩薩が智慧の徳を、観音菩薩が慈悲の徳をあらわすように、さまざまなはたらきの象徴としてのたくさんの菩薩像を生みだすことにもつながりました。
大乗仏教は、全宇宙を一つの大きなはたらきとしてとらえた。それを
自利・利他は、そのまま智慧・慈悲と重なります。一切のわだかまりを打ち砕き迷うことを許さないはたらきが智慧ですが、それは「全体に信頼せよ」という大喝なのです。まさしく全体が全体として出会われたならば、風呂の中で向こうへ水を押しやればそれがそのまま流れとなってこちらへ帰ってくるように、智慧は慈悲と姿を変えて、すべてのしこりに寄り添い迷いそのものを輝かせるはたらきとなります。大いなる慈悲、大悲です。
大乗仏教とは、体を一如、
すでに一度触れたように、仏教は、その当初からその内実において大乗仏教でした。ただ、そこまでわたしたち衆生が追いつくのに数百年の歴史が必要だったというにすぎません。大乗非仏説という論点があります。もともとは大乗仏教の出現に対し部派仏教(小乗仏教)側から出されたもので、釈尊亡き後数百年を経て成立した「大乗経典」など虚妄の説との論難です。もし仏が釈迦仏しかあり得ないのであればそれは正当な指摘ですが、そうではないと気づかれた今、もう取り上げる必要のないことでしょう。
中観と唯識
少し寄り道をして、
中観派は龍樹菩薩を創始者とする流れで、龍樹菩薩の主著『中論』からそのように呼ばれます。小さく言えば五世紀以降勢力争いをするようになった唯識派と並ぶ大乗仏教内の一学派を指しますが、大きく捉えれば大乗仏教の成立に関わり、その大黒柱となった思想です。龍樹菩薩が日本で*八宗の祖と呼ばれるゆえんです。ここでは大きい意味で考えます。
* 平安期に公認されていた三論・成実・法相・倶舎・華厳・律・天台・真言の八宗。天台と真言を除いたものが南都六宗で、天台・真言が平安二宗。鎌倉時代に創始された浄土・禅などは含まれていないが、日本仏教のすべてという響きで使われる。
中観派の最大の功績は、空観の確立です。それについても内容は「悪しき涅槃」の中で紹介していますから、今の関心はそれがどうして大乗仏教の成立につながったのかという一点です。
大乗仏教登場時、部派仏教の中で一番勢力の大きい部派は説一切有部でした。その教理を整理したものが『*
* 『
法を実有ととらえたのでは仏教に反するように思われるかも知れませんが、それは大乗仏教を前提としているからのことで、説一切有部の弁護をしておくならば、無我を定立するための工夫であったのです。大ざっぱには、変化を二項間の関係に翻訳してとらえるような発想です。そうやって我(アートマン)を実体視する我執を解体し、解脱を目指そうとしたのでした。
それを大乗の立場から批判すると、有部が主張したのは
しかし、ただ壊すだけでは新しいものを産み出すことにはつながりません。厳しい否定の論理で知られる中観派ですが、その裏には大きな一つの全体としてのはたらき、如に対する絶大な信頼があったのです。その信頼が強ければこそ、他のどのような学説も小さくわだかまるものと映り、*激しく打ち壊さなくてはすまなかったのでしょう。空は「開け!」と斬りつける利刀ですが、それは「全体に信頼せよ」という心から振り下ろされるのです。
* 実際、中観派の論客にはその激しさを恨まれて横死する人が多かったという。
そのように受けとめてはじめて、龍樹菩薩が
浄土真宗から見たとき、龍樹菩薩は空の論者というよりは易行道の提唱者です。易行道とは難行道に対する語で、「陸路を足で歩いて行くように」行を積みさとりへ至る難行道に対し、「水路を船に乗って行くように」仏名を称すれば*不退転を得るという仏道を易行道と言います。
* 菩薩が、仏になることが決定して、再び迷いを経めぐる位に退歩したり、さとったところの菩薩の地位や法を失わないこと、またその位。七地沈空の難を過ぎた八地以上の菩薩の得る境地とされる。
考えてみれば空観は手段であって、目的は全体に信頼すること、一如のはたらきに対して開きまかせることです。とすれば、「仏であること」のはたらきが実現していることを表す仏名を称えることは、手段にこだわらず一足飛びに目的を達成することになり得ます。
そこから極端な話をすれば、菩薩の階梯と言いつつも、七地まではなにがしか小乗的な、というよりはむしろ小乗仏教をも大乗仏教へと取り込んでいくための方便の側面を持っているのかも知れません。真の大乗は不退転から始まる。必要であればそう考えてみることにしましょう。
続いて唯識派です。正確には
細かいことを省けば、唯識派は*1無著菩薩、*2天親菩薩の兄弟によって教理が発展させられ体系化された流れで、中観派同様小さく言えば他学派との対立も学派内闘争もあった一学派ですが、大きく捉えれば唯識派なくしてそれ以後の大乗仏教はないというくらいの思想です。当然ここでは大きくとらえます。
*1 (395頃~470頃)梵名 Asaṅga(アサンガ)の訳。世親(天親)の兄。弥勒(350頃~430頃)によって説かれたとされる唯識思想をさらに組織的にまとめあげ、唯識思想の教理的基礎を築いた人。北インド、ガンダーラ国のプルシャプラ(現在の Peshawar)に生れ、弥勒について大乗の空観を学んで大悟したといわれる。著書としては、主著の『
*2 (400頃~480頃)梵名 Vasubandhu(ヴァスバンドゥ)の旧訳。新訳では世親とされる。北インドのガンダーラに生れ、はじめ部派仏教の説一切有部・経量部に学び、『倶舎論』を著した。兄無着の勧めで大乗仏教に帰し、瑜伽行唯識派の根底を築いた。『唯識二十論』『唯識三十頌』『十地経論』『浄土論』等多くの著書があり、千部の論師といわれている。真宗七高僧の第二祖。
最初に概略を伝えておくならば、いのちの全体に対してわだかまり背を向けるすべての思想を否定する、つまり智慧の側面の強かった中観派に対し、どのような生き方もとりあえず認めてその居場所を与え、その上でほんとうのいのちのくつろぎへとすくい上げていくような、慈悲的な側面を支えたのが唯識派です。雑に過ぎるのは承知の上で、大乗といういのちの地平を、中観が切り開き唯識が整備したというくらいの見通しで記述します。
学派の名前にもなっている唯識説とは、直訳すればそのまま唯心論です。ただし、心およびその持ち主(?)の「わたし」の広がりが現代を生きているわたしたちの感覚とはかなり大きく異なりますのでそれは注意してください。唯識説を深層心理学と同様に理解している人も少なくありませんが、それは現代人的な(科学実証主義的な?)小さい窓からのみ心を眺めたときの話であって、そういうところに収まる思想ではないのです。そもそも実我は部派仏教の段階で否定されていますし。
部派仏教でも説かれていた①眼識(視覚)・②耳識(聴覚)・③鼻識(臭覚)・④舌識(味覚)・⑤身識(触覚)とそれを統合する知覚作用である⑥意識までの六識に加え、唯識派ではヨーガの禅定体験から、潜在的な自我執着心としての⑦
浄土真宗から見た唯識派(というより天親菩薩)の意義は、何よりわたしの迷いの底の向こうに開けている一心の宣布にあります。ここでいきなり話をそちらへ向けると狭い真宗の話題になってしまうので、それには別のところで触れます。
唯識派のその後の仏教への影響力は、学派の名前である唯識説そのものよりも、心がはたらき現れるダイナミズムをとらえた
三性説で注意しておく必要のあることは、遍計所執、依他起、円成実という三つの性質が、切り離された別々のものに備わる性質ではなく、同じ一つのものの三側面だということです。必ずしも一般的な解釈ではありませんが、いのちのおしえとして仏教を見ていこうとしている今、円成実性を体(全体としてあらわれたこころ)、遍計所執性を相(平衡としてあらわれたすがた)、そして依他起性を用(はたらきとしてのいのち)と重ねて受けとめておくことにします。
密教
さて、保留していた問い、「わたしは菩薩なのか」です。
大乗仏教の担い手たちがみずからを菩薩と呼んで利他の立場を打ち出したとき、一切衆生が救われうるおしえが目指されたことは間違いありません。その点を誇張して形容するならば、小乗仏教から大乗仏教へという転換は、一行者の瞑想から、一切衆生ないし全宇宙をつつむ教学体系への飛躍であったと言い得るでしょう。
実際、中国の随-唐代に成立した華厳宗や天台宗は、王朝国家維持のための思想という側面も重なって、壮大な体系を構築しています。その後共に東アジア全域にひろまり、文明圏の形成にも大きな影響を与えました。ちなみに奈良の東大寺の大仏は華厳宗の本仏である
しかしそれは、出家僧の集団、あるいは権力者側から見た秩序であり、一衆生としてのわたしは一方的に秩序の中に組み込まれているだけで、事実上度外視されていました。一切衆生の中のゴミのような一人でしかないわたしから見たとき、華厳や天台に代表される壮麗な体系はあまりにも遠く、とても手の届くようなものではなくなってしまったのです。整備された大乗仏教の中で出家し修行を積んでさとりを開くには、三大
そんな中で、あらためて一衆生として問うてみるとします。「わたしは菩薩なのか」と。それは「わたしは現実的にさとりを開きえるか」と問うのと同等です。
それに対して、ある意味で Yes と答えたのが密教なのです。
密教は、インドに起源を持つという意味では一番新しい仏教です。七世紀に形をとった『大日教』や『金剛頂経』をもって密教の成立とされます。ただし、日本の真言宗(東密)や天台系の台密、かつてラマ教と呼ばれたチベット仏教などがみな密教に含まれ、簡単に概観することはできません。ここでは主として真言密教で言われる即身成仏のみを取り上げ、裏で浄土教との対比を意識しつつ見ていきます。
なお、密教とは
どういうことかと言うと、何よりまず仏教的な感覚において「言語」は迷いの根源とも言い得る分別に重なるもので、そのような空気の中で学究的に緻密な体系を構築した場合、最後の最後では言語的な分別を離れたところに究極の真理(?)を据える以外になく、結局すべての顕教において最終的な核心は言語を絶するものとして位置づけられています。不可思議(思議すべからず)、言語道断(言語の道断えたり)、あるいはそのような思弁的な近づき方を投げ棄てて実践的に仏の真心に直入せんとする禅(仏心宗と呼ばれることもあります)の言葉も借りれば
しかしその態度は、ある意味より純粋に言語的な、
そんな中での即身成仏です。即身成仏とは、生きているままで仏になることです。しかも大乗仏教である限り、さとりを開くとは「一切衆生の救済」が込みの出来事でなければなりません。結局、ことは主仏である大日如来のさとりの現成に帰着するのです。
目の前のすべての現象は、このわたしがここにいるということも含め、大日如来の正覚そのものとして信頼する限りすでにさとりの内にあります。一切衆生は、受動的・潜在的にもうさとっているのです。それが、上で密教は「ある意味で」Yes と答えたと限定を加えた理由です。
もし積極的にわれとわが身において即身成仏を体現しようとするならば、しかし話は飛躍的に難しくなります。基本的には大日如来の正覚とシンクロすればよいだけなのですが、何しろそれは仏の自内証の出来事、弘法大師空海のような宗教的超人でなくしてはなしえないことでしょう。
わたしは個人的に、密教の登場を歓迎します。仏教がより真正にいのちのおしえとしての顔を見せたわけですから。
しかしそこに、大きな課題が残っていることも無視できません。洗練されたアニミズムと、事実上区別する術がないのです。依存する自然環境のスケールが桁違いに大きくなっていることは確かとしても、アニミズムと仏教とを峻別する「涅槃」という契機は、大日如来の内で消化されてしまっていてわたしたち一切衆生には隠されるからです。
事実、インドにおいてはより大らかにアニミズムであるヒンズー教に飲み込まれ、仏教(最後期まで存続していたのは密教です)は消えてしまいました。
そのような意味も含め、わたしは密教を、こらえきれなくなって吹き出してしまったいのちのおしえと受けとめています。いのちはただいのちであるだけはいのちに届かない。何だか七地沈空の難と似たようなことが起っています。
浄土
「わたしは菩薩なのか」という欲目を、ばっさり根元から否定したのが浄土教です。
随-唐の中国統一前夜、中国は末法の時代に入りました。末法とは、
* 像は「似る」の意味で、正法に似た時代、あるいは行がほんものでないために証のない時代、という響きを持つ。
随代になると仏教復興政策がとられ、一方で華厳や天台の壮大な仏教思想が展開されていくのですが、その裏で、そのような仏教では救われようのない自分のあり方を見つめる風潮も広がります。いかに緻密に構築された体系であろうと、このわたしの迷いの現実に届かぬものであるならば虚構にすぎません。
それを端的に言い切ったのが*
* (562~645)俗姓は衛氏。并州水(現在の山西省文水)の生れ。十四歳で出家し『涅槃経』を究めたが、石壁山玄中寺で曇鸞大師の碑文を読み、四十八歳で浄土教に帰依したという。以後、日日念仏を称えること七万遍、『観経』を講義すること二百回以上に及び、民衆に小豆念仏(小豆で念仏の数量を数えること)を勧めた。著作の『安楽集』は、曇鸞大師の教学を受け、末法到来の時代の認識、聖浄二門判などの浄土教の主要な問題について述べたものである。真宗七高僧の第四祖。
大乗の登場によって、自利・利他円満した一つの大きなはたらきである如がきちんと受けとめられ、それを体現し支えているところの仏・菩薩のあり方も理解が深まりました。しかし深まれば深まるほど、その内容は一人格、一個人で引き受けられるものではなくなります。大乗的な意味でさとりに至り得るのは、事実上潜在的にすでにさとっている菩薩のみです。
大乗-菩薩世界は、如が、内なるいのちの流れである大悲に満ちて、いわばその大悲のうねりとして無数の仏菩薩を顕現させている、全宇宙的な大きないのちがひとりはたらいている世界です。そのただ中にありながら、わたしは「わたし」であることによってその大きないのちに背を向け、わたしとわだかまる。しかしこのわたしの迷いの姿こそ、わたしにとっての抜き差しならないいのちの現実です。そこから離れぬために、浄土教はそれまでの全仏教と同意である聖道門の方を手放したのです。菩薩ならぬこの身においてさとりを実現するのは不可能であると。
そして、あらたに「迷える凡夫」のための法門として浄土門を開きました。
浄土とは清浄仏土の略で、広義にはすべての仏に浄土があります。しかし煩雑になる正確な話は抜きに、いきなり阿弥陀仏の極楽浄土で話を進めましょう。
極楽浄土は、阿弥陀仏が
密教も、大日如来の正覚に信頼するおしえでした。密教と浄土教と、どこが違うのか。
(なお、中国で考えるならば密教と浄土教の順序は逆で、浄土教が先にひろまり、密教が趨勢をふるったのは唐代後半から宋にかけてです。しかし日本では独り立ちした時期が逆転しており、日本の事情も視野の片隅に入れて考えます。)
要点は、現に迷っているこのわたしの居場所があるかないかです。密教における大日如来の正覚は、この娑婆世界を離れず、わたしたち凡夫の目には迷いとしか見えないできごとすべてを包んで現成しているものでした。ですから大日如来から見た場合、迷いのわたしなどいなくて、言うならば自身の一部として菩薩の相を輝かせているさとりの内のわたし(?)しか見えないのです。そもそも大日如来に「他」はないのですから。
ほんとうにきれいな話なのですが、わたしの側から見る限り、どこかに、矛盾とは言わないにしても大きな亀裂が隠されています。もちろん亀裂が見えるのは迷いの目にであって、亀裂などない本来の大日如来のいのちに同調するのが即身成仏とは言え、それは極論するならば最初から迷いの衆生などいなかったのだということになってしまう。いのちに帰らんとしたおしえでありながら、このわたしの迷い(生)には届ききっていない――わたしが、こらえきれなくなって吹き出してしまったいのちのおしえと密教を見るゆえんです。
対して浄土は、一切の衆生を救わんと誓われた、言うならば「このわたしの迷いの姿」に対して建てられた願に報いて仕上げられた世界で、一面ではわたしから無限のへだたりがあります。具体的な話、生身のわたしが直接住みつくことはできません。しかしそのことがかえって、わたしがここで迷って(生きて)いることに居場所を与えてくれていることにもつながります。
浄土は、ある見方をするならば真の大乗の実現している世界とも言えます。ばらばらないのちがいがみ合いぶつかり合っている娑婆世界ではむつかしい成仏という事業を、行じやすい浄土に往生してから完成しよう。そういう理解を許す側面があります。というより、当初はそのように考えられていたと言うべきでしょう。しかしそれが現実の苦から目をそらして来世に希望をつなぐということであるならば、「宗教はアヘンである」と批判されても仕方のないことになります。
浄土のほんとうのすがたは、「わたし抜きに」完成しているきれいないのちではなくて、わたしの迷いのいのちを認め、このわたしに対して立ち現れてある誓願のはたらきです。誤解を恐れずに言うならば、宇宙大のいのちに対するわたしのネガ(反転像)、しこるわたしの業が逆に浮かび上がらせたわたし以外のはたらきの総体なのです。あるいは、一如のいのちがわたしという我執とわたしにとっての浄土とに引き裂かれていると言ってもよい。
ならばわたしの目に映る一切のできごとは、すべて浄土の一部なのか。半分そうであり、決定的に違います。阿弥陀仏の側から見れば、阿弥陀仏に対して背を向けているわたし以外のものはすべて一つとつながれた大きなはたらき、阿弥陀仏その方のおさとりの一部ですから、わたし以外は浄土です。迷っているのはわたし一人、あとは一切阿弥陀仏なのです。しかしわたしの目にわたしの周囲のものが同類に見える限り、わたしが見ているのはばらばらにちぎれたいのちでしかありません。絶えて浄土などではない。
というより、一如のつながりを嫌い逃れて我を張るのがわたしのいのちで、それを離さぬと追いかけてくるはたらきが浄土なのです。
浄土教はわたしにとっての仏道の意味を、(この現身においてであろうと三大阿僧祇劫の先の未来の果てであろうと)迷いの世界のただ中でさとりを開くことではなく、今生を終えたのち浄土に往生することに置き換えました。
浄土は、来世、死後の世界などではありません。生死の迷いを超え離れた一ついのちが現にはたらいている姿です。ただそれはこのわたしの生(迷い)とは隔絶している。しかしその隔絶において、いのちは真にいのちと現れるのです。自己完結したいのちがいのちであることを見失ってよどむことなく、わたしの迷いという他を見出すことで、このわたしを照らさんがための利他のはたらきとして輝き出すのです。
その必然の仕上がりが、わたしの浄土往生です。小さなわたしの迷いのいのちの永遠の終わりが、宇宙大のいのちのさとりの完成になります。ただ、それはわたしが生きている限り実現されることのない契機で、だからこそいのちは輝き続けます。実現されてはならない涅槃は、まさしく往生に写し取られた。
ほんとうは、往生浄土という出来事が真に理解されたならば、実は往生を待つ必要がなくなります。しかしそこまで浄土の縁が熟すには、親鸞聖人の登場を待たなくてはなりません。
教行信証
教行信証とは、親鸞聖人(1173~1262)の主著の略名であると同時に、一般的な仏教語の羅列です。
親鸞聖人の主著の正式名称を『顕浄土真実教行証文類』と言います。「浄土真実の教行証を顕す文類」の意で、ほとんどが経典や論書の引用から成り、要所要所に短い親鸞聖人本人の註釈(ご自釈と呼びます)が入っているという体裁の書物です。
それを略すのなら教行証になりそうなものなのに、教行信証と信が入ります。これには理由があって、一つには全体が教・行・信・証・真仏土・化身土と信を含む六巻になっており、そしてなにより仏教全般でふつう行とくくられる内容を行と信に分けた点に大きな特色があるためです。ちなみに信巻は教巻の十倍以上のボリュームがあります。
教行証ならば一般的で、前の末法の説明の中で少し出てきたように、教え(教)と実践(行)、そしてその結果としてのさとり(証)を意味し、大きく言えば仏教の全体、通常は一宗を立てるに当たっての枠組みを指します。
ところで、末法においては教は残っているにしても行証はすでにないのではなかったか。それはこの娑婆世界での話です。舞台は浄土、すなわち阿弥陀仏のおさとり、つまりこのわたしに対する誓願の内実なのですから、真実の行証があって当然です。
教行信証、すなわち親鸞聖人における教は、『仏説無量寿経』です。それにはここでは触れず、残りの行・信・証を取り上げます。そのままいのちの見方の三項と重なるからです。つまり、親鸞聖人がよろこばれた仏教は、いのちのあり方を下敷きにして味わうと、より自然に受けとめることができるのです。
順序は違いますが、まず証から見ていきましょう。体、全体としてのいのちのあらわれ、あるいはいのちという出来事の成り立つ広がりに対応します。
証、さとりが一如であることは言うまでもありません。証の巻は
つつしんで
と始まり、さらに滅度を転釈して
かならず
と涅槃の徳が続き、最後一如に帰入されています。
しかしより重要なことは、そもそも教巻(すなわち『教行信証』本論)の冒頭に
つつしんで
と掲げられているように、教・行・信・証の全体が往相・還相の二つの回向の現れであることです。ここでの浄土真宗は「浄土(のおしえ)の
次に、行に戻って、それを相、すなわち平衡として現れたいのちのすがたと見てみましょう。
親鸞聖人は、われわれ凡夫の側の小さなできごとではなく、如来の側での大きなはたらきであることを明示するときに「大」を添えて表現されます。それを心得ていただいた上で、行巻は
つつしんで
と始まります。無礙光如来は阿弥陀仏の智慧の徳を讃えた名で、つまり行とは南無阿弥陀仏のことなのです。しかもそれが如来の側の話ですから、わたしが称える念仏である以上に、南無阿弥陀仏という「名のり」としての名号が考えられています。
ところで、称名というときの称の字は、
では何と何とが釣り合うのか。行巻の称名
しかれば、
とあります。衆生の無明、すなわち迷いのすがた、ということはわたしの小さないのちの「しこる」業が、大悲のいのちの「しこらせぬ」大業と釣り合って、南無阿弥陀仏と立ち上がるのです。
南無阿弥陀仏とは第一に名号、如来ご自身の名のりです。それはそのまま諸仏の
宇宙大にひろがった一如のいのちが、わたしの迷いのいのちを見とがめて往相・還相の一つはたらきとして全体のすがたを整え、わたしの我執の閉じ込む力が、閉じさせてはおかぬ大悲の願力を呼び覚まして南無阿弥陀仏と響く。そのときまさしく流れ輝いているいのちが、信心です。それには項をあらためましょう。
信心
さていよいよ信心、いのちのおしえの核心です。
日常語で信心あるいは信仰と言えば、わたしが宗教的な何かを信じ尊ぶこと、あるいは少し悪意をこめれば偏狭に思いこむこと、という意味でしょう。ところが親鸞聖人にとっての信心はそれとは正反対になります。
三心一心という論題があります。経典や論書に、あるところでは三心と出、あるところには一心とある。どうつじつまを合わせればよいか、というテーマです。
三心の出発点は、『仏説観無量寿経』に
もし
とあることです。どうしたら往生できるかというのは大問題ですから、この箇所には古来たくさんの考察が加えられています。
ところで、『仏説無量寿経』の第十八願の文は
たとひわれ
となっています。『観無量寿経』の三心を承けて、ここにも至心・信楽・欲生を三心と見ます。至心:至誠心、信楽:深心、欲生:回向発願心と対応し、真ん中の信楽(深心)がより直接信心に当たります。
そのような背景の上で、親鸞聖人ご自身が
と問題提起されているのです。一心で信心が考えられており、簡単に言えば、「本願には三心とあるのに、信心ひとつでいいのか」ということです。
その問いのもとに至心・信楽・欲生それぞれに対する聖人のご自釈が続きます。要点を抜き出して並べてみましょう。
まず驚かされるのは、至心・信楽・欲生のすべてが如来へ返されていることです。わたしの出る幕がなくなっている。はなから大信(如来のはたらきとしての信)とされている以上当然と言えば当然なのですが、常人にできる解釈ではありません。
そして、三心ともに「
結局、信心は流れなのです。大悲のいのちが、このわたしに対して至心と流れ込み、信楽と満たして、必ず浄土へまいれとの欲生の余韻を残して流れ帰る。至心信楽欲生は別のものではなく、信心という一連の流れの三相だったのです。流れが流れとして通じた以上、そこに疑いの
いのちの流れが信心ですから、信心はそのまま歓びです。そしてわたしの身体が物質の流れであったように、わたしの我執のすがたそのものが実は浄土へと引き込む大悲のいのちの流れ、すなわち信心だったのです。それに気づかされるならば、我執が我執としこる縁の尽きたとき、そのまま大悲にいだかれて一如のいのちへとくとろぎ広がっていくのは必然です。
わたしの生(迷い)に即して言えば信心、生の終りに即して言えば往生。信心と往生は同じできごと、つまりこのわたしにおいて現れた大悲のいのちの流れ、すなわち誓願の力にほかならない。
漠然としたアニミズム的ないのちが真にいのちのおしえとなるには、涅槃という契機が不可欠でした。涅槃という昇華を経て、いのちは「ひとつ」いのちと現れるのです。浄土教において、涅槃は往生へ写し取られた。さらに親鸞聖人によって、往生は信心に先取りされることになります。
ということは、信心は一面で断絶です。
三心のうちの深心に、善導大師が詳細な註釈を加えられていて、その冒頭部分を二種深信といいます。信巻への引用文で参照しましょう。
不用意に読むと、一方で救われようがないと信じ、他方で必ず救われると信じるわけですから、矛盾しているように思えます。深い断絶はありますが、矛盾はありません。第一の深信と第二の深信が同じ土俵に乗っていないからです。わたしは、わたしの力ではいのちを完結しえない。だからこそ大きないのちのはたらきが間違いなく姿を現す。
信心は、わたしの内にあるのでも如来の側にあるのでもなく、むしろこの断絶そのものなのです。断絶においてこそ流れるいのちとして現れる。わたしの迷いのいのちが本来破れたものであるがゆえに、信心という流れを通じて、大悲のいのちが誓願という力として顕現するのです。
感動の項での記述といくぶん重なります。というより、信心というできごとを意識しつつ、仏教そのものを表に出さずに表現すると感動になるのです。逆に言えば、ただの感動では救いにつながりません。信心は、わたしが宙ぶらりであることそのことがいのちの大きなはたらきの中で不可欠と位置づけられることですから、まさに救いそのものです。
もし信心という用語に語感上で抵抗があるなら、これまでの話をすべて含めた上で、いのちと言い換えていただいて構いません。全体としての一如・一心、流れとしての大悲(より具体的に往相・還相)、平衡としての名号、そしてそこに現れる力としての誓願すべてに通じて、信心こそいのちなのです。
すべての仏教が直接信心を説いているわけではありません。しかし仏教は智慧・慈悲伴った世界で、もし智慧に偏った仏教があるとするならば、それはもっとも悪しき意味で小乗です。大乗の世界ではむしろ慈悲が表に出る。全体へと開き壊す方向が智慧なら、そこから還って迷いに寄り添うのが慈悲です。智慧に裏打ちされた大きな慈悲、大悲こそ、宇宙大のいのちです。大悲のいのちとこのわたしの迷いのいのちとの間には、わたしの方からは超えようがなく、大悲の側からは超えずにはすまない、大きな断絶がある。そこに関わる何ごとかを信心ととらえる限り、信心に触れていない仏教はありません。
ですから、すべての仏教はいのちのおしえです。中でも親鸞聖人の仏教こそ、いのちをもっともダイレクトにとらえた仏教なのです。
誓願一仏乗
以上で肝要の話は終りました。少し余韻を楽しむために、『仏説無量寿経』の世界を簡単に紹介しましょう。
親鸞聖人が大切にされた『仏説無量寿経』は、*浄土三部経の中ではもっとも大部で、上下二巻から成ります。そのため真宗内部では『
* 法然上人の選定で、『仏説無量寿経』のほか、『仏説観無量寿経』と『仏説阿弥陀経』の三部を言う。
『大経』には、概略、阿弥陀仏の成仏の因果と衆生の往生の因果とが説かれています。ただそれら二つの因果は並列対等ではなく、衆生往生の因果はそのまま弥陀成仏の果徳に
弥陀成仏の因とは、阿弥陀仏がまだ法蔵菩薩であったとき、一切衆生を救わんと願を建てられたことを指します。ここにいわゆる四十八の本願が出てきます。そして
成仏された阿弥陀仏のはたらきの様子はきれいに三種に分れていて、どのような仏として成仏なさっているか(
「なるほどなあ」という思いでたどっていると、次第に『大経』のすべてが四十八の本願の成就したすがたにほかならないことが実感されてきて、右も左もどっちを向いても見えるのは現にはたらいている本願のみという感覚に襲われます。
いわゆる麗しい世界として描かれている浄土の風光を指してだけではありません。いや、それはそれで摂国土の願の成就ですから本願に帰れますが、それ以上に、生々しく記述されている迷いの衆生の姿がすでに本願に照らされているもののように見えてくるのです。すべての衆生がひとつのいのちにつつまれた、その限りで菩薩と輝かされている世界。まさに真の大乗が実現している世界です。
それは極楽浄土のみの話でありません。まだ浄土に往生していない者、浄土の教えにそっぽを向いている者まで含めて、本願のはたらきの内にあるのです。本願が実現して建立されているのが浄土ですが、実は本願は浄土をはみ出している。
親鸞聖人は、その全貌を誓願一仏乗と喜ばれています。
* 二乗は声聞乗・縁覚乗、三乗はそれに菩薩乗を加えた三種。衆生を能力、素質に応じてさとりへ導く教えを乗り物に喩えたもの。
ただ、そうすると問題は振り出しへ戻ってしまうおそれがあります。「一切はすでに本願のはたらきの内にある」を不用意・安易に受けとめると、密教あるいはアニミズムとの区別がつけられなくなります。浄土があいまいになったら、往生も信心もひいては涅槃も空虚な話になりかねない。
実際、心地よく『大経』を読んでいると、ふと自分がどこにいるのか見失ってしまいそうになるときがあります。
どこでこのわたしは本願の世界とつながれているのか。
心細くなって願文に戻ってみれば、多くは「国中人天」と浄土に往生した者を対象とされた願で、「十方衆生」と迷いの衆生に直接しているのは第十八願の他に第十九・二十願の合わせて三つしかありません。そんな中ではっとさせられるのが、第十八願のみ、最後に「
* 五種の重罪のこと。五逆罪ともいい、また無間地獄へ堕ちる業因であるから五無間業、五無間ともいう。一般には小乗の五逆をあげて示す。①殺父。父を殺すこと。②殺母。母を殺すこと。③殺阿羅漢。阿羅漢(聖者)を殺すこと。④出仏身血。仏の身体を傷つけて出血させること。⑤破和合僧。教団の和合一致を破壊し、分裂させること。大乗の五逆は①搭寺を破壊し、経蔵を焼き三宝の財宝を盗むこと。②声聞・縁覚・大乗の教えをそしること。③出家者の修行を妨げあるいは殺すこと。④小乗の五逆。⑤因果の道理を信じず、十の不善の行をすること。
唯除の文は、このわたしを突き放す文なのです。わたしはわたしの現実に、わたしが首をつっこんでしまっていて離れることのできない迷いの小さないのちへ、突き返される。
なにがしかすでに菩薩で、潜在的にであれ浄土に(つまり真の大乗世界に)縁のある者が、意地悪く冷たく追い返されるのではありません。阿弥陀仏の側からすればすでにこれだけ豊かないのちの世界が実現されているのに、われとわが小さな迷いの生にしがみついて大きないのちの願いに背を向けているわたしのほんとうの姿を、知らされるのです。
大悲のいのち、信心のいのち、誓願のいのち。唯除の一文によって、いのちのおしえがまさにこの私目当てであることが、いよいよ明らかなのでした。